小説家、劇作家。1973年11月4日、加賀金沢に彫金職人泉清次の長男として生まれる。本名、鏡太郎。江戸加賀藩邸おかかえの太鼓師の娘だった母から草双紙を読み聞かせられる。9歳で母と死別。12歳でアメリカ人の経営する北陸英和学校に進み、英語を勉強する。15歳で金沢専門学校(第四高等学校)を受験するが、数学がまったくできずに不合格。翌年、尾崎紅葉の『二人比丘尼懴悔』に感激、文学を志す。
17歳で上京するが、紅葉を訪ねる勇気がなく、下宿を転々。翌年、友人の紹介で紅葉に入門、内弟子となる。20歳から紅葉の口利きでさまざまな筆名で小説を発表するが、亞流の域を出ない。この頃、生家の焼亡と父の死にあう。
1895年、社会的弱者の不幸や強者の頽廃を硯友社流の文体で描いた「夜行巡査」「外科室」で注目を集め、翌年、「照葉狂言」を発表。花柳界小説と怪奇小説で読者をつかみ、1900年には代表作「高野聖」がある。作品が次々と舞台化される。
1903年、紅葉が亡くなり、おりから台頭した自然主義小説のために、硯友社流は時代遅れと見なされる。鏡花にはもともと神経症的な部分があったが、不遇意識から症状がひどくなったといわれている。この頃、やはり自然主義から排斥された漱石の知遇をえ、「スバル」や荷風の「三田文学」から先達と仰がれるようになる。1910年、「歌行灯」と「国貞えがく」で再び注目される。以後、偉大なるマンネリズム時代にはいるが、1924年には後期の代表作「眉かくしの霊」を発表。「夜叉ヶ池」「天守物語」など劇作も多い。
同時代人からはアナクロ、マンネリの二語で片付けられていたが、自然主義やプロレタリア文学は忘れられたのに、鏡花は読みつがれている。戯曲ももっとも先鋭的な演劇人が今も上演している。古典は長持ちするということもあるが、鏡花の場合は文章が強かったのである。
1939年、66歳で死去。
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