この本はかなり前に読み終えていたのだが、いろいろな人たちが書評を発表しているので、今さらと思い、とりあげなかった。書評以外でも、「群像」は先月号、今月号と二本づつ『アンダーグラウンド』論を載せているし、「文學界」は今月号で、五人の若手ノンフィクションライターに感想を書かせている。
一通り目をとおしてみたのだが、同感する部分はあるものの、肝心なことが抜けているような気がして、このページでとりあげることにした。
著者は本書を準備する前後から「デタッチメントからアタッチメントへ」とか、「社会的責任」とかと発言するようになり、一部では「転向」と言われているようである。しかし、本書が出てみて、実は全然変わっていないではないか、今までの小説の延長ではないかという見方をする人が多くなっているようである。
著者は証言者をこれ以上傷つけまいと細心の注意をはらったということであるが、そのために証言したくないという人は深追いしないとか、つっこんだことは聞かないとかという制限が生じ、インタビューも一〜二時間、それも一度だけ会うという原則を通したということである。
多くの人が指摘しているが、これでは「転向」どころか、従来の著者の小説と同じなのである。労作であり、貴重な仕事であることは確かだが、ノンフィクションというには物足りないという見方が出てくるのは当然のことだし、証言者一人一人の顔がみんな同じに見えてしまうという感想にも同感する。ここまでは他の方々の感想と同じである。
先に「肝心なことが抜けている」と書いたが、それは証言者の分布に見すごしできない偏りがある点があるという点である。
四千人の被害者のうち、インタビューを承諾した人がわずか60人だということは、著者がくりかえし注記していることだし、やむをえない面があるのは確かだ。しかし、それにしても、偏り方はある。
千代田線沿線にアパレル関係、最多の被害者を出した日比谷線沿線に印刷関係とソフト関係の会社が多く、証言者の業種が偏ったという面はあるだろう。しかし、霞ヶ関を中心にした事件なのに、官庁の役人が、義務感から証言した自衛隊幹部以外、一人もいないというのは異様だし、銀行関係など、ガードの固そうな業界の証言者も皆無である。
著者は証言者のプロフィールを紹介する際、「自分のペースで生きている人」という形容を連発しているが、「自分のペースで生きている人」、もしくは会社や役所の縛りの弱い人でなければ、こうした本に登場できなかったという事情が隠れているのではないか。定年退職後、嘱託として働いているという高齢の方がかなり多く登場しているのも、そうした背景から考えるべきだろう。
もうちょっとはっきり言うと、本書の証言者のほとんどは、もし万一オウムに入信したとしても、幹部にはなれなかったろうし、したがってサリン実行犯に選ばれることもなかったはずなのだ。
おそらく、被害を受けた役人やエリート社員の中には、オウムにはいっていたら出世していたであろう人、サリン散布を命じられたら、悩みながらも撒いたであろう人がかなりいたはずだ。本書にはそういう人たちは登場していないのである。
著者はサリン実行犯は極悪人、被害者は無垢の善人というマスコミの二分法に反発して本書を書いたと述べているが、心ならずも「極悪人」になっていたかもしれない人たちを除外し、しかもその事実に目をつぶった結果、かえって二分法を強化することになってしまったのではないかと考える。
ファンタジー作家であり、狛犬研究家でもあるたくきよしみつ氏による物書き向けパソコン活用本である(CD-ROMつき)。
最初に日本語とパソコンをめぐるさまざまな問題を手短に解説した後、このところめきめき評判をあげている araken氏作の QXエディタとそのマクロ、周辺ユーティリティの使い方を解説していて、うれしいことにライセンスつきの QXエディタが CD-ROMにはいっている。QXエディタは 3000円のシェアウェアだが、1800円の本を買えば正式に使えるのだから、お買い得である。たくきさんの解説もバランス感覚があって、説得力がある。
早速使ってみたのだが、これがすごい。縦書が実用になるのだ。縦書可能と称するエディタやワープロはもっているが、縦書モードで原稿を書こうという気にはなれなかった。重いからだ。ところが、QXエディタは縦書でもレスポンスがよく、すいすい書ける。Vzに出会って以来の感動だ。
細かい部分まで心づかいがゆきとどいている点も、Vzに近いところまでいっている。縦書ができるといっても、メールやログ、HTMLまで縦にしたいとは思わない。QXエディタは拡張子ごとに書式を設定できるので、原稿だけ縦書にできるのだ。
フリーカーソルは嫌いだったが、縦書だとフリーカーソルの方が自然に見えることに気がついた。憎いことに、QXは縦書時だけフリーカーソルを指定できる。
ずっと Mifes風にカスタマイズした Vzを使っているので、QXエディタも Mifes風にしてみたところ、すんなり移行できた。Vzの売りである範囲指定時の行モード/文字列モード自動判別もついている。ログやメールを編集する際にはぜひほしい機能なので、本当にありがたい。
子プロセスを呼びだす Shift+F2には何をわりあててあるのかなと操作してみたところ、grepなどのユーティリティが実行できるようになっていた。パラメータ指定メニューが出てきたりして、Dosのようにすっきりはいかないが、考えたものである。
ただ、不満もある。まず、文字列バッファのスタック機能がないこと。メモと本文をいったり来たりして書くというスタイルをとっているので、複数の文字列を本文に持ってくる場合、一つペーストするごとにメモにもどらなくてはならず、めんどくさいだ。
QTClipという、Win95のクリップボードに履歴機能をプラスするフリーウェアがついてくるが、ペーストするのにいちいち QTClipを呼びだし、どの文字列か選択するというのはうざったいのだ。Vzみたいにパッパッといきたいものだ。
もう一つ不満なのは、指定範囲内だけの置換機能がないこと。評論や学術関係の文書、特に文字コード問題のように専門用語を厳密に使いわけなければならない文章を書く際に、なくてはならない機能であるが、QXエディタにはない。指定範囲だけフィルターをかける機能があるんだから、置換もどうにかならないかと思う。
ファイラーがまだるっこしいとか、縦書時のカーソルが文字の上辺に来るとか(横書時は下辺なのだから、統一してほしい)、いくつか不満があるので、当面、原稿以外は Dos窓を開いて Vzという状態がつづきそうだが、日々改良しているということであるから、全面的に QXに移行する日も近いかもしれない。物書きにとって力強い相棒ができたといえるだろう。
追記: 紹介した本は古くなってしまったが、鐸木能光氏は2005年に『そんなパソコンファイルでは仕事ができない!』と『パソコンで文章がうまくなる!』を上梓している。
副題には「個人主義を支えた技術」とあるが、古代ギリシアからローマ、中世、近世と鍵の歴史に幅広く目を配っている。プライバシーの問題は、著者が鍵に関心をもったきっかけだということであるが、ローマ教皇権や都市の支配権、家の主婦権、さらには結社の団結の象徴だった歴史の方が長く、プライバシーは西欧でも、個室が普及して以降の話になる。個室が普及する以前に、鍵の技術と権威が確立していたから、プライバシーの概念がまたたくまに認知されたというべきかもしれない。
終りの方ではカフカにかなりページをさいているが(「城」Scholossは「錠」でもある!)、おもしろいのはなんといっても、最初の美術工芸史から見た鍵を紹介した部分と、中盤の権力と鍵の関係を掘りさげた部分だ。ロマネスク、バロック、ロココと様式が変遷するにつれ、鍵の持ち手のデザインも変わっていくるし、ルイ16世が鍵作りを趣味にしていたという話は想像力を刺激する。
ゾロアスター教は以前から気になっていた。火を拝むというだけでも心に訴えるものがあるが、イスラムに追われてインドに移住したグループの中からズービン・メータが出たとか、イスラム治下のイランで、ゾロアスターのともした火を三千年にわたって護りつづけているとか、話題にことかかない。松本清張の『火の回廊』も記憶に残っている。
本書はゾロアスター教を直接語ったものではなく、西欧という鏡に一度映した形で紹介している。なぜそんな回りくどい方法をとったのか。直接の資料にとぼしいということもあるが、われわれ日本人がゾロアスター教にいだく興味のかなりの部分は、西欧のオリエンタリズムに由来するからである。
西欧にとって、ゾロアスター教はひどく気になる存在だった。イエスの誕生を祝いに訪れた東方の三博士はゾロアスター教のマギ僧だというし、ギリシアの哲学者たちが敬意をはらった東方の叡智もゾロアスターの教えらしい。ソクラテス以来のヨーロッパの知を批判したニーチェがツアラトゥストラ(ゾロアスター)に仮託して主著を書いたのは、それなりの必然性があったのだ。
ゾロアスター教に対する関心が特に高まったのは、啓蒙主義の時代だった。キリスト教批判にゾロアスターを使おうという知識人たちの目論見もあるが、この時代は、ちょうど列強のインド侵略がはじまった時代でもあって、アヴェスタの写本がもたらされたりもした。誰にも読めない写本の存在に触発されて、デュプロンという青年が単身インドにわたり、英仏の抗争の中、パールシ教徒から古代ペルシャ語を学び、アヴェスタの完全な写本を入手してはじめて翻訳する話は特におもしろい。
この話には後日談があって、訳されたアヴェスタの内容があまりにも地味だったので、偽作ではないかとか、本当は古代ペルシャ語がわかっていないのではないかとか疑われたという。初訳後、60年以上たって、デュプロンのもたらした写本の正統性と翻訳の正しさが確認され、名誉回復したというが、ありがちな話である。
おもしろい本なのだが、内容に重複があったり、首尾一貫していない文があったり、意味不明の語句があったりと、いろいろ問題がある。編集者にもうちょっと介入してもらいたかった。
まず総論があり、現代哲学の身体観、近世の身体観、中世の身体観、西欧の身体観と章割りがしてあるので、体系的な本かと思ったが、そうではなく、著者の身体観というか信念を、日本の核時代や西欧にあらわれたさまざまな身体観と、総当たりにぶつけていくという趣向だった。題名はいかめしいだが、あちこちに話が飛ぶ話題豊富なエッセイとして読める本で、読了すると、ちょっとは物知りになれたかなという気がしてくる。
著者は「人工身体」「自然身体」「脳化身体」という三つの身体観をもちだするが、「人工身体」とは「科学的に分析・再構成された身体」、「自然身体」とは「現実の身体」、「脳化身体」とは「文化の中にあらわれた身体」という意味だろう。「文化」を「脳化」と表現するところに、著者の立場がうかがわれる。
著者は中世までの日本人は「自然身体」を意識していたが、江戸時代以降、「脳化社会」の徹底によって、「自然身体」、特に死体が意識から排除されてしまったと説くる。死体も人間なのだというのが、長らく解剖の現場にいた著者の信念だ。
著者の主張は明解なのだが、中世の身体観の理解には若干疑問が残る。死体を克明に観察する眼があったのは、「九相詩絵巻」などの史料から間違いないだろうが、その眼が現代の解剖学者の眼と同じだったと言いきれるかどうか。中世人は科学者的というより、マジカルな世界に生きていた可能性があると思う。具体的に反論するには、一冊本を書かなくてはならないだろう。
評判の本だが、おもしろくなかった。特に前半。多分、著者自身も、書いていてつまらなかっただろう。
理由は、予想がはずれたせいだと思う。著者は江戸時代を境にして、日本では身体が社会から排除されたと見ていて、それを実証するために『日本人の身体観の歴史』を書きたが、本書は明治以降の身体観の変遷を、文学という視点から見直してみようという趣向だ。なぜ文学かというと、文学者なら身体の排除に敏感だったにちがいないという期待をいだいていたからだという。
ところが、この目論見は当てがはずれる。中世的世界に材をとった芥川龍之介も、野性派とか身体の作家と言われた志賀直哉も、人間の自然に注目したはずの自然主義も、ことごとく心理主義の変形にすぎず、身体の排除に加担するものでしかなかったからだ。どこかで聞いたような説の羅列に終始するのも、仕方ないかもしれない。
しかし、後半、深沢七郎ときだみのるに話がおよぶと、俄然、筆が生彩をとりもどする。深沢は甲州の山村の生まれ、きだは東京生まれながらも、武州と甲州の境の山岳地帯に移住し、人間が身体を持っていることを嫌でも意識しなければならない中世以来の生活を知っていて、それが作品にあらわれているというのだ。それは、近年、注目をあつめている縄文人の生活といってもいいだろう。著者は、自身の母方のルーツがきだの移住した村の近くにさかのぼると共感をこめて書いている。著者も縄文派だったわけだ。
次の大岡昇平の章では、戦争と身体の問題を取り上げていて、なかなか興味深いだが、フィリピンの戦場で多くの死体を見てきた大岡に対しては、深沢に対してのような共感をいだいてはいない。大岡はいくら死体を自分の眼で見ていても、身体を排除する側の人間だというのだ。ここで、著者は世代論を持ちだしてきて、戦時中に子供時代を送った自分の世代は特別だと書いている。
最後の二章では三島由紀夫をとりあげている。三島はボディビルで肉体改造をはかったり、剣道をはじめたり、盾の会を結成して軍事訓練を受けたり、最後には切腹して、首を切り落とされたりしたから、身体と文学をあつかった本書のフィナーレを飾るにふさわしい作家だが、愛憎がいりまじって、論旨がかなり混乱している。普段、冷徹な文章を書く著者が、混乱を見せるところが面白いと言えば面白いだが、三島問題はまだ終わっていないということだろう。
題名からすると、日本にもピラミッドがあったとか、ヒヒイロカネとかをあつかったトンデモ系の本のようであるが、著者は結晶学を専攻する半導体材料の専門家で、趣味で古代史を勉強しているという。
最初の 2/3は木の話で、三内丸山遺跡の高さ 17メートルと推定される巨大掘立柱建造物にはじまり、五重の塔はなぜ倒れないかとか、法隆寺大工の西岡常一棟梁を話題にしているが、どこかで読んだような話ばかりで、おもしろくないだ。1996年に青森で建立された五重の塔など、著者独自の取材もはいっているが、結晶屋が木の話をしても受け売りでしかない。最新の半導体技術と西岡棟梁の言っていることがこんなに似ているとしきりに強調しているが。
しかし、後ろの 1/3は大正期までおこなわれていたタタラ製鉄の話になり、結晶屋の本領が発揮されて、俄然おもしろくなる。
インドのアショカ王の建てた鉄の柱が腐食せずに残っているのは有名だが、日本にも法隆寺の五重の塔に飛鳥時代の釘が残っていて、たたき直せば使えるそうである(昭和の解体修理では実際に再生した釘を使った)。ところが、近代的な製鉄法で作られた釘は百年もたないという。
なぜそんなことになるかというと、タタラ製鉄で作られた和鋼は高炉で作られた鉄よりも純度がはるかに高く、しかも、錆にくくする働きのあるチタンだけは高濃度で含んでいるからだ。原料の砂鉄と、炉壁に粘土を使ったことと、木炭のために 1200度くらいまでしかあげられないことが複合的に作用して、奇跡的な鉄が誕生したわけである。
最近の栄養学などでも、微量元素の働きが注目されているが、不純物の効用を根本から考え直すべき時がきているのかもしれない。
著者はアトランティスは噴火で島のほとんどが沈んだ地中海のサントリーニ島だとする説や、サントリーニ島の噴火の余波がモーセの出エジプトの際に起きたとされる天変地異(モーセの十災)だとする説など、古代史を地球科学の見地から見直す仕事をしてきた。歴史学者や宗教学者は他所者に自分の畑を荒らされるように感じるらしく、無視に近いあつかいをしているようであるが、門外漢から見ると、ひじょうに説得力があり、興味がつきない。
今回の本では、「創世記」のソドムとゴモラ伝説と、死海周辺の地震の関連を追求している。
死海が海抜マイナス400メートルにある、塩分濃度の高い湖だというのは有名だが、カスピ海のような大陸の真ん中ならともかく、地中海からわずか30キロほどのところに、こんな地形があるのは不思議といえば不思議だ。実は死海からガリラヤ湖にかけてのびる細長い低地は、死海・ヨルダン地溝帯といって、プレート運動で地殻が引き裂かれている現場で、紅海やアフリカの大地溝帯と密接な関係にあるという。
当然、死海一帯は活断層だらけで、地震が頻発している。金子氏は旧約聖書に語られている奇蹟のいくつかは地震で説明できると考えている。
たとえば、ヨシュアの率いる軍勢の鬨の声で城壁が崩れたというエリコを発掘したところ、地震で何度も崩壊した痕跡がでてきている。髪の毛を結びつけられた柱を倒したというサムソンの伝説も地震の可能性が高いという。
ソドムとゴモラの位置については諸説があるが、金子氏は死海の南側、おそらくは現在、死海の南湖盆となって水面下にある地域にあって、死海からとれる石膏とアスファルトを交易して栄えていたのではないかとしている。
1960年代から発掘のはじまった古代シリアの通商国家、エブラ王国の遺跡からは夥しい粘土板が発見され、そこには重要な取引先としてソドムとゴモラの名前がきざまれていたというから、伝説の核になった事実はあったと考えるべきだろう。
歴史家の書いた本を読んでいると、人間社会は独自の運動法則で動いているかのような錯覚におちいるが、実際は自然条件のちょっとした変化に左右されるはかない生き物なのである。
七〜八年前になるが、ケストラーの『ユダヤ人とは誰か―第十三支族・カザール王国の謎』という本が翻訳され、話題になったことがある。
イスラムが勃興した頃、カスピ海から黒海にかけてハザール王国(カザールとも表記)という遊牧民の国があった。向かうところ敵なしのサラセン帝国の侵攻をはねかえすくらい強かったが、ビザンチン帝国とサラセン帝国にはさまれていたので、両帝国からたびたび改宗を勧める使節団が訪れた。しかし、国家として独立をたもつためにはどちらの宗教を受けいれるわけにもいかない。ハザールの王は宗教で国が分裂するのを防ぐために、ついに国をあげてユダヤ教に改宗することを決断した。
物議をかもしたのは、王国滅亡後、ハザール人は東欧ユダヤ人(アシュケナジ)となったとした点である。肌の黒いユダヤ人(スファラディ)だけがアブラハムの末裔たる真正のユダヤ人で、肌の白いユダヤ人(アシュケナジ)がハザール人の子孫であるなら、イスラエル建国の根拠が怪しくなるというというわけだ。『ユダヤ人とは誰か』が訳者(宇野正美!)の問題もあってトンデモ本あつかいされたのは無理からぬことであった。
『謎の帝国ハザール』は、旧ソ連の考古学界の重鎮が書いた実証的なハザール王国論である。民族の沿革から王国の成り立ち、サラセン帝国との二百年にわたる戦いを語り、考古学の成果を動員して地名の比定をおこなっている。ケストラーのハザール王国は自己のルーツ探しという動機のためか、お伽話的な印象がなくはなかったが、本書で描かれるハザール王国は複雑な権力闘争のつづく悩める多民族国家であり、現代と地つづきという感じがする。
プリェートニェヴァはハザールのユダヤ教改宗は事実と考えるが、改宗したのは首都周辺の支配階級だけだろうと推定している。そして、なまじ排他的なユダヤ教に改宗してしまったために、当初の狙いとは逆に民族間の対立が激化し、王国滅亡にいたったと考えている。ユダヤ教信仰の内容も墳墓の遺物を根拠に、伝統的なシャーマニズムと習合した不純なものだったろうと推測している。
本書には訳者の城田俊氏による非常に長い解説(全体の1/3を越える)がついているが、城田氏はいくつかの点でプリェートニェヴァ説をまっこうから批判している。著者と立場が違うことをここまで明確にした訳書は珍らしいが、城田説は十分説得力があるように感じた。
城田氏はまずプリェートニェヴァら欧米・ロシア圏の研究者が言及していない中国側資料を紹介する。ハザールが突厥の一派の「可薩部」として正史に登場し、玄奘もハザールの可汗に会っていると指摘されると、おおっとのけぞる。
最新の研究によればハザールの痕跡はエジプトにも残っているという。キエフのハザール・ユダヤ教徒共同体が多額の負債を負った仲間に送ったエジプトのユダヤ教徒共同体への紹介状が発見されたのだ。キエフとはもちろん、ウクライナの首都のキエフである。キエフはもともとはハザール王国西方の中心都市で、東地中海通商圏を通じてエジプトと緊密な繋がりをもっていた。キエフのハザール・ユダヤ教徒の文書はかなりの量が残っていて、文体や名前からすると正統的なレヴィ派の信仰をもっていたことが推定されるそうである。
ハザール王国では辺境の庶民にいたるまで正統的なユダヤ教が浸透していたらしい。だとすれば、その中からアシュケナジの祖となった者が出たと考えても決して不自然ではないだろう。
北朝鮮はわかりにくい国で、最近も食糧難がらみで虚実いずれともつかぬ情報が錯綜しているが、本書は出所の確実な資料をもとに書かれたという点で北朝鮮関係では異色の本である。
出所がはっきりしているといっても北朝鮮の公式発表をならべたわけではない。本書が基本資料としているのは朝鮮戦争時、米軍が戦場や占領地から収集してきた鹵獲文書なのである。
兵士の日記や軍の作戦命令書、日課表、軍や党、国家機関の刊行物、公安関係の秘密文書、さらには外交文書まで、1,300箱、160万ページにおよび、それが今では情報公開法によって公開されているということである。根こそぎ持ってきた米軍もすごいだが、二年八ヶ月かけてすべてに目を通した著者もすごい。
著者は文書を調査しただけではなく、旧ソ連や米国、韓国に亡命した北朝鮮の元幹部に取材してこまめに裏をとっている。鹵獲文書の公開は1977年からはじまっているが、ここまでやったのは著者がはじめてだそうである。ソ連共産党の秘密文書館の調査でも日本のフリージャーナリストはいい仕事をしたが、大手マスコミはなにをしているのか。
ソ連軍が仕組んだ北部地区の独立工作や朝鮮労働党内での権力闘争関係の資料も登場するが、本書の大部分を占めるのは軍関係文書の解析だ。朝鮮戦争にいたる半年間の動きを跡づけた部分は圧巻である。
北朝鮮軍は四個師団五万人の兵力で建軍したが、開戦半年前には中国人民解放軍の朝鮮族部隊三個師団を編入し、さらにソ連の軍事援助で機械化部隊一個師団を創設している。兵力が倍増しているのである。
このうち、五個師団は開戦数週間前から38度線数キロ以内の地点に進出しており、開戦数日前には工兵隊が38度線を越えて偵察行動をおこなっている。開戦前夜、工兵隊は地雷原を打開し未明には砲兵隊が38度線以南で陣地の構築にとりかかった。
開戦当初こそ北朝鮮軍は怒濤の勢いで南進するが、すぐに進撃が停滞する。期待していた人民蜂起がおこらなかったばかりか、北の兵士の脱走があいついだからだ。金日成は38度線を越えさえすればアメリカ帝国主義に虐げられた民衆が蜂起するとスターリンや毛沢東に吹聴していたが、事実は逆で、北朝鮮軍は南の民衆の抵抗に悩まされ、摩滅していく。
労作にはちがいないが、本書の記述をすべて鵜呑みにするのはまずいかもしれない。北朝鮮の戦争準備はすべてアメリカの知るところだったという陰謀説を最後にもちだしているからだ。アメリカは戦争をはじめる口実をつくるために日本の真珠湾攻撃やイラクのクェート侵攻を黙認したという説があるが、著者によればトルーマンは同様の狙いで北朝鮮の徴候を故意に無視していたというのだ。しかしアメリカは万能ではないし、もともとアジアに対しては関心が薄い点を考慮すべきだろう。
『はじまりのレーニン』以来、中沢新一氏はロシア正教に刺激的な言及をおこなっている。面白いが、わからない部分もある。チベット密教やバリ島のマジックを研究してきた中沢氏が、なぜ、突然、キリスト教なのかが腑に落ちなかったと言った方がいいかもしれない。
この本を読んで、ようやくわかった。四世紀のギリシア教父、アタナシオスに「神が人間となったのは、人間が神となるためだ」という言葉があり、神人合一の神秘を信ずるヘシュカストと呼ばれる行者が東方キリスト教世界の信仰を支えつづけたというのだ。ヘシュカストたちは、神と合一するための身体技法をもっていたが、それは目を閉じて顎を胸につけ、臍のあたりを意識しながら「イエスの祈り」の聖句とともにゆっくり呼吸するものだった。呼吸をくりかえしていくと、神の光が見えてきて、恍惚のうちに神の活動を自分の内側に感得するという。
密教の瞑想そっくりではないか。ギリシア正教とは「即身成仏」ならぬ「即身成基督」の世界らしい。
西方キリスト教世界にも、聖テレジアのように神との合一を体験する聖者が出ているが、いずれも異端の疑いをかけられ、信仰の主流になることはなかった。
著者によれば、カトリック神学自体が、神秘体験を認めるような構造にはなっていないという。著者はトマス・アクイナスの神学とギリシア教父の神学を比較し、さらに十三世紀にコンスタンチノープルでおこなわれたヘシュカスト論争に踏みこんで、東方世界の神学が神秘体験を基礎とすることを明らかにしている。
東方世界の神学は絶対に不可知である神の無限の本質と、人間が分有することができる神の無限の活動を峻別したために、無限が二つあるという矛盾をおかしたとカトリック側から論難される。著者はカントールにはじまる現代集合論を援用し、無限は一種類だけではないから、東方世界の神学にも理があると擁護するが、この部分はもっと説明してほしかった。
一般読者向けの配慮がもうちょっとほしかったとは思うが、久しぶりに啓発される本を読んだ。次の著書を期待したい。
先日、『3001年終局への旅』が出て小説版『2001年』四部作は一応の完結をみたが(『4001年』への伏線がはってあるので五部作になる?)、『2061年』は小説としてはシリーズ中随一の出来だと思う。
クラークの近未来ものは困難に直面した技術者が知恵をしぼり、意表をつくが、あくまで科学的に可能な解決策をくりだすところが面白いのだが、『2001年』や『2010年』はモノリスという神に近い存在を登場させたために、ハードSFらしさがあまりみられなかった。『3001年』はモノリスを脱神秘化したものの、安っぽくなった。
この作品は1985年のハレー彗星接近に触発されて書かれたらしく、次のハレー彗星接近はどうなるのだろうという興味を『2001年』シリーズにやや強引にはめこんでいる。モノリスは背景にしりぞいたが、クラークの筆はのびのび動き、久しぶりにハードSFの味を堪能させてくれた。ハレー彗星を飛び立つ前後の細かい話の組み立てはさすがだし、結末で人類が手にした材料が『3001年』の伏線となっている。クラークの翻訳は無味乾燥になりがちだが、本作は情感がこもった名訳である。
副題に「1985-1990」とあることからわかるように、バブル全盛時代の話だ。地上げでつかんだ資金で株の大勝負に出る兄と、そんな兄に反発して、実直に生きようとしながらも、熱に浮かされたようなバブル景気に巻きこまれていくノンバンクの融資担当の弟の葛藤を通して、カジノ資本主義の一時代を描いている。
前作の『魔の国アンヌピウカ』にも土地の買い占めや地面師の話がでてくるが、あまりリアリティが感じられず、成功しているとは言えなかったが、今回は財のダイナミックな運動が狂おしいばかりに現出されていて、ギラギラした黄金色のオーラがページから立ちのぼってくる。『聖マリア・らぷそでぃ』、『ヤポニカ・タペストリー』とならぶ傑作だと思う。
読んでいる間、現実のモデルがちらちら頭に浮かぶという、週刊誌的なおもしろさと紙一重のところで書きすすられるのが久間氏の小説だが、それだけだったら、週刊文春や経済小説を読めばいいだろう。この作品の一番の読みどころは、バブルの裏面史という生々しい現実を描く一方、自己意識とシステムのせめぎあいに測深鉛が深く降ろされていくところだ。神は細部に宿りたもうというが、自己の根源も現実のディティールの中にしか求められないのである。
本書を読み終わって、われわれの時代もようやく本格的な小説の中に描きこまれたのだなと思った。