フェミニズムの終点  ──『ローザ・ルクセンブルク』

加藤弘一

 女性映画とは何だろうか。

 女性映画と呼ばれるには、女性を主人公にしただけでは不十分だ。女性映画の主人公としてふさわしいのは、少なくとも、男に頼らず、恋愛にも溺れない強い女性でなければならないだろう。

 たとえば、これまでの伊丹十三の映画を女性映画にしてきたのは、宮本信子演ずるヒロインの「後家のふんばり」とでもいえそうな気丈さだった。彼女たちは男を子供のように甘えさせる母ではあったが、同時に、一人で放り出された寄るべない娘でもあって、その肩肘はった頑張りが映画にこころよい緊張と矜恃をあたえていた。慈母のエロスを臆面もなく肯定した今回の『あげまん』を見るにつけ、ことさらそう感じる。

 しかし、それはエロスの拒否ではない。『マルサの女』の主人公の仕事ぶりはいつもどこか一所懸命すぎた。それは「たんぽぽ」の未亡人の一所懸命と同じ、不安の反動としての一所懸命さであり、強がりであって、寄るべない娘の心細さが透けて見えいていた。

 慈母でありながら、よるべない娘であること。どんな税務署嫌いの観客も、彼女の活躍に好感をもってしまうのはそのためであって、彼女は辣腕の調査官でありながら、男たちの闘争の平面を上から下、下から上と自在に横切っていくのだ。伊丹が監督しなかった『スィート・ホーム』でも、この二重性は、義理の母になるはずの宮本と、娘役の NOKKO とに分割した形で維持されていたが(何とも気のぬけた作品で終ってしまっていたのは、分割したせいだろう)、伊丹映画を女性映画として成功させてきたのは、この二重性であり、その二重性の中で行きつ戻りつする女性像にあったといっていい。

 マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の『ローザ・ルクセンブルク』にも、この二重性があるといったら、唐突にすぎるだろうか。

 なるほど、この作品はローザの伝記映画としてつくられているし、当時の世相や第二インター内部の路線闘争についても立ち入った描写が見られ、女性映画あつかいをしたら、顰蹙を買うかもしれない。しかし、社会主義国の無様な解体を機に再公開されることになったこの映画を、「今こそ社会主義を考えなおす」ためのきっかけと考えるのは、消費税と『マルサの女』を結びつけるようなもので、いささか滑稽な感想を持つ。この映画が成功しているのは、強さと弱さの交錯する主人公の人物像にリァリティがあるからであって、理論家・実践家としてのローザ・ルクセンブルクに新たな光を当てたからではないからだ。

 そもそも、この作品は映画としてのバランスをくずしてまで、ローザの思想を説明しようとはしていない。トロッタ監督が依拠したのは『書簡集』のローザ・ルクセンブルクであって、『資本蓄積論』のローザ・ルクセンブルクではないのだ。彼女が反戦の立場を貫いたことは重要なエピソードとして描かれるか、なぜ、各国の社会民主党がナショナリズムに迎合して、戦争肯定になだれを打ったかは語られずじまいだし、社会主義の可能性について回顧しようというなら、ボルシェビズム批判の先駆となった彼女の言説はかっこうの材料となるはずだが、レーニンとの係わりは一切出てこない。

 この映画は書簡の引用からはじまる。雪に覆われた監獄の寒々とした情景に重なって、ローザの声が手紙を読み上げる。なぜ、人間は人間を虐げるのか。人間が人間を支配するのは、人類の宿命なのか。悲惨な体験は避けられないのか。それはなぜなのか。

 そう問いかけた後、彼女は続ける。

「しかし、なぜと問うても意味ないことです。なぜ小鳥がいるのか、わたしにはわからない。出も獄房の壁ごしに遠い小鳥のさえずりが聞こえてくると、わたしは安らぎを覚えるのです。」

 この映画で最も印象的なのは、演説するローザと獄中のローザの対照である。

 彼女の演説は火を吐くように激しさと同時に、レースを多用した世紀末ファッションのような優雅さと教えさとすような優しさもあって、ヨーロッパのレトリック文化の底深さを感じさせるが、自分の師であり、保護者でもあったカール・カウツキーをも卑怯者と弾劾するローザは、まさに「血のローザ」、戦うアテネであって、一切の胡麻かし、一切の妥協を拒否するゼウスの娘だ。

 だが、獄中のローザは違う。彼女は監獄の中でも戦いつづけるが、しかし、それは獄中闘争などといった騒がしいものではない。黒い服をまとった牢獄の彼女は、塀の内側の雪に降りこめられた風景の中で、ただひたすら耐え、小鳥の声に耳をすまし、草花に心のこもった眼差しを注ぐ。彼女は弱く繊細な自分をさらし、自分よりさらに弱いものを慈しむことで、獄吏の心さえ開いてしまう。

 獄中のエピソードの中に、つねに行動を共にしていたレオ・ヨギヘスに、彼が偽装のためにつきあった女性党員のことで嫉妬の感情をぶつける回想がはさまれるが、このシーンは彼女が女の弱さを知った女性であることを示すためのものだといっていい。女看守に『アンナ・カレーニナ』を貸すローザは、弱さを共にする者として、彼女に向い合っているのである。彼女は戦うにしても、やさしさで、母親のエロスで戦うのだ。

 書簡集でも語られなかった20才近く年下のコスティア・ツェトキンとの恋愛と、その死による打撃が取り上げられているのも、ローザの母性に注目してのことである。娘らしい潔癖さと母の包容力の両極を揺れ動くローザが、ここには現実の女性として現前しているのだ。

 だが、女性に母親であることを求めるのは、男の側の勝手な都合であって、母性という予定調和を拒否するという立場もありうるはずだ。『あげまん』のような臆面もない映画を見ると、男の立場でさえ、慈母=女という図式に鼻白む思いがしないではない。

 トロッタは『ローザ・ルクセンブルク』の後に、やはり岩波ホールで公開された『三人姉妹』を監督したが、こちらはローザのような予定調和的な女性像を拒否する試みと位置づけられるかもしれない。

 田舎町で埋れていく老嬢たちのあせりと諦めを描いたチェーホフの原作とはことなり、この映画は語り口こそ抑制されているが、なぜ男はだらしないのか、なぜ男はいい加減なのかという娘たちの苛立ちによって終始している。

 三人の姉妹は、長女は長女らしく責任感にあふれ、次女は次女らしく奔放で、末っ子は末っ子らしく天真爛漫で愛くるしく描かれているが、逆にいえば、彼女たちは何才になろうと、何を経験しようと、どこまでも父を失った娘でしかない。男にとっての母親になることを拒否した娘たちは、苛立ち、悩み、傷つく。それはそれでドラマであるが、不倫に疲れ、妹にも裏切られた長女のファニー・アルダンのやつれていく顔を見ていると、フェミニズムの不毛さに思いをいたさざるをえない。トロッタはそんなことを描こうとしたのではないだろうが、結果的に新しい女性像の造形に失敗していることは否めない。

 ゴロツキのようなファシスト軍人に惨殺され、夜の運河に投げこまれるローザの死は凄惨だが、古典的な荘厳さに輝いてもいる。革命家としては先鋭でも、女性としては反動的な部分を残した映画の中の彼女は、われわれをなつかしい母性神話へとまねくのである。そろそろ、そんなものは拒否しなければならないと思いながらも、予定調和の世界の魅力には抗しがたいものがある。

(Aug 1990 「群像」
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