前半は読書に関するエッセイや講演をあつめた実践的読書論。本の探し方や選び方、管理法のハウツーを具体的に語っている。一般人はもちろん、大半の物書きにとっても規模が違いすぎるが、役に立つハウツーも多い。
本書のクライマックスは書庫兼仕事場としてビルを条である。そのビルは地下一階・地上三階で、外壁一面に黒猫の絵が描いてあることから「ネコビル」と呼ばれている。オーディオ評論家の長岡鉄男氏が「方舟」という理想のリスニング・ルームというか鉄筋コンクリートのビルを建てたのに匹敵する快挙だが、筆一本で建てるのだからなまなかのことではなかった。ネコビル完成までの悪戦苦闘は感動的である。
方舟の場合、全国の長岡鉄男ファンが方舟そっくりのビルを次々と建てたが、ネコビルでも同じことが起こるだろうか。
後半は週刊文春に五週間に一度連載している「私の読書日記」をまとめたものだが、ゲテモノ本が大半をしめる。悪食というべきか、知的健啖というべきか。立花隆はノンフィクションは文学よりおもしろく、なまの現実はさらにおもしろいと書いているが、ああいう本ばかり読んでいたら気持ちがささくれだってきそうだ。しかし、立花の筆は楽しそうに躍っている。よほど強靱な知的胃袋を持ちあわせているのだろう。
著者の主宰する「自由大学」の講義録はこれまでに約9冊出ているが(再版時に合本になったものがある)、内容的には玉石混淆だった。力のこもった講義がある半面、中味のない手抜きもまま見受けられた。
第4集としてでたこの2冊は、日本の近代化を再検討した 12篇の講義すべてがおもしろく、いずれも啓発される内容を含んでいる。通説を大胆に覆した刺激的な研究が一望できるという意味でも、この二冊は読んで損のない本である。
森有礼の教育改革をフーコー的視点から見直した吉見俊哉の「「道具」で責められた日本人」、明治に勃興した神道系新興宗教を論じた鎌田東二の「「神」はいかにつくられたか」、浪曲「次郎長伝」を手がかりに制外の民の活動に光をあてた平岡正明の「日本は死ななきゃ治らない」は特におもしろい。こういう刺激的な研究が、わかりやすい言葉で語られ、しかも新書という形で本になるのはすごいことだ。
経済学は現実には役に立たないとする見方が根強くあるが、著者はケインズ流の赤字予算が景気回復に結びつかない理由をクラウディング・アウトという概念で説明し、経済学が有効であるゆえんを説いているが、本書の勘所はもう一つある。現在進行中の第二次情報革命によって、これまで机上の空論と見られてきたボーダレスの完全競争市場が現実のものになろうとしているという指摘である。価格比較サイトの猛威を考えると、古典派経済学の教義が理想としていた「完全市場」が現実性をもちはじめたという見方はあたっていると思う。
この展望のもとに、著者は現在の日本の危機は官僚機構の腐蝕に原因があると一刀両断する。
コンピュータの歴史を述べた本では、パソコンやUNIXはカリフォルニアのカウンターカルチャーの風土から生まれたものの、最後には商業主義に飲みこまれたと結論づけるのが常だったが、どっこい、カウンターカルチャーはネットワークの中に生きていた。インターネットこそ、カウンターカルチャーの申し子だからだ。
本書はインターネットを産み、育てたカウンターカルチャーに光をあてた本で、そのバックボーンをなすイリイチの convivalityという概念(「自立共生」とか「自律共生」と訳されてきた)に、著者たちは「共愉」という訳語を提案している。いっしょに楽しくわいわいやるというネットワークの基本精神をおさえた表現で、本書のねらいはこの造語につくされているといっていい。
インターネットでどうやって儲けるかとか、バスに乗りおくれないようにするにはどうしたらいいかといった昨今の議論にうんざりしている人にお勧めの本である。
網野善彦の名著『蒙古襲来』は、元寇から南北朝にいたる激動の百年間に、悪党の誕生という新しい視点をもちこみ、建武政権像を根本から書きかえた力業だったが、本書は網野の業績をふまえた上で、最近の研究成果をとりこみ、鎌倉末期の転換を宗教勢力の交代という視点から描きだしている。
この時代、神風が吹いたことで神々に恩賞があたえられたとか、多重にいりくんだ荘園の権利関係が整理され、一円支配がすすんだとかは網野の本でも指摘されていたが、本書は神領興行法に注目することで、網野の本ではもう一つ見えにくかった古代社会の解体過程がくっきり浮かびあがった。
本書は宇佐八幡宮内部の権力闘争を縦糸にしており、小著ながら中世人の体温を感じさせる具体的なエピソードに富んでいる。
昨年の10〜12月、「群像」巻末の創作合評という鼎談に出席させていただいたが、その時とりあげた一編が雑誌に発表されたばかりの本作だった。合評の席では黒井千次氏、三浦雅士氏とも絶賛に近い評価だったが、単行本になってあらためて読んでみると、複雑な味わいの小説だと再認識した。
地方の病院で勤務医をしている一家の三人姉弟と、東京から一族の故地にもどってきた一家の三人兄妹の交友の話で、真中の中学一年生の男の子どうしのつきあいを中心に、多感な日々がユーモラスな筆致で描かれていて、思わず微笑をさそわれるエピソードが多々ある。これこそ小説の醍醐味である。
少年が主人公だし、短く章分けされていて、気持ちよくふわっと読めるのだが、子供たちの日常の向うに地方都市に住む大人の生活が透けて見えてきて、読んでいる間も、読んだ後も、いろいろなことを考えさせられる。はったりだけの小説が横行している現在、こういう作品があるということは救いである。
EMというのは「有効微生物群」の略で、人間の役に立つ微生物80種あまりをブレンドして使うと、たがいに助けあって働き、生ゴミや家畜の糞尿が悪臭を発することなく堆肥になったり、河川が浄化されたりと、奇跡的な効果をあげるとされている。ゴミ問題と農業問題と環境問題がいっぺんに解決されるという結構な発明で、当然、毀誉褒貶はなはだしいものがあり、最近も、EMはまったく効果がないという記事がAERAにのっていた。
ものはためしとEM堆肥(ボカシあえ)を去年、今年と二度つくってみた。ベランダのプランターに入れるだけなので、生ゴミ二週間分をボカシあえにしただけだが、本にあるように、アルコール臭がわずかにするものの、生ゴミ特有の腐臭はなく、プランターの中に埋めておくと、一ヶ月でふかふかの土に変わっている。堆肥にする段階までは、再現性があると思う。
ただし、その堆肥が著者の主張するような奇跡的な効果をあげるかどうかについてはわからない(普通の堆肥程度だ)。
立花隆氏が東大先端技術研究所に埋れていた「ガラクタ」の価値に気づき、学生たちと先端研探検団を結成し、宝探しをつづけているという話は科学朝日などで御存知の方も多いと思うが、これはその第二回報告書。東京堂のレジに積んであるのを偶然見つける。A4版54ページで、いかにも研究会の会報という感じだが、カラーの口絵がはいっている。次の週にいったら、もうなかった。第一回報告も売り切れらしいが、先端研探検団のホームページで読むことができる。
戦争前夜、日本の航空技術は空前の進歩をとげ、ついに零戦や紫電改のような当時のレベルを越えた名機を生みだすが、それにいたるステップとして、「神風」号や航研機による無着陸飛行の世界記録達成があった。今回はその航研機関係の試作エンジンや文書資料、そしてなんとフィルム資料まで見つかったという話が主軸となっている。
零戦や紫電改の開発物語を読んだことのある人間には、「おお!」「えっ!」の連続だが、そういう方面にうとい人にはなにがすごいのかわかりにくいかもしれない。ここにあるのはあくまで素材であって、一般読者向けに書かれたルポルタージュではないからだ。
批評家というと怖い人というイメージがあるみようだ。それは小林秀雄が日本の代表的批評家になってしまったことに原因があって、小林を神様のように拝んでいる人たちは、みんな小林をまねて肩をいからせ、求道者ぶりを誇示しようとしているように見える。最近は批評=哲学と勘違いしている人が増えて、哲学的求道者になったつもりの人がすくなくない。小林秀雄流の美的求道者だって暑苦しいのに、哲学的求道者にいたってをや。
こうした哲学批評全盛の風潮の中にあって、著者の哀感と滑稽味にみちた批評は異色である。著者は怒るのではなく、ぼやくのだが、とめどないぼやきにつきあっていくうちに、難解をもってなるジョイスやボルヘスが本当はすごく楽しいやつだということがわかってくるし、小林秀雄だって愛すべきもう一つの顔をもっていたことに気がつく。
原題を直訳すると「一週間で独習できるHTMLによるWeb出版」で、HTMLの解説として定評のある本だが、正続で千ページ近い大冊である、分量が分量だけに、日本人の書いた箇条書き風の入門書でお茶をにごし、これはと思うページのソースを見ることで、行き当たりばったりにサイトをつくってきた。
だが、ページが増えてくるにしたがい、疑問がたまってきたし、行き当たりばったりでは心もとなくもなってきた。そこで、ためしに読みだしたのだが、おもしろいくて、千ページをあっという間に読んでしまった。
基礎から体系的に書いてあるので、見通しがいいのだ。疑問がつぎつぎと解けたし、あちこちで誤解していたこともわかった。アメリカのマニュアル文化のすごさをあらためて知った。
もちろん、重くて値段のはる本だけに、流行だからホームページでもつくってみようかという人にまでは勧められない。しかし、WWWでの情報発信を本気で考えている人は一度読んでおくべき本だと思う。
1985年に行われた臍曲り生物学者ふたりの対談の文庫化。題名からすると、恐龍から鳥が進化する道筋を議論した本かなと思ったが、そういう話はまったく出てこない。恐龍の話題はほんのすこし出てくるけれども、大体は昆虫とヒゲの話だ。その点を別にすれば、おもしろい対談になっている。
特に、たがいに相手をさぐりあっている前半部分がギャラリーとしてはおもしろかった。どちらも昆虫マニアで、オーストラリアで研究生活をおくったという共通のバックボーンがあるのだが、それこそ甲虫が触角で相手の虫をチョコチョコさわって、値踏みするような具合なのだ。後半になると、おたがい気心が知れてしまって、ざっくばらんな業界人どうしの会話になる。科学者としてはかなりきわどい話をしているらしいのだが、素人にはよくわからず、もどかしい。
意外だったのは、柴谷氏が角田忠信氏の日本人の脳は他のアジア人や欧米人とはちがうという説を高く評価していることだ。角田説は、再試ができないので、学会ではトンデモ本のあつかいになっているという話を読んだ記憶があるが、どうなのだろう。
インド洋にココヤシ栽培とヤシの実油搾りを唯一の産業としていたココス島という絶海の孤島がある。人口わずか600人ほどの小さなサンゴ礁の島だが、北ボルネオのサバ州にはこの島出身者が集住する村がいくつもあって、島の人口の数倍の元ココス島民がいるそうだ。
ダーウィンの乗ったビーグル号が立ち寄ったこともあるというが、島の歴史は150年前、東インド会社の幹部だったイギリス人が、金で買い集めた多くの妾をつれて移住した時点にはじまる。絶海の孤島でハーレムをいとなんだイギリス人はオランダの植民地当局に召喚されて島を去るが、置き去りにされた妾と子供たちは、遅れて家族とともに入植してきたスコットランド人(例のイギリス人の雇われ船長だった)のココヤシ農園の労働力に雇われ、スコットランド人領主を頂点とする一種の階層社会を形成しながら、しだいにココス島民としてのアイデンティティを育てていく。
『百年の孤独』のマコンドみたいな島だと思ったが、マコンド自体、中米のプランテーション開発でできた村がモデルだそうだから、こういう成り立ちの共同体は植民地支配の行われた地域では珍らしくないのかもしれない。
歴史紀行としておもしろいのであるが、残念なのは、著者が執筆半ばで他界したことだ。本書の後半には、ココス島にふれた著者の講演や論文を収録して、欠を補っているが、いわゆる市民運動家臭い文体で興をそがれる。前半の瀟灑な文章のまま完結してほしかった。
Viewsに連載中の「インターネットはどこでもドア」の1〜5回に、対談二本を足して一冊の分量にした本である。5回までというのは切りが悪いような気もするが、ブームが終わらないうちに本にしたいという版元の思惑が働いたのだろう。
インターネット関連の本は書店に山積みの状態だが、本書がユニークなのはWWWを「インターネットがはじめて生んだまったく新しい情報メディア」と位置づけ、ここに話を集中していることだ。
著者が取りあげるのはNASAをはじめとするアメリカのサイトばかりである(日本のサイトは、わずかに東京トップレスが紹介されているくらいか)。NASAは百人、ホワイトハウスは二百人のスタッフが専任でメンテナンスをしているそうで、実際、情報の質・料とも圧倒されるものがある。政府機関をチェックする民間の活動も活発で、CIAやNSAを監視するサイトも厖大な情報を蓄積し発信しているし、大統領候補をおちょくるサイトも、単なるからかいではなく、政策内容にふみこんだ議論をしている。
ただ、『宇宙からの帰還』(中公文庫)や『アメリカ性革命報告』(文春文庫)、『ぼくはこんな本を読んできた』の著者だからここまで夢中になれたという面はあると思う。アメリカの科学分野や政治方面の情報がすごいことは本書にあるとおりだが、著者の関心の範囲に現在のインターネットがたまたま合致していた点は否めないのではないか。著者が興味を失ったという文学に関しては、現状ではなにもないに等しいのである。
併録の対談は村井純氏とのものと、電通総研の福川伸次氏とのものがはいっているが、前者の方が格段におもしろい(後者の福川氏はまとはずれな相づちをうつだけで、対談の態をなしていない)。この対談は週刊現代にのった時に読んでいるが、本書に収録されているものは生テープから原稿を起こしなおしたということで、分量的に相当増えている。その増えた部分がおもしろいのである。
鎌倉新仏教が生まれようとしていた直前の時代、真言宗に革新の動きがあった。覚鑁による新義真言宗の成立である。
空海没後、高野山は何度も荒廃に帰したが、とりわけ教学の低迷は著しく、中世荘園領主として再興した平安末期においても昔日の面影はなかった。高野山だけではなく、真言宗全体が低迷していたといった方がよく、空海の厖大な著作も散逸しようとしていた。
その危機にあたって現れたのが覚鑁である。覚鑁は真言教学を復興するとともに、数々の儀式次第(講式)を確立し、二派七流にわかれていた相伝の統一をもはかった。真言宗中興の祖といわれるゆえんだが、高野山守旧派はこれをよろこばず、座主にまでなった覚鑁は山をおりて、根来に移らねばならなくなった。以後、真言宗には東寺=高野山の古義と、根来を拠点とする新義のふたつの流れが並立することになった。
本書は覚鑁について一般読者向けに書かれた最初の伝記だが、おもしろい材料がたくさんあるはずなのに、十分いかせているとはいえない。覚鑁の人物像がなかなか動きださず、やっと動きだしたと思ったら、小説が終わってしまう。高野山を出なければならなかった前後の事情は、小説的においしい部分だと思うが、数行で片づけるのは手抜きではないか。覚鑁や覚鑁をとりまく人々、覚鑁を迫害した守旧派の顔がさっぱり見えてこないし、念仏行者と密接なかかわりがあったはずの真言律宗についてまったく言及がないのも解せない。その反面、不必要なくりかえしが多い。本書は覚鑁850年忌にあたり、新義真言宗豊山派から依頼されたのが執筆のきっかけということだが、義理で書いたのではないかと勘ぐりたくなる。
ただ、そうはいっても、高野山の僧兵に迫害された覚鑁が、後に信長や秀吉を恐れさせることになる根来衆の祖となったという歴史の皮肉は伝えている。本書にはふれられていないが、根来寺は家康と同盟したために、秀吉の焼討にあうが、徳川の世になると公儀の保護をうけることになる。関東一円に豊山派の寺が多く、今日、一大勢力となっているのは、覚鑁を悩ませた僧兵の活躍のおかげなのである。