内田百

(ウチダ ヒャッケン)

生涯

 エッセイスト、小説家。1889年5月29日、岡山市に、老舗の造り酒屋の一人息子として生まれる。本名は栄造。祖母に溺愛されて育ち、14歳から琴を習う。16歳で父が亡くなり、生家が傾く。岡山第六高等学校に進み、俳句に親しむ。百の号はこの時のもの。1910年、東京帝大独文科入学。かねて私淑していた漱石を長与病院に訪ね、門弟となる。早く結婚したことから、漱石の校正をまかされる。後に漱石全集の編纂にもあたり、文字遣いと仮名遣いの見識を深め、正字正仮名を貫く。

 卒業後、岡山から没落した一家をよびよせ、陸軍士官学校、後に砲工学校でドイツ語教師をつとめる。海軍機関学校、法政大学を兼任するが、生家の借財を返せるはずはなく、「大貧帳」ものにつながる高利貸し体験を重ねる。この頃、宮城道雄の亊に感動し入門。飛行機にも凝る。

 1922年、幻想掌編の連作を発表。翌年、第一創作集『冥途』。1925年、陸軍を休職(後に依願退職)し、家族を棄て、早稲田の下宿で贅沢貧乏の生活にはいる。1928年、「百鬼園先生言行録」をかわきりに随筆に手を染める。1933年、『百鬼園随筆』。1945年5月、戦災に遇い、1948年まで掘っ建て小屋に住む。黒澤明の『まあだだよ』はこの時期を描く。

 1950年、特急に乗るだけのために大阪に行き、「特別阿房列車」を書く。1952年、『阿房列車』。以後、『第三阿房列車』まで書きつぐ。1957年、愛猫ノラが失踪、一連のノラものを書く。1967年、芸術院会員に推挙されるが、「いやだからいや」と断る。

 初期の小説は『夢十夜』の影響の濃い夢のスケッチだったが、しだいに独自色をあらわし、戦後の「サラサーテの盤」にいたる。随筆は漱石のもう一つの面である俳味を受け継ぎ、何度読んでも尽きないおかしみを生んでいる。

 1971年4月、82歳で死去。猫と鉄道と飛行機と御馳走を愛した生涯だった。

作品

『百鬼園随筆』
 百の随筆集は後人がテーマ別に編纂したものが多いが、これは第一随筆集をそのまま文庫化したもので、粒がそろっている上に、百自身が工夫した配列のおもしろさが味わえる。借金自慢、乗物マニア、幼時の記憶、食通と百のテーマが一通り出そろっている。
『第一阿房列車』
 「阿房列車」と書いてアホウレッシャと読む。「ヒマラヤ山系」こと国鉄のPR誌の編集者氏をお供に、列車に乗るためだけに旅をするという異色の紀行エッセイの第一作。読むべし。

(C) 2000 Kato Koiti


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