われわれは、ごく当り前に、性を個と個の間の出来事と考えている。性は当事者二人だけの問題であって、第三者、特に社会の介入は、性の尊厳を犯すものだというわけである。
この性の「常識」をつきつめるなら、孤立した性の肯定にまで進むはずだ。事実、われわれは、性は単独の「個」でも成立するのではないかとさえ、ためらいがちながら、予感しはじめている。
たとえば、子供たちの残虐な性犯罪が起こるたびに、彼らの未熟さを批判し、他者への共感能力を欠如を告発する言論が巷にあふれる。しかし、二人関係の「他者」とは、自己の分身ではあっても、真の他者でありえようはずはなく、あくまで自己の延長──イメージにすぎない。自己破壊の快感が存在する以上、世の識者の言うような「他者への共感能力」が残虐行為を止める保証となることはないし、「他者への共感能力」があるからこそ、残虐行為が快楽になるとも言える。
そのことは、子供たちの性犯罪に対する社会の色情的な反応が何よりも物語っている。フロイトは認めたくない事実を認める時は「否定」という手続きを必要とすると述べたが、事件のたびに繰返される大騒動は、社会が孤独な性を全面肯定するための一ステップなのかもしれない。
だが、性が当事者二人だけの問題となったのは、ごく最近のことにすぎない。「封建的」といわれた社会では、性はあからさまに家族維持のための義務行為であり、性関係は血縁空間の内部にしかありえないのだから。
張藝謀監督の『菊豆』が今日の日本にとって衝撃的だとすれば、それはとうに清算したはずの「封建的」性関係を観客にあらためてつきつけたからだろう。この映画は、徹頭徹尾、性を描いているが、その性は個と個の間の性でもなければ、単独者の性でもなく、大家族制度──宗族──によって養われ、閉じこめられた性である。
劉恒の原作は実在の山村を舞台に、抗日戦線時代から農地解放、文革にいたる20年余の歴史を背景にした年代記的な作品だが、映画では舞台をいつともしれぬ時代の、どこともしれぬ染物屋に変え、登場人物も、暴君的な老いた家長、家長にこきつかわれる甥、子孫を産むために金で買われた若い妻、そして若妻と甥の不倫で産まれた子供の四人にしぼり、ギリシャ悲劇のようにドラマの骨格をくっきりときわだたせている。原作では実の甥だが、映画では直接の血縁のない、下の世代の親類という意味の「甥」とされたのは、普通の農家から染物屋への改変による「家業」の強調同様、宗族という血縁空間の存在をいっそう前面に押し出すためであろう。
ここには、これが中国映画かと眼を見張るような官能的で洗練された性描写もあるが、だからといって、封建制度に反抗する若い二人の性の讃歌などといったら、この映画の魅力の大半を取りのがすことになる。この映画では、性行為だけではなく、布を染料に漬けること、ぎりぎりとしぼること、極彩色の布がたなびくこと、族譜にしたがって子供の命名式をおこなうこと、葬儀を出すこと等々のすべてが官能を刺激する性的な行為となっているのだ。染物屋の家業の展開される閉ざれた中庭は、子孫存続のための場所であり、そのまま性的空間なのである。
この性の空間は家長の子種のなさという欠落(封建社会では事実上の性的不能)によって歪み、ねじれている。老いた家長、金山は若い三度目の妻、菊豆を不毛な行為で痛めつけ、自身が不能になってからは、彼女を石胎とののしり、夫婦の床で暴力に明け暮れることになる。彼女は同じように家長にいじめられる立場の甥、天青と密通し、彼の子供を産むが、夫は自分の子供が産まれたと思いこみ、一族をまねいて新たな世代の家長の誕生を祝う。しかし、見せかけの幸福は長くはつづかない。金山は卒中で倒れ、動けなくなった彼に、菊豆は事実を知らせ、あからさまに天青との営みを見せつける。いじめられる側がいじめる側に回ったのだ。
このように書くと、『菊豆』は救いようのない、陰々滅々たる映画のようだが、そうした印象はない。張芸謀監督はいじめたり、いじめられたりする感情の内実にはあくまで距離をおき、物語を宗族という血縁空間のゆらぎとして、構造的にとらえているからだ。
金山の葬儀の場面は秀逸である。喪服姿の天青と菊豆は「魂がえし」に選ばれ、故人に孝心を示すために、一族の運ぶ棺に「いかないでくれ」と泣き叫びながらおいすがり、蓋に爪を立て、板を力の限りたたく。感きわまって地面の上に倒れた二人の上を美々しく飾られた棺が通りすぎていくが、その上には、次代の家長である幼い天白がまたがってすわっている。
この「魂がえし」は一度ではすまない。なんと四十九回も繰返されるが、実は、これは張監督の創作で、実際にこのような習俗があるわけではないという。やっと死んだ暴君のために、若い二人が空涙を流し、孝心を演じなければならないとは、悲惨としかいいようがないが、カメラはこの悲惨さが、また滑稽さでもあることをあますところくとらえている。
たとえ、人物の力関係が逆転し、歪みが生じようとも、血縁空間を秩序づける宗族の序列の存在自体はゆるぎもしないのである。それは「天白」という名前にもあらわれている。中国の大家族制は、同姓どうしの通婚を禁じるという禁忌とともに、世代ごとに同一の文字を共有するという名づけの制度を持っていた。生まれてきた子供は天白と名づけられ、実の父、天青と同じ「天」の字を共有し、親子でありながら兄弟、しかも正嫡として、族譜の上では父の上位に立つことになるのである。
天青は叔母と密通するという世代横断の禁忌を犯すが、後半では、わが子に弟として仕えなければならないという報いを受ける。われわれは宗族の秩序の侵犯がなんら秩序そのものを揺るがすものではないという皮肉に立ち会い、言葉の正確な意味での「悲劇」を見る。
この実感は、性の豊饒の手ごたえによって、さらに強められる。実際の封建社会がこのように官能的な享楽に満ちているはずはないのかもしれないが、個に矮小化されたわれわれの性とは別の輝きが、この映画にはあふれている。濡れた染布は女体のようにしない、そのこってりした色彩は濃艶な媚びに輝いている。不倫の二人を沈黙の視線で裁きつづける天白の存在さえも、みだらな暗さをたたえている。
この映画は特別裕福とはいえない染物屋の一族の物語だが、その豪奢な感性と宗族の重々しさはほとんど『紅楼夢』を彷彿とさせる。『紅楼夢』は毛沢東が封建社会の頽廃を告発した書というお墨つきを与えたために、洗練をきわめた貴族文化を描いたにもかかわらず、文革当時でも禁書にならなかったというが、『菊豆』という映画にも、同じような事情があるのかもしれないといったら、深読みがすぎるだろうか。しかし、ここに描き出された封建社会がおぞましくも魅力的でもあることは誰も否定できないはずだ。