──久間さんが88年に発表された『マネーゲーム』は、豊田商事事件をモデルにした長編小説ですが、メインのストーリーと平行して、VAXの女性オペレータとハッカーの対決が語られています。最近は村上春樹氏の『ねじ巻き鳥クロニクル』にもチャットらしき場面が登場するほどですが、多少ともコンピュータを使いこんでいる人間の目から見ると、白けてしまうような誤解が少なくありません。高村薫氏の『神の火』の初版なんてもうめちゃくちゃで、これだけコンピュータの知識がいいかげんだと、ほかの知識も怪しいのかなと思うほどでした(文庫にする際に相当手を入れたみたいですが)。
ところが、『マネーゲーム』のVAXの描写は、現在の小説の水準から見ても群を抜いて正確なのではないか。実際にVAXをいじっていた人がなんというかはわかりませんが、ぼく程度の知識の人間から見ると、久間さんはVAXで実際に仕事をしていた人なのかなと思ったほどでした。
しかし、去年でしたか、ある週刊誌にマックと格闘しているという文章を書いておられて、それがかなり初歩的な格闘らしかったので、この人はコンピュータにまったく触ったことがなかったのかとびっくりしました。
──なるほど。あのだまし方はみごとですよ(笑)。
で、なぜだまされたのかと考えてみたんですが、オペレーターとハッカーの会話がすごいのだと思いあたりました。ネット上ではああいうまだるっこしい言葉づかいはしないのですが、会話をつづけていくうちに自我が分裂していくようになる感覚がリアルで、コンピュータ漬けの生活をしている人間なら「わかる」という感想を持つのではないかと思います。
──『マネーゲーム』は表面的には豊田商事とおぼしい詐欺会社の話ですが、VAX上でオペレータとハッカーが対決し、やがて協力してシステムにしかけられた謎解きをしていくというサブのストーリーが平行して語られることで、豊田商事事件自体、一人の詐欺師の犯罪なのではなく、もっと巨大なシステムの一部だったのではないかという怖さが生まれたのではないかと思ったんです。
コンピュータも、個々の問題はともかくとして、総体では脳の問題と重ねて考えようと思っていたんですよ。ホーフスタッターに『マインズ・アイ』という本がありますが、最初はああいう形を想定していました。
──なるほど、『マインズ・アイ』ですか。人工知能の問題から意識の起源を考察するという大変な本でしたよね。『マネーゲーム』とはかけ離れた印象の本ですが、言われてみればわかります。
──いや、久間さんのだまし方がうますぎたんでしょう(笑)。
──二重構造ということでいうと、『マネーゲーム』の前に書かれた『聖マリア・らぷそでぃ』も二重構造の小説だと思います。一見、イエスの方舟とおぼしい新興宗教の受難物語を語っていながら、突然、敗戦直後に話が飛んで、教団のルーツが米兵のために厚生省がつくった慰安施設にあったという展開になる。今の日本の社会は、そういう枠組みの中でつくられていたのかという認識が出てきて、小説の奥行きがそこでぐんと深くなる。
──ぼくはがRAA(国策売春会社)にさかのぼるところが一番おもしろかったし、感動的だったんですが、当時の書評はどうだったんですか?
ぼくはRAAのようなものを小説の中で書いているんだけれども、歴史的事実として書いているんじゃなくて、今の社会を解剖するための補助線としてひっぱってきているわけですよね。遠距離に視点をとって、現代をもう一度見直すために書いたのに、人は事実主義的な発想から小説を読んでいくんだなと思いました。
──なるほど。
──読者って小説に告白を求めようとしますからね。モデルはいるんですかとか(笑)。
──語り手の少年=久間さんと思いたい人が多いということですね。
──絶対数からいうと、小説=告白と勘違いしている読者の方が多いでしょうね。
小説家の方は地域の図書館が運営している読書会などに呼ばれて、話をすることがあると聞いていますが、久間さんもそういうところへ出かけられますか?
──やはり、モデル探しとかそのレベルの話ですか?
──久間さんの小説は波乱万丈の要素があって、一粒で二度おいしいところがあるから、表面的なストーリーで読者が満足しているということはあるかもしれませんね。
一般の読者の読み方と、批評家の読み方がまったく違うらしいということは最近わかってきまして、実は愕然としているんです。じゃ、批評家って、いったいなんなんだって自問しているところです。
──『ヤポニカ・タペストリー』は主人公の祖父が戦前の中国で仙人の修行をする話で、石原莞爾とか満州で暗躍した人物がたくさん出てきますが、あのおもしろさは偽史のおもしろさだと思うのです。富士山のふもとに古代帝国があったとか、青森の方に王国があって、大和朝廷と覇権をあらそっていたとか、トンデモ本がよろこびそうな偽史がたくさんありますが、歴史的事実でないにせよ、そういう物語を架構することで見えてくるものがありますよね。
『聖マリア・らぷそでぃ』も、そのでんでいえば、偽史といっていいのではないかと思います。あそこに描かれている国策売春会社は、RAAそのものではないにしても、進歩派知識人も保守派知識人も無視してきた構造をみごとにあぶり出しています。韓国人慰安婦や中国人慰安婦に補償しろという議論は盛んですが、日本人慰安婦に言及する人はめったにいません。まして、敗戦後、占領軍兵士の性欲から良家の子女の貞操を守るために動員され、「肉の防波堤」になった戦争未亡人や戦災孤児の話なんて誰もしませんが、RAAを生みだした構造は今でも健在でしょう。『聖マリア・らぷそでぃ』は大変な作品だと思います。いつごろから偽史が使えると気がついたのですか?
──なるほど。
──ホーフスタッターに触発されたとおっしゃっていましたが、久間さんの場合、意識が意識を見るという抽象的なところから出発されたわけですよね。
──すると、二重構造の小説をずっと書きつづけておられるのは、リアリティはなんなんだろうという問いかけから来ているわけですか?
──そのおもしろさを否定してはいけないんでしょうね。
──それは読者によるんじゃないかな。
──そういう作品で満足ですか?
──SFはお読みになりますか?
──サミュエル・ディレーニなんかは?
──彼の作品は表面的には宇宙活劇だったり、剣と魔法のファンタジーだったりするんですが、実はダブル・ミーニングで書かれていて、いくらでも深読みが効き、精神的な自伝としても読めるんです。久間さん、お読みになるとおもしろいと思いますよ。
──『ノヴァ』(早川SF文庫)は『白鯨』を下敷きにしたスペースオペラですし、最近、30年ぶりにやっと翻訳された『アインシュタイン交点』(早川SF文庫)も、きっと参考になると思います。訳者後書きによると、「K」という極悪非道な文芸評論家がわけのわからないことを言って翻訳者の伊藤典夫氏をいじめて、それで30年もかかったという話になっているんですが(笑)、あの後書きはともかくとして、作品自体はおもしろいです。
──同時代の作家で意識しているというと、どのあたりですか?
──久間さん、確か早稲田の仏文でしたよね。何年の入学ですか?
──あらら。同学年だ。ぼくは仏文じゃなかったですけど、まったく同時期に早稲田界隈をうろついていたことになります。
──読んでました。ぼくはいまだにテマティック批評の人ですから。
ぼくは最初、英文行こうと思って、エリオットを読んでいたんですよ。「荒地」とか詩も読みましたが、評論を読んだらこれがおもしろくて、夢中になりました。それからマイノングという、フッサールやブレンターノの流れにあたる人にさかのぼったんです。
──はあ。
──ハムレットの苦悩には、苦悩の深さに見あった客観的理由がないという議論ですね。あれは Objectivismから来ているんですか?
──ヴァレリーですね。まさに自分を見る自分の宗家だ。
──ぼくは逆にニュークリティシズムの方がしっくり来なかったんですけども。方向は逆ですが、まったく同じようなところをうろうろしていたんだな(笑)。
──そうですね。あの頃の早稲田界隈の古本屋にはそのへんの本がごろごろしていました。Objectivismはともかくとして、現象学なんかもブームで、フッサールの本とか、みんなかかえてましたし。そういう背景からいうと、久間さんの小説は出るべくして出てきたという感じがします。
──そうです、そうです。三浦時代の「現代思想」を読んでいた人なら、久間さんの小説はすごくピンと来ると思うんですけどね。