今月は各誌とも、昨年12月に亡くなった中村真一郎の追悼にページをさいている。石川淳と同じく、最期まで現役の作家だっただけに、「すばる」に未完の中編「老木に花の」が、新潮に『木村蒹葭堂のサロン』の第二部第九章が遺稿として掲載されている。
『木村蒹葭堂のサロン』は連載途中であるが、すでに第三部をふくむ全編が脱稿していて、年内に刊行されるらしい。『頼山陽とその時代』、『蠣崎波響の生涯』につづく本作を完成させておいてくれたことは、後進の本好きにとって、最大の贈り物である。
「老木に花を」もすごい。「苔の衣」という鎌倉時代に書かれた擬古物語を現代語に訳しながら、随所に感想をはさんでいくという批評とも、小説ともつかない趣向をとっていて、あきらかにナボコフの Pale Fireを意識している。古典のお勉強のように思うかもしれないが、中村のことであるから、そんな辛気くさいものを書くはずはなく、七十翁の性的遍歴(!)をエロティシズムあり、諧謔あり、他の作品との対比ありで描いていて、思わず読みふけってしまった。中村が「頽唐期に共通する文学現象」と呼ぶ委曲をつくした、うねうねつづく文体には目をみはった。これは傑作である。
あと一日で完成したらしいが、ぶつっと切れた終り方は余韻を引く。中村は絶妙のタイミングで亡くなった、などと書いたら顰蹙をかうだろうか。
追悼文の中では小田実のもの(「新潮」)が目を引いた。芸術至上主義の中村真一郎とベ平連の小田実という組み合わせはミスマッチの極致のようだが、小田は少年時代、大阪の焼け跡で『死の影の下で』を読み、感動して中村に手紙を書いたところ、返信が送られてきて、それが縁で五十年以上にわたる交友をもったという。
小田と『死の影の下で』(第一作だけ講談社文芸文庫で読める)もミスマッチな印象をうけるが、『サテリコン』で話があったというところで、やっと合点した。奇態なまでに欲望を解放した『サテリコン』を間におけば、よくわかる。中村にはこういう一面もあったのである。
「群像」では今月から刊行のはじまった『埴谷雄高全集』にあわせて、埴谷を特集している。対談はいまいちであるが、鶴見俊輔の「『死霊』再読」はおもしろい。
ユリイカが増刊号で北野武を特集している。映画監督としてのたけしだけではなく、お笑いの方もちゃんとおさえていて、漫才の相方だったビートきよしの談話や出演した主な番組の一覧(コメントが楽しい)も載っている。こういう雑誌は買っておいた方がいい。
今月はばたばたしているうちに月末になり、『剣と寒紅』の出版差し止めのニュースが飛びこんできた。
『剣と寒紅』は三島由紀夫に師事し、一時はホモセクシュアルの関係にあった福島次郎氏が書いた回顧で、今月の「文學界」に前半の二章が掲載された後、すぐに全編を収録した単行本が文藝春秋社から出版された(13日には店頭に並んでいたと思う)。後半の二章には著者にあてた三島の未公開書簡15通が、遺族に無断でそのままの形で引用されており、今回の仮処分をまねくことになった。
文藝春秋社側は、著作権を口実に三島由紀夫の文学を解く性的な鍵を隠そうとするものだと抗議声明を出しているが、あのような書簡の公開を遺族が承諾するはずはなく、おそらく、こうなることを予期した確信犯的な出版だったと思う。アンダーグラウンドで出回るよりはよかったかもしれない。
まだ前半をざっとながめただけだが、その限りで言えば、作品としての価値を云々するほどのものではないと思った。三島由紀夫ファンにとっては重要だろうが、特に思いいれをもっていない人間には陰々滅々なだけである。
村上春樹が「文藝春秋」で『ポスト・アンダーグラウンド』の連載を開始した。『アンダーグラウンド』はサリン事件の被害者の聞き書きだったが、今回はオウム信者の側の聞き書きである。
村上は今回の連載をはじめた動機として、前著では意図的にオウム側の視点を外したために、「『視点が一方的だ』という批判を一部で受けた」ことが影響していると書いているが、ちょっと違う。
確かにそういう意味で「視点が一方的」と批判した人もいたかもしれないが、多くの論者は、インタビューに答えている人たちが村上の小説の登場人物と同じ顔で描かれていると批判していたと思う。個別の顔を描こうという意図とは裏腹に、金太郎飴になってしまったのだ。
今回のインタビューは、相手が直接の加害者ではないにしても、オウム事件に加担した人間という気安さのためか、疑問を率直にぶつけていて、一種の対話が成立している。腫れ物にさわるようだった前著とはずいぶん違う。
この違いは重要である。まだ登場したのは二人だけであるが、二人の個別の顔が浮かび上がってきているからだ。
もっとも、今回登場の二人は、教団に対する距離は微妙に異なるとはいえ、印象が金太郎飴化しているのも事実だ。しかし、それは本人たちが金太郎飴化しているからであって、人間がそこにいるというリアリティがあるし、世間がどんなに騒いでも、オウム内部は台風の目の中のような静けさを保っているという機微もよく伝わってくる。
村上は「日本社会というメイン・システムから外れた人々(とくに若年層)を受け入れるための有効で正常なサブ・システムが日本には存在しないという現実」は変わっていないと書いている。
今、日本では護送船団方式の破綻が言われ、ビッグバンが語られている。護送船団方式は銀行だけではなく、人間も縛っていた。ビッグバンが必要なのは、人間も同じなのだ。最近のキレる中学生とオウムは同根なのである。その意味でも、村上の連載は注目に値する。
連休前でばたばたしていたこともあるが、ヘンリー・ジェイムズのこくのある小説をまとめて読んだために、今月は今出来の小説を読む気になれなかった。
こういうページをはじめた以上、なにかを読まなければならないので、対談を二本読んだ。保坂和志氏と阿部和重氏の「小説家の思考」(「群像」)と、黒井千次と三浦雅士の「失われた青春」(「文學界」)である。
前者は予想通り、まったく話がかみあっていなかった。相手の作品に無関心な同士が、雑誌の企画でたまたま対談することになってしまって、間がもてなくて困っている様子である。
正統と離れたところで対立しているとあるが、それは安部公房と三島由紀夫、村上龍と村上春樹も同じだった。しかし、安部と三島も、両村上も互いの作品に強い関心をもちあっていて、いい意味でライバル同士だったが、保坂氏と阿部氏の場合はそうではなさそうだ。編集部としては、両村上の次はこの二人という読みがあるのだろうが、ライバル関係が成立する時代はもう終わったのかもしれない。
一方、黒井氏と三浦氏の対談はとてもよく噛み合っていたが、噛み合うというよりは「最近の若い者は……」という老人クラブ的な部分で意気投合したと言った方が適切だろう。いろいろな話題が出ているが、要は町田康氏に対する老人の戸惑いを語っていると思えばいい。
村上龍以降、日本の小説から青春が消えてしまったとあるけれども、実際は黒井氏や三浦氏の考えるような「青春」が消えただけであって、両村上も町田氏も立派な青春小説を書いている。左翼が自滅した今、理想を信じて、明るい未来のために献身しようという若者はもうオウム信者ぐらいにしかいなくて、それはそれで結構なことである。理想などという病的な観念に頼らなくても、社会に対する否定は可能で、それが村上龍や町田康の小説を青春小説にしている。
もっとも、町田氏の小説は、文芸誌の業界でこそ新しいかもしれないが、演劇の世界では大人計画やナイロン100℃がすでにやっていることで、文芸誌が遅れていたというにすぎない。
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