石川活先生の御逝去を悼む

加藤弘一

 一月一一日、石川淳夫人の活(いく)先生がなくなられた。七六歳だった。活先生は六年前にお孫さんとカトリックの洗礼を受けられ、葬儀は生前に通われていたカトリック初台教会でおこなわれた。
 活先生はずっとお元気だったが、昨年の一一月半ばに体調をくずされ、一二月一九日に伊豆の慶応病院分院に入院された。そこで重篤な癌であることがわかり、ただちに信濃町の本院にうつられたが、今年にはいって御容態が急変されたという。
 活先生にほら貝のインタビューをお願いしようと、お手紙をさしあげた矢先だっただけに(投函したのは、先生が入院された一二月一九日だった)、今でも信じられない思いである。

 わたしは活先生とは一回半しかお会いしていない。
 博品館劇場でお見かけした「半」のことは『石川淳 コスモスの知慧』のあとがきに書いた(註1)。劇場で有名人を見かけるのは、よくあることだといわれたらそれまでであるが、石川淳論で「群像」の賞をいただいた直後だったこと、そしてただ見かけだけでなく、石川淳御夫妻のすぐ斜め後ろの席にすわりあわせたことで、とても「偶然」とは思えなかった。

 「一回」の方も、不思議な出会いだった。
 一昨年の二月九日のことだった。『石川淳 コスモスの知慧』を担当してくださった筑摩書房の藤本さんから、見本刷りができたから一〇冊わたせるという電話をいただいた。
 渋谷のユーハイムで待ち合わせ、出来上がったばかりの本を前に話をしていたところ、不意に藤本さんは「あ、活さんだ」と言い、次に「うちの加藤だ」とつづけた。通路をはさんでわたしのすぐ後ろの席に、活先生が、『晴のち曇、所により大雨』(註2)の担当者で、わたしの石川淳論の出版にも力添えしてくださった加藤雄彌氏とすわっておられたのである。これには茫然とした。
 その場で拙著をさしあげたところ、活先生はとてもよろこんでくださった。

 そのあと、酒席にうつり、思い出ぶかい一夕をすごすことができたのであるが、活先生は、話に聞いていたとおり、すかっとしたきっぷのいい方で、これぐらいの女性でないと石川淳夫人はつとまらないのだなと思った。
 「なんでも聞いてください」と言ってくださったので、かねて心にかかっていた『諸国畸人傅』(註3)の成立の事情をうかがってみた。
 『諸国畸人傅』は近世にあらわれた奇人の事績を探訪した紀行文の傑作であるが、都ゝ一坊扇歌の章に登場する石岡市の郷土史家、今泉正文氏の御子息がたまたま大学のサークルの先輩にあたり、扇歌の故郷を訪ねた石川淳はただ黙っているだけで、もっぱら活先生が取材されていたという話を聞いていたからである。

 活先生は「あの人は一言もしゃべらないんですから」と笑っておられた。ほかの取材も同じようなもので、つまり、『諸国畸人傅』は活先生の内助で出来上がった本だったのである。
 その日は安吾忌の打ち合わせということだったので、坂口安吾と石川淳の交際についても、たちいった話をうかがうことができたが、若い日の安部公房の話までは聞きそびれてしまった。まさか、あれがお会いできる最初で最後の機会だったとは思わなかったのである。

 わたしはヌーヴェル・クリティックを読んで批評を書きはじめた人間で、テキスト以外のものはいっさい参照しないことを原則としてきた。その考えはいまでも変わっていないが、石川淳という不世出の作家と同時代に生まれあわせ、もっとも身近にいた人から話を聞こうと思えば聞ける機会にめぐまれたのだから、その幸運をいかし、いろいろな話をうかがって、後世に伝えるべきではなかったかと思うようになった。
 活先生はつい二ヶ月前まではお元気であったのだから、ほら貝の準備をはじめたと同時にインタビューをお願いしていればと思うと、なんともやりきれない思いである。
 石川活先生の御冥福をおいのりする。


1.
 あれは本書の第一章にあたる部分を発表した年だから、一九八二年の九月だったと思う。わたしは友人たちと語らい、銀座博品館劇場に『上海バンスキング』の何度目かの再演を見にいった。
 すでにこの舞台の評判は高く、場内は補助席が出るほどの盛況だったので、休憩時間のロビーもすごい混雑だった。早々にもどってきたわたしに、席に残っていた友人がこう言った。
 「いま、石川淳が通った」
 一瞬、なんのことかわからなかった。聞いてみると、劇場の支配人らしい人が二人の部下をしたがえてあらわれ、二列前の通路に面した席にすわっていた白髪の老人を外に案内していったというのである。その老人は石川淳そっくりだった。あの丁重な応対からすると、多分、間違いないのではないか、云々。
 わたしはびっくりして、ロビーにとってかえした。そして、半信半疑のまま、人波の間を探してまわったが、とうとうそれらしい人物は見つからなかった。
 やがて予鈴が鳴り、わたしは席にもどった。本当に石川淳かどうか息を殺して待っていると、はたして支配人らしい恰幅のいい男性に先導され、小柄な白髪の老人が背筋をピンと伸ばし、ステッキをついて通路を進んできた。垣間見た顔は、たしかに写真で見る夷斎石川淳その人だった。
2.
「回想の石川淳」と副題にある回顧録。一九九三年、筑摩書房刊。
3.
中公文庫。
Copyright 1996 Kato Koiti
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