映画というメディアは金がかかる。ある水準以上の映画が生まれるためには、それなりの経済力が必要である。もちろん、経済力さえあれば傑作が出来るというわけでもないが。
今、
『さよなら、ジュピター』は太陽系に押しよせる暗黒星雲を吹き飛ばすため、決死隊が木星を爆発させるというストーリーだったが、『クライシス2050』の方は太陽の異常活動を押えこむために、特別部隊が太陽に接近して爆弾を投下するという話である。どちらも人類の運命を背負って自然に立ち向かうカミカゼ・アタックなのだ。
ドラマの盛り上げ方、悪役の作り方はもっと似ている。
人類に試練をあたえるのは暗黒星雲ないし太陽だが、どちらも自然の力であって、それ自体は悪ではない。人類の叡知を結集して制御すればいいのである。では、悪は存在しないのか。
いや、悪はある。悪とは、みんなが一所懸命がんばっているのに、その一体感に水を差す異分子の存在である。決死隊は異分子によって何度も危機に追いこまれる。『さよなら、ジュピター』の場合は環境保護を唱える新興宗教、『クライシス2050』は環境危機を材料に大儲けする総合商社だ。「スターウォーズ」のように、ナチスを思わせる悪役を仕立てるのが高級だとはいわないが、異分子狩りのドラマツルギーは欝陶しい。
この映画をつくらせた日本企業は、特撮にこそ最新のテクノロジーをふんだんに取り入れたが、ストーリーだけは日本人の書いた原案に固執したという。かくて、和臭芬芬、「人類皆兄弟」イデオロギーの日本的な、あまりにも日本的なアメリカ映画が誕生したわけである。
ジャパン・マネーが強くなったといえばそれまでだが、最近のアジア映画の隆盛が経済力の発展に負っていることも確かだろう。映画というかたちでアイデンティティを主張するには、社会に富の蓄積が必要だからである。
この映画は、注意深く見ると、かなりお金のかかった映画である。ジャングルの中を転戦したチュッ・ニャ・ディンの十余年のゲリラ闘争を再現すべく、多くのエキストラを動員して、ほとんどオール・ロケで作られているし、侵略側のオランダ将官にも、深い葛藤を表現できるオランダ人俳優がキャスティングされている。映像は美しく、ジャングルのざわめきをドルビーで再現した音響効果も真に迫っている。資料によれば、通常のインドネシア映画の五〜六倍の予算を投じたということだが、それを国家の援助も受けず、既成映画会社の力にも頼らず、独立プロ形式で製作したというのはすごいことだと思う。
しかし、わたしが驚いたのは、これだけ資金と映画人の協力を結集した映画でありながら力んだところがなく、ナショナリズム賛美の言説もなければ、これみよがしの見せ場を一つも作りもしなかったことだった。
ジハードを叫んだ独立戦争の女闘士という先入見でこの映画を見た人は肩すかしの印象を持つだろう。父と夫の対オランダ闘争を引き継いだチュッ・ニャ・ディンはジハードを唱えはするが、低いぼそぼそした声でアラーへの帰一とアチェ族の誇りを説くだけで、泥まみれになりながら、ただひたすらジャングルの中を逃げ回るだけなのである。
カメラはジャングル生活で衰弱し、視力まで失って、一人では歩くこともままならない老婆となった彼女を容赦なく映しだす。民族の英雄というにはあまりのもみじめな姿だが、彼女以上にみじめなのは、彼女をかつぐゲリラであり、ゲリラを追うオランダ軍である。彼らは何のために戦っているのか、わからなくなっている。この映画のはじまった時点でアチェ族の戦争は二十年以上続いており、敵味方双方に精神の弛緩状態が広まっている。オランダ人将校には頽廃が蔓延し、アチェ族側には裏切りが頻発する。チュッ・ニャ・ディンも最後には長年の副官だったパン・ラオッの裏切りでオランダ軍に引きわたされる。
この映画は裏切りの研究である。金欲しさのためだけに裏切るルーベという男も出て来るが、そういう単純な裏切りだけではない。チュッ・ニャ・ディンの居所を知りながら、上官に明かさなかったために殺されるオランダ人将校や、彼女をオランダ軍に引き渡すパン・ラオッの裏切りが後半の主題となるからだ。
パン・ラオッはオランダ軍の手におちたチュッ・ニャ・ディンに「あなたの健康のためだ
」と詫びる。確かに十年にわたるジャングル生活で彼女の体は蝕まれ、輿に乗ってでなければ移動すらできなくなっていた。彼はチュッ・ニャ・ディンに最高の医療を受けさせること、指導者としての名誉を尊重すること、そしてアチェの地から出さないことを条件に、オランダ軍司令官と投降の交渉をおこなう。彼の裏切りはチュッ・ニャ・ディンに心服するあまりの行為として、共感をこめて描かれている。
彼はチュッ・ニャ・ディンに次ぐ最高指導者ではあったが、自己のアイデンティティを信仰においていたわけでもなく、民族や共同体においていたわけでもない。信仰や民族においていたなら、チュッ・ニャ・ディンを殉教者にしたはずだが、生涯の大半を費やした闘争の中で、そうした理念を失ってしまい、ただただチュッ・ニャ・ディンとの関係だけに自己の根拠を求めるようになっていた。だから、彼が彼女の意志に逆らってまで、彼女の肉体的生命を優先させたのはやむをえないことだった。
イスラム教は純粋度のきわめて高い宗教だとされるが、ジハードを戦うゲリラたちは「これは信仰の問題なのだ
」と諭しつづけるチュッ・ニャ・ディンの言葉を理解していただろうか。チュッ・ニャ・ディンに対する切々たる思いを見るにつけ、土着的な巫女崇拝をなぞっていただけかもしれないとすら思えてくる。
『クライシス2050』が日本的な価値観の脳天気な普遍化だとすれば、『チュッ・ニャ・ディン』はインドネシア的なアイデンティティの苦痛に満ちた再検討である。盲いてなお信仰を説き、アノミーに陥った同胞を叱りつけるチャッ・ニャ・ディンの姿は崇高ではある。だが、単純に崇拝してばかりはいられない……そういう内省にこの映画は誘う。アジアの知識人にこれだけ深い自己表現を映画で行なう余裕をあたえたのは、経済の発展のおかげであることも確かだが、そこには共同体の価値観を相対化しえた個の視点が頑として存在していることも忘れてはならない。