文字とともに歩む
        ――伊藤英俊氏に聞く

加藤弘一
伊藤英俊氏 1943年、横浜生まれ。東京電機大工学部二部電子工学科卒業。NECに入社後、JIS C 6234-1983、JIS C 6232-1984、JIS C 6235-1984、JIS C 6236-1986、JIS X 0208-1990、JIS X 0212-1990、JIS X 0221:1995、JIS X 0201:1997、JIS X 0208:1997、JIS X 0213:2000、ISO/IEC 10646-1:1993 漢字専門委員会および漢字WG、文字フォント開発普及センター異体字委員会・高品質フォント標準化調査研究委員会、日本印刷産業連合会技術委員会等の委員、WindowsNT漢字処理技術協議会コード&キャラクターセットWG主査を歴任し、文字コードと日本語処理技術の標準化をリードする。著書に『漢字文化とコンピュータ』(中央公論社)がある。

 インタビュー時点はNECシステムテクノロジーに在籍。2003年3月の定年退職後も同社でフォント関連事業や標準化活動を継続することになった。

文字にかかわるまで

――伊藤さんは、文字コード全般にわたって大きな仕事をしてこられ、標準化活動にNECの委員として参加されました。間もなく定年をむかえられるとうかがい、ぜひお話をうかがわなくてはとインタビューをお願いしたしだいです。
 まず、どういう経緯で文字コードにかかわられるようになったかのかからお話し願えませんか。

伊藤  私は終戦の年に2歳で父を亡くし、母の郷里の山梨で育ちましたが、経済的理由で就職率のいい工業高校に進み、1961年にNECに入社しました。
 最初に配属されたのは玉川事業所の電子計算機部門でした。当時はコンピュータの立ちあげの時期でした。
 工業高校では真空管しかやりませんでしたが、コンピュータには半導体が不可欠です。当時は半導体の本などほとんどなく、大学でも教えているところはあまりないような状態でした。コンピュータ開発には工業高校の知識ではだめだと思い、東京電機大工学部二部の電子工学科に入学しました。最初は玉川から二時間かけて通ったのですが、1964年の秋に、コンピュータ部門が府中事業所に移ってからは府中から通い、どうにか卒業しました。
 前置きが少し長くなりましたが、最初のうちはコンピュータ入出力制御部の開発や通信制御装置の開発を担当しました。その後しばらくして漢字システムの開発に加わったたのがきっかけで、次第に文字関係の仕事が私のところに集まってくるようになりました。優秀なハードウエア技術者やソフトウエア技術者は畑違いの文字はやりたがらなかったからです。

――いくらプリンタを作っても、フォントがないと印字できないと思うのですが。

伊藤 どの会社でもそうだったと思いますが、あの頃はまだ文字の重要性が認識されておらず、またそういう方面の人材は採っていなかったのです。
 その一方、文字は直接ユーザーの目に触れるものなので、さまざまな御意見・御感想をいただきますから、それに細かく対応していかなければなりません。手直しを重ねることによって、フォントのデザインが洗練されていくのですが、こういう仕事の重要性はなかなか理解してもらえませんでした。

NECフォントのルーツ

――今でもそういうところはありますね。文字関係の仕事というと、具体的にはどのようなことでしょうか?

伊藤 最初の文字に絡んだ仕事としては、成田空港のインフォメーションディスプレイシステムでしょうか。旅客ターミナル・ビルの中にフライト・スケジュールを出すディスプレイがあるじゃないですか。あのシステム開発を私が担当させてもらいました。成田空港は反対運動や、完成直前に過激派が占拠し、管制塔の設備が破壊されるなどして、開港が7〜8年延期されましたが、それをいれると20年くらい使われたと思います。
 成田空港のシステムはコンピュータメーカー数社によるジョイント・ベンチャーでやったのですが、メインコンピュータ、放送機、フラップボード、ディスプレイなどを数社で分担しました。
 ディスプレイは空港ビルの中だけでなく、管制塔にも設置しましたから、ケーブルの総延長は1万メートルを越えました。建設中の現場にジープで行きまして、どう引き回すか、どこに中継アンプをいれるかまで検討したんですが、表示が使命のシステムですから何といっても一番の問題は文字でした。
 当時はファイルになったフォントはおろか、半導体のROMすらありませんでしたから、磁気コアメモリで作らなければなりませんでした。

――磁気コアメモリというと、豆粒くらいのフェライトのリングを電線の編目に編みこんだやつですよね。ソフト的に記憶させるのではなく、ワイヤーロジックでドットパターンを作るのですか?

伊藤 そうですというか、RAMとROMでは少し違いますが……。磁気コアメモリーというのはフェライトのリング一つが一ビットになっていて、1キロビットのRAMのパネルがB5版くらいの大きさだったと思います。手編みで作るんですが、非常に複雑な作業です。私が図面を書いて、製作は専門の人がやったのですが、一箇所、設計図を間違えた所があって、作業する方に御苦労をかけました。間違えたコアのところまで電線をほどき、もう一度編み直すんですが、縦横だけでなく、斜めの線がありますからね。

――コアを編む人は設計の誤りに気づかないんでしょうか?

伊藤 気づいたとしても、設計図がおかしいと言ってくることはまずないです。あのディスプレイではアルファベットの文字を発生させるROMとして使うので、もう少し大きくて作業性のよいUIコアを使いました。

――バックアップシステムなどで同じものが必要な場合は、手編みで同じものを作るのですか?

伊藤 そうです。

――うううむ。考えただけで気が遠くなりそうです。

伊藤 ところが、その先がありまして、せっかく作った文字の形がよろしくないとクレームが来て、コアの巻き直しを2〜3回行いました。空港公団ではいろいろな人の意見を聞かれたらしいのですが、外人の中に、あれではアルファベットとはいえないと言う人がいたそうです。

――文字の大きさはどのくらいだったのですか?

伊藤 はっきり覚えていませんが、7×9ドットだったか9×12ドットくらいだったと思います。だからデザイン上の制約があるのは当たり前なんですが、それでもアルファベットをネイティブで使っている人の目から見ると、おかしいということのようです。
 最初作り直したときは、それも駄目で、結局、空港公団の方からデザイナーの桑山弥三郎さんを紹介していただきました。桑山さんは伊藤勝一氏、長田克己氏、林隆男氏と四人でグループ・タイポを結成し、タイポスという書体を作って注目された方です。桑山さんにはその後もお付きあいいただき、漢字プリンタの文字もタイポス風書体を含めていくつか作っていただきました。中には現在のNECフォントの原形となっているものもあります。

漢字システム部を兼務する

――NECのフォントにタイポスの人がかかわっていたのですか。文字デザインというと、原字を描いてもらうわけですか?

伊藤 まだそういう時代ではなく、直接ドットパターンを作ってもらいました。最初は丸い判子を捺してドットパターンを作ったのですが、その後、OMRにかけられる専用の用紙を作り、それを塗りつぶしてもらいました。

――それも気の遠くなるような話ですね。何年くらいの話ですか?

伊藤 30年以上前の1970年頃です。

――JIS C 6226以前ですから、文字選定からやったわけですよね。何字収録したのですか?

伊藤 非漢字と漢字を併せて3千字前後だったと思います。文字選定は邦文タイプライターや印刷用活字などの既存のセットが参考になりましたが、それ以上に字体の選定で頭をかかえました。「辻」は一点之繞しんにょうにするのか、二点之繞しんにょうにするのかというような具体的な問題を一字一字について確認してくるのですが、社内にはそんなことがわかる人はいません。結局、当用漢字以外は当時普及していた邦文タイプライターの字体と同じにするのが無難だろうということになりましたが、実はタイプライターも使っている活字セットによって字体が異なるという問題がもちあがりました。更に同じ会社でも明朝体とゴシック体は字体が異なりますが、初めはそんなことも知らなかったですから、文字はこんなに大変なものかと思いました。こうしてなんとか最初の日本電気標準漢字コードセットができあがり、JIS C 6226が制定されるまで使いました。

――そうした作業はすでに伊藤さんが中心になった進められたのですか?

伊藤 作業はそのとおりですが、当時ある大学の先生をされていた方に日本語処理に関するコンサルタントをお願いしており、方式等について指導を受けました。その後社内に漢字システムを専門とする部門ができ、私はそこの兼務になりました。

――漢字システム部門は研究開発部門ですか?

伊藤 研究開発的な面もなくはないですが、主に市場ニーズを把握して開発部門に伝えたり、システム・エンジニアを支援するための部署です。 今でこそ、ほとんどすべてのシステムに漢字処理がからんでいますが、当時はアルファベットと半角カナで十分というかそれしかない時代でした。給料の明細書がカナで打ちだされた時代が長くつづいたでしょ。漢字システムは非常にコストがかかったので、特別に必要のある場合しか使えませんでした。従ってシステムも普及していなかったので、漢字を使うプロジェクトの時は漢字システム部門がサポートしたのです。

――特別に必要があるというと、具体的には?

伊藤 私が担当した中では、例えば運転免許証発行システムです。今ではどこの免許センターでも、更新は交通安全のビデオを見ている間に免許証が打ちだされますが、昔は一週間後くらいに郵送されたものです。現在のような即日交付のシステムを最初に作ったのは愛知県警でした。

――愛知県が最初とは意外です。それを伊藤さんがやられたわけですね?

伊藤 私もプロジェクトに加わりました。あのプロジェクトでは私がシステム・エンジニア的な仕事をしたので、特に印象に残っています。一日の受験者がどのくらいか、どういう流れで検査や試験をするのか、どの段階で人が溜まるか、将来の受験者の伸びがどのくらいかなどを聞き、システムの規模を計算しました。
 このシステムで愛知県警は情報化週間で大きな賞をとりました。その後、他の都道府県も漢字システムによる即日交付システムを次々と導入されました。

高速漢字プリンタ

――NECは高速漢字プリンタを1975年に国立国語研究所へ納入するわけですが、それは工場の仕事としてやったのですか、漢字システム部の仕事としてやったのですか?

伊藤 そのプリンタの開発では私がフォントを担当したのですが、工場技術者の仕事としてやりました。

――NECと国立国語研究所とではそれまでに漢字システムで関係があったのですか?

伊藤 さあ? 当時国立国語研究所が使っていたコンピュータは日立だったと思います。また漢字プリンタで競合したのは日立のミニコンをコントローラーとして使っていたJEM(日本電子産業)という会社です。

――JEMというのはどういう会社ですか?

伊藤 JEMは秩父セメントのシステム開発部門が独立した会社です。セメント製造は炉の温度管理が難しく、職人の勘頼りでしたが、秩父セメントはいち早くコンピュータ制御にとりくみました。
 秩父セメントではシステム開発部門にいい人材をそろえたのですが、セメント製造工程を管理するコンピュータを開発した技術を他へ幅広く応用しようということで、JEMが設立されたという経緯のようです。JEMは漢字処理のノウハウをもっていまして、漢字システムの草創期にJICST(日本科学技術情報センター)や保険会社や出版社などに次々とシステムを入れていました。

――JEMが最大のライバルだった?

伊藤 そうです。ですから、国立国語研究所の先生から質問の電話をいただくと、どんな件でもすぐに板橋本町まで飛んでいって、直接御説明しました。府中から片道二時間かかったのですが、何度も通いました。そのうちに、斎藤秀紀先生が東京電機大工学部二部の二年先輩だったことがわかり、親しくさせていただくようになりました。

JIS C 6226

――いよいよ1978年です。この年、JIS C 6226が制定されます。制定後はNEC独自の漢字コードから全面的にJIS C 6226に移行したわけですか?

伊藤 JIS C 6226の委員会に私がかかわり始めたのは1990年版からですが、移行に関しては最初から絡んでいました。
 JIS C 6226への移行については、万全の措置をとりました。NECには社内技術標準制度があるのですが、JIS C 6226の第1版1刷に若干の文字を追加したものを「日本電気情報処理技術標準」にしました。JIS C 6226は4刷までに12字の字形が変わっていますが、既に汎用機のACOSが自治体等に入っていたので、途中で変えるわけにはいきません。自治体に限らず、固有名詞をあつかうところでは第1版1刷の例示字形と異なる異体字は外字にしてあるので、字形を変更すると、何十万人ものデータが滅茶苦茶になってしまいます。

――社内技術標準は絶対なわけですか?

伊藤 そうです。ただ、文字コードについては徹底しない時期がありました。あるお客様からディスプレイとプリンタの文字が違う、どちらもNECの製品なのにどうしたことだというお叱りをいただきました。プリンタの型番をうかがったところ、私の知らない製品でした。
 調べたところ、そのプリンタはある事業部が通信用システムの一部として製造していたもので、他社の漢字ROMを使っていたことがわかりました。その事業部に事情を聞いたところ、JIS準拠だから問題ないだろうと市販の漢字ROMを買ったというのですね。実はJISといってもC6226ではなく、C6234(24×24ドット字形)だったのです。この事件以降は情報処理グループ以外にも徹底しましたが。

ワープロを作る

――1978年は東芝から最初の日本語ワープロJW-10が出たという意味でも、エポックメイキングな年でした。ワープロについてはいかがですか?

伊藤 ワープロの方は当事者でした。東芝さんがJW-10を出した時、ちょうど日本語処理システムの製品計画を担当していたので、上からの指令ですぐにワープロの開発計画を作りました。

――JW-10が発売されてから動きはじめたんですか?

伊藤 JW-10は発売の半年ほど前に、確かデータショーかなにかに参考出品されたのです。実機を見て、これはやばいと思いました。すぐにNECでもプロジェクト・チームを立ちあげることになり、錚々たるメンバーを集めて合宿検討会をやりました。
 戦略を話しあったのですが、ワープロをすぐに一般の人が使うようになるとは考えにくい。企業が買うといっても、六百何十万円というロールスロイス並みの値段だから、一人一台なんていう時代は当分来ず、総務に何台かいれるような形になるのではないか。総務が誰にまかせるかとなったら、絶対に邦文タイピストだろう、と考えました。当時は役所に出す書類は邦文タイプで浄書することになっていましたから、どの会社にも邦文タイピストがいたんですよ。そこで、まず邦文タイピスト向けの製品を出すことになりました。
 実はうちのかみさんが邦文タイプをやっていまして、話を聞いたところ、邦文タイプの盤面は旧仮名遣いのイロハ順に配列されているので、邦文タイピストに使わせるならイロハ配列にしなければいけないと言うのです。NEC内の邦文タイピストにアンケートしたり、面接して話を聞いても、イロハ順がいいということでした。タイピスト学校で教えるのはイロハ順だけで、印刷屋さんもイロハ順しか打てませんでした。50音配列の邦文タイプはあることはあるけれども一般的ではなかった。

――すると、NECのワープロ一号機はイロハ順にしたのですか?

伊藤 選択できるようにしました。ペンタッチでやったので、文字盤にイロハ配列のシートをかぶせればイロハ配列になり、50音配列のシートをかぶせれば50音配列になるようにしました。どのシートをかぶせているかはシートのタグの位置で自動判別できます。

日本語処理の体制を作る

――邦文タイピストを意識した製品はあくまで過渡期的な製品ですよね。本命はJW-10のようなカナ漢字変換だったのではありませんか?

伊藤 将来の個人向けということではそうです。邦文タイピスト向けの製品で徐々に浸透をはかる一方で、カナ漢字変換の開発を進めました。仮名漢字変換を実現するには仮名漢字変換用の辞書を作らなければなりませんが、これもやる人がいない。ハード関係、ソフト関係は錚々たる専門家がいましたが、文字や国語のわかる人はいなかった。
 それまでにもフォント作りなど、文字関係の開発の仕事はありましたが、全部外部にお願いしている状態でした。しかし、日本語処理はますます重要になっていくので、NEC内部で開発できる体制を作ろうということになりました。
 フォント一つをとっても、作りっぱなしというわけにはいかない。ドット・インパクト・プリンタで打ったドットははみ出しがあって、設計よりも1〜2割大きな円になる。はみ出しが重なりあって、点がつながるように字形を設計するので、プリンタの解像度が上がると手直しの必要がある。
 パーソナル・ワープロは液晶が主流でしたが、液晶ではドットのはみ出しはありません。はみ出しを前提にした字形では斜めの線が切れてしまうので、液晶用に修正したフォントを作らなければならない。
 デザイナーが一ヶ所では間に合わなくなり、複数に依頼することになりますが、そうなるとデザイナーによる書風の違いが出てくるし、うっかりすると字体の違いにまでおよぶ場合がある。桑山さんに作っていただいた文字が指針になりますが、一貫して字形をチェックする体制を社内に作らないと、どうにもならなくなっていたのです。
 体制を作るには、まず人を集めなければなりません。そこで日本電気漢字システムに日本語処理のセンター機能を持たせようということになり、私が出向しました。私の最初の仕事は、文学部の国語研究室や美大のデザイン科をまわって、いろいろな専門家をリクルートすることでした。

――日本電気漢字システムとは、どういう会社なんですか?

伊藤 JEMの後身です。

――え!? JEMというと、NECの最大のライバルだったのではないですか?

伊藤 先ほどお話ししましたように、JEMは秩父セメントから独立した会社で、日本語処理では長らくライバルだったのですが、社内でも漢字処理の重要性が理解されてきていたところだったので、1975年にNECが資本参加して日本電気漢字システムという会社が誕生しました。
 その後1985年に100%子会社化されNECオフィスシステムと改称しました。しかし2001年にリストラクチャリングの一環として、NECネクサソリューションズに統合されたので、現在は社名は残っていません。

 同社には漢字システムの草創期から技術開発を先導してこられた長谷川実郎さんがおられて、新聞製作システムや印刷システムに力をいれていました。アウトライン・フォント方式の基本特許で有名な長谷川さんです。

――アウトライン・フォントの基本特許はNECがもっていたのですか!?

伊藤 アウトライン・フォントの概念そのものはそれ以前にもあったらしいのですが、電子的に実現するための方式を完成させ、システムとして実用化したのは長谷川さんです。国内主要企業はもとより、海外の主要企業にも、ライセンスを供与しました。

――不勉強で知りませんでした。しかし、NEC以外の会社がアウトライン・フォント搭載を売物にしたワープロを大々的に宣伝したことがあったような気がするのですが。

伊藤 あの広告は、その会社へのライセンス契約が成立した翌週からバンバン流れましたね。未契約のうちは、ああいう広告は打てませんから、契約交渉前から準備していたのでしょう。

――アウトライン・フォントの基本特許はかなり早い時点でとっていたのですか? 1995年までの特許法では、特許の有効期間は出願後20年か公告後15年の短い方でしたよね。

伊藤 1973年の出願ですから、1993年に切れてしまいました。普及に時間がかかったというか、早すぎる発明だったかもしれません。

安部公房とワープロ

――話は変りますが、日本で最初にワープロで原稿を書いた作家は安部公房です。安部公房は1984年にNECのNWP-10Nというビジネス・ワープロを使いはじめ、パーソナル・ワープロの「文豪」シリーズができると、「文豪」に替えたのですが、技術者にいろいろ注文をつけて、頭をかかえさせていたと出版社筋から聞きました。そのあたりのことは御存知ですか?

伊藤 私が直接かかわったわけではないですが、安部さんが「文豪」を使ってくださっていたことは存じています。安部さんが使われていた時代は、文学者の方は別かもしれませんが、一般社会ではワープロやパソコンがかなり普及し、NEC内部の体制もものすごく膨れておりました。本社サイドに販売促進専門の部隊ができていまして、安部さんのご要望にはそこが対応していました。その部隊のトップは私の友人でして、安部さんからどういう注文があったというような情報は私のところにもはいっていました。
 ただ、その頃には、私はもうワープロの製品計画から離れ、文字の問題に専念するようになっていました。

多国語処理に挑む

――ワープロ専門から、日本語処理全般を見る立場に変わったということですね?

伊藤 ワープロ専門から離れるのは1980年代の末で、立場が変わったということではなく、実はワープロ担当以前から担当している間ずっと並行して海外向けの端末開発も担当していました。ハングル端末、中文端末、アラビア文字端末、タイ文字端末などを作り、漢字プリンタが使えるようにしました。ビットマップフォントの場合は基本的にはフォントデータを変えるだけで打ちだせるのです。アラビア語ではソフトウェアも若干手直ししなければなりませんが。

――アカデミックな研究ならともかく、当時、そんな需要があったのですか?

伊藤 漢字を使う国では必須でしたし、他の国も経済的問題を除けば自国の文字が自由に使えるシステムは欲しかったでしょう。タイ文字の場合は、とにかくタイ文字の表示できる端末を作ってくれというのです。タイ語の本でタイ文字をにわか勉強して、タイ文字が表示できるものを作り向こうにもっていきました。受入れ先は有名な大学だったのですが、そこでもタイ文字のシステムはまだ動いていない状態でした。確証はないですが、もしかしたら、実用レベルとしては最初のタイ文字システムだったかもしれません。

――タイの国家規格TIS620は1992年制定ですから、1980年代にはタイ文字の文字コードはまだなかったはずです。文字コードはどうしたんですか?

伊藤 大学側の決めた仕様でやりました。

――その仕様がTIS620になった?

伊藤 それはわかりません。次世代機は別の人にバトンタッチして、他の開発に移りましたから。タイ文字の前だったか後だったか、定かではないのですが、アラビア文字端末もやりました。

――それはどこの国向けですか?

伊藤 イラクです。政府や金融機関等に、大型コンピュータシステムの端末として一緒にいれました。

――文字コードはどうしましたか? ASMOはできていたんでしょうか?

伊藤 ASMOの原案段階だったと思います。都内にアラブ圏専門の商社がありまして、アラビア語図書もあつかっていたので、そこにコンサルタント業務をお願いしました。
 調べてもらったところ、アラビア語圏ではいろいろな文字コードが乱立していたが、ASMOで統一文字コードを決めようとしているとわかり、資料をとりよせました。ASMO案でいいかと先方に確認をとったところ、それでよいということだったので進めました。

――ASMOの会議にはJIS C 6226で主査をつとめられた西村恕彦氏と、漢字の頻度分析を担当された矢島敬二氏が招かれたそうです。

 フォントはどうしました?

伊藤 コンサルタント業務をお願いした商社に作ってもらいました。キートップの字母の彫刻などもです。そのあたりの調整とか発注、仕様書を私が担当しました。

――アラビア文字の場合、カーソルの動きを逆にするとか、文字合成をおこなうとか、内部もいじらなければならないと思うのですが、OSは何を使ったのですか?

伊藤 PTOSというNEC独自のビジネスパソコン用OSです。
 アラビア文字端末に限りませんが、文字関係でハードウェア、ソフトウェアの共通でない部分はだいたい私が仕様を書きました。アラビア文字端末の場合、共通でない部分だらけでしたが、N6300/50Nという、当時よく売れた端末をベースに、アラビア語化しました。

――イラクでは今でも使っているのでしょうか? ずっと経済制裁を受けていたので、コンピュータのリプレースはできないと思うのですが。

伊藤 それはわかりません。20年くらいはたつでしょうが、どうでしょうね。

――イラク以外のアラブ圏には売ったんでしょうか?

伊藤 イラク以外には売っていないんじゃないでしょうか。わからないですが。

――海外にコンピュータを売る場合、文字関係の難しい仕事はみんな伊藤さんのところにきたわけですね?

伊藤 立ちあげ段階ではそうですね。その意味ではおもしろい仕事をさせてもらったと思います。その代り忙しかったです。下に何人かいたんですが、特殊な分野ですから。
 私は電気屋ですが、電気屋/機械屋/数学屋さんのやらないことをやってきたということです。

KS 5601秘話

――タイ文字、アラビア文字以外はどうですか?

伊藤 タイ文字、アラビア文字の前に、ハングルを手がけました。N5200という非常によく売れたマシンがあるのですが、Lotus 1-2-3と似たソフトも動いていましたので、韓国でも使いたいといってきました。そこで現地の合弁会社とともにローカリゼーションをやることになり、私が文字や入力関連などの支援をしました。N5200の発売が80年代初めだったと思うので、そのすこし後です。

――N5200というと、オフコンですか?

伊藤 企業向けの製品なので、個人ユーザーの方にはなじみがないかもしれませんが、ビジネス・パソコンです。息の長い製品で、NEC社内でもまだ使っているところがありますよ。
 N5200は、もともとACOSという汎用機の端末およびスタンドアロンとしてビジネスに使うことを目指した製品でした。それに対して、PC 9801はTK-80の流れで、最初からパソコンとしてPC 8001、PC 8801、PC 9801と発展し、後にオンライン端末としても使うようになった製品で、育った環境や経緯がまったく違います。
 N5200はシフトJISができる以前に誕生しましたから、文字コードはJIS C 6226をそのまま使っていました。最初、PC 9801シリーズとはハード的にも別だったのですが、二系統の機械を作りつづけるのはコスト的に問題があるので、ハードは共通にし、OSだけ変えるようになりました。N5200は先ほどお話ししましたPTOSというNEC独自のマルチタスクOSで動きます。
 というと、簡単そうですが、内部はまったく違うんですよ。たとえば、1バイトを表すビットの並びの順をビット・ウェイトといいますが、これがN5200とPC 9801では逆だったので、ROMなども共通には使えません。

――KS C 5601が現在のようになるのは1987年のことですから、それ以前の話ですね。となると、ハングルは組みあわせ(チョハブ)方式ですか?

伊藤 いいえ。完成形でいれました。

――当時、完成形方式のハングル・コードは珍らしかったと思いますが、完成形なら、フォントを交換する程度の最小限の手間で、日本製のソフトウェアが動きますね。どんな風に開発したのでしょうか?

伊藤 向こうの専門家がまずハングルがどういう文字かということを講義してくれました。字母の組みあわせは理論的には1万通り以上あるが、実際に朝鮮語音として存在するのは7千程度、そのうち現代語で使われているのは2千5〜6百しかないというんですね。漢字はあまり使われていないが、新聞を見ると5〜10%程度混ざっている。そこで、どんな漢字が使われているのか、新聞社や印刷所をいっしょにまわって調査し、資料をまとめました。
 ハングルは結局2600字近く入れたと思います。多分、その後にできたKS 5601のハングルとあまり異同がないだろうと思います。
 ハングルが2600字、漢字もそのくらいで間にあうのなら、ISO 2022の1面におさまります。N5200で使っているJIS C 6226の構造について説明し、第一水準漢字の場所にハングル、第二水準漢字の場所に漢字を並べたらどうですかと提案したところ、大学教授で当時合弁会社の顧問をやっておられた韓国情報処理の大御所 金吉昌博士が「その様な考えでいきましょう」とおっしゃいました。

――第一水準領域にハングル、第二水準領域に漢字といったら、KS C 5601と同じではないですか! ハングルは16区からいれたのですか?

伊藤 そうです。頭の部分にアルファベット、数字、ハングル字母等があって、16区からハングル完成形になります。ただ漢字の初めの区はJISとは違っていましたけど。

――考え方はまったく同じですね。KS 5601にはN5200の文字コードの影響がある?

伊藤 N5200の影響というより、JIS漢字コードの影響ですね。GBと同様にKSもJISを参考に作られたのでしょう。当然金博士の影響は大きいですよ。うろ覚えですがちょうどその頃、金博士は韓国コンピュータ委員会の委員をやっておられ、その後KS 5601委員会の委員長をやられた筈です。

――これで謎が解けました。中国のGB2312がJIS C 6226の構造を踏襲したことに関しては、JIS原案委員会の西村恕彦氏が中国にまねかれことが大きいのですが、韓国のKS 5601の場合も、単に文献資料を参考にしたのではなく、伊藤さんがミッシング・リングになっておられたんですね。

伊藤 私が直接KSに貢献したとか、そういうことはまったくないんですよ。仕事の出会いの中で、たまたま金博士にJIS C 6226の構造について御説明する機会があったというだけです。

――フォントはどうしたのですか?

伊藤 漢字はNECの方ですでにグリフの蓄積があったので、調査資料をもとに、どの字をいれるか選んでもらいました。ハングルは韓国の文化ですから、仕様だけこちらから提示して、現地の合弁会社に開発してもらいました。

――日本風の書体で問題はなかったのですか?

伊藤 字形のことですね。例えば中国ではナベブタの形や、天や反の一番上の横線が日本の漢字字形と大きく異なるのですが、韓国の場合は伝統的な旧字体に近いので、日本の漢字でもあんまり問題がなかった。ただし第二水準の漢字が多く選択されたように記憶しています。

GB2312秘話

――先日、情報処理学会のパネル・ディスカッションでご一緒させていただいた時に、GB2312の罫線素片のルーツがNECだとうかがったのですが、そのあたりをお話し願えませんか?

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罫線素片

伊藤 GBの前に、まずNECが中国とどういう形で関係をはじめたかからお話しします。
 1972年の田中角栄首相訪中で日中国交回復が実現し、調印の模様がTVで実況中継されました。実はあの中継はNECのチームがパラボラアンテナと中継機材をもってゆき、ぶっつけ本番に近い条件でやりました。この成功が中国側に評価され、多くの引合いが来て、NECから何度も訪中団を派遣しています。
 私は1975年の第二回NEC訪中団にくわわりまして、漢字プリンタの紹介をしました。その後70年代後半から80年代初めにかけて郵電部(郵政省相当)の電気通信研究所などに中国語端末と漢字プリンタをもちこみ、デモをおこないました。GBはまだありませんから、8000字の新華辞典の親字を94×94に並べたNEC独自の中文コードを作りました。
 これをきっかけに中国のコンピュータ関係者と交流するようになり、何回も中国に行っているのですが、ある時GB2312委員会の主査をされていた陳耀星先生にGBのドラフトをいただきました。こちらからは参考にしてもらえればと、日本電気標準漢字コードの符号表をお渡ししました。
 日本電気標準漢字コードはJIS C 6226をベースに、空いているエリアに文字を追加しているのですが、陳先生は罫線素片に目をとめられ、「これは何か」と質問されました。
 これは罫線素片といって、帳票を作る際に組みあわせて枠組にするんですよ、だからコーナーがあったり、太いのと細いのがあるんですよとご説明しました。
 出来あがった中国の国家標準文字コードGB2312を見ると、罫線素片の部分がそっくりそのままはいっていて、驚きました。区は違いますが、並び順はまったく同じです。後に陳先生にお会いしたところ、「あれは便利なので、そのままいれさせてもらいました」といってくださいました。

――罫線素片はドット・プリンタが普及してはじめて意味が出てきますが、その罫線素片がJISよりも早くGBにはいったのは、そういうわけだったのですね。ほかにも技術的な影響をおよぼしたことがあるのではないですか?

伊藤 私どもの影響ということではないかもしれませんが、第二回NEC訪中団で最初に漢字システムを中国に持っていった時はペンタッチ入力だったのですが、日本では仮名漢字変換が主流になりましたから、中国もピンイン漢字変換になるだろうと考え、ピンイン漢字変換の共同開発を提案したことがあります。しかし、あの時点ではまったく相手にされませんでした。
 ピンイン(拼音)は、新中国になって7〜8年後から次々と実施された国語政策(普通話=標準語、簡化字、拼音など)の一つで、中国語の音韻を分析して作られた表音記号です。1960年代初め頃から学校で教えはじめたため、当時30代以上の人の間にはほとんど広まっていませんでした。1970年頃は漢字入力方式が四百種類以上あったのですが、ほとんどが字形コード方式で、その後淘汰されて、五筆という字形コード変換が主流になったのですが、今はむしろピンイン漢字変換です。

キーボード、理想と現実

――音韻分析にもとづく入力方式といえば、NECのM式キーボードもそうですよね?

伊藤 そうです。M式は森田式といって、NECの森田正典が開発したものです。森田さんは無線の大家で、現在の携帯電話の基本技術にもかかわっています。森田さんは情報処理担当の専務で本社を退任後、関連会社の会長や社長を歴任されたのですが、本社退任後、図書館に通って日本語の研究書を何十冊と読み、音韻構造という原点に立ちかえって森田式キーボードを作りあげたのです。
 森田式の基本概念は中国語にも適用できるので、中国語版M式キーボードも作りました。中国の研究所や学会に、M式を紹介するためのキャラバンを派遣したこともあります。
 1987年だったと思いますが、中国科学院に招かれ、森田さんが講演したことがあります。その時は私と女性オペレーターが同行しました。向こうの専門家の前でオペレーターが実演してみせたのですが、1分間に200字から240字入力するという速さだったので、最初は「文章を暗記しているんだろう」と信じてもらえませんでした。そこで日本語のできる学者が漢字かな交じり文をその場で書き、それを入力したところ、初見のデータでも1分間200字を越える速度が出たので、みんな愕然としていました。これを機に待遇が一段とよくなりまして、広東、上海とまわることになっていたのですが、途中西安の招待所に招いてくれ、兵馬俑坑に案内してくれるなど、たいそうな歓待でした。

――M式はまだ作っているのですか?

伊藤 さあ、今はその関連から離れているのでよくわかりませんが、標準品としてはないと思います。M式に惚れこんでくださる方がいて、印刷会社など、日本語入力を専門にやっているところでは、全社のコンピュータをM式で統一するというところが何社かありましたから、今でも使っているところはあると思うんですが。
 学術的にはすばらしいもので、森田さんはM式でいくつも賞を受賞されたのですが、売る人には負荷になったのでしょう。マスコミではとりあげられても、秋葉原などでは置いてくれないんですよ。
 もう一つはアルファベットとの対応です。M式のキー配列とアルファベットのQWERTY配列と異なるので、それも要因でした。

――カナ文字のようにまったく別の表記体系なら、ズレがあって当たり前ですが、M式の場合はなまじアルファベットを使うだけに、ズレには抵抗があるでしょうね。

伊藤 現在の日本人のほとんどは、QWERTY配列のキーボードで、ヘボン式でも訓令式でもない、ワープロ式とでも言うしかない独特のローマ字表記で入力していますよね。

――「ん」を「nn」とするようなローマ字表記は、ワープロ以前にはなかったかもしれません。

伊藤 私はJIS C 6235(新JISキーボード)の委員もやらせていただいたのですが、キー配列自体はすぐれたものでした。膨大な文章を解析し、ある音節の次にどの音節が来るか統計をとり、配列候補をいくつも作って、それぞれの場合の運指を大型コンピュータでシミュレーションしました。三つに絞りこみ、モニターによるテストを繰りかえして一番よかったものを規格にしました。
 しかし、いくらすぐれていても、販売に問題があった。私どももワープロ専用機やパソコンを新JIS配列と従来の配列と二種類用意したのですが、いかんせん売れなかった。売れないと販売店が置いてくれず、ますます売れなくなる。結局普及せず、新JIS配列の規格もとうとう廃止になってしまいました。
 英語のDOVRAK配列の場合は常駐ソフトでキーマッピングを入れ替えるだけで実現できるので、細々とながら使いつづけられているようですが、日本語の新配列キーボードの場合は専用のハードウェアが必要です。技術的にどんなによいものでも互換性や継続性がないと製品として普及するのはなかなか難しいですね。

――ぼくは新JISキーボードは小指シフトだった点にも問題があったと考えています。規格の解説に、シフトキーは本当は親指に割りあてたかったとほのめかす記述があったと思います。親指シフトやTRONキーボードは高価な限定生産品を買っている熱烈なユーザーがいるらしいですが。

台湾

――韓国、中国とうかがってきたわけですが、台湾はどうでしょうか?

伊藤 台湾には1981年に漢字端末と高速漢字プリンタを納めました。CNSもBig5もまだなく、漢字コードをどうしようかと議論している最中でしたが、仮にでもコードを決めないことにはシステムができませんから、国の機関の方々といろいろ話しあいながら、暫定的にISO2022の2バイトコード系を二面使って、先方のコンピュータセンターがもっていた文字セット約1万3千字を配列してもらいました。そしてフォントは現地合弁会社に体制を作ってもらい、私がリモコンしながら作りました。

――1981年に、台湾当局と協議しながら1万3千字の文字コードを作られたというのは重要ですね。1982年に台湾教育部(文部省相当)が公布した「常用国字標準字体表」はCNS 11643の第1面に、「次常用字、罕用字、異体字表」は第2面にはいりますが、これがまさに1万3千字です。もし、コンピュータ・センターのもっていた文字セットが「常用国字標準字体表」+「次常用字、罕用字、異体字表」の原案だったとしたら、伊藤さんが作られた台湾漢字コードはCNS 11643の原型になったのではありませんか?

伊藤 コードについては、漢字フォントを制作していた1980年の秋頃、台北行きの機上で偶然中華民国標準漢字コードの検討状況に関する新聞記事を読みました。何でも2系統の委員会の動きがあって、一方は2バイトコードであるが、漢字をコードポジションの一つ飛びに配列するので4面必要というもので、もう一方は3バイトコード系で対象文字数が数万字というものでした。いずれもISO2022に完全には準拠しておらず、それらがそのまま国家標準になると国際互換上やシステム実装上問題があるので、ホテルで問題点等を整理して資料を作成し、翌日先方の漢字コード委員会の委員をされていた政府機関の方に説明しました。しばらくたって訪台したときにその方から、ドラフトが発表間近だったがもう一度検討しなおすことになったと伺いました。
 我々が当時作ったコードは、ISO2022に則りGLとGRの二面に1万3千字を分けて配列することを目標とし、第1面に約7千4百字、残りを第2面に配列しました。
 また、字体について誰かしっかりと見てもらえる人を設定して欲しいとお願いしました。その時紹介された教育部の顧問で常用国字字体表の専門家から指導を受けてわかったのですが、向こうでは月の「月」(明など)と肉月の「月」(胃、祭など)の字形を厳密に書きわけ、学校でもそのように教えていたのです。内という字は人ではなく入るだとか、之繞しんにょうの字体なども徹底的になおされました。

――ISO 10646のT欄はそうなっていますね。フォントはやはり現地で調達するしかないですか?

伊藤 そうです。逆にいうと、コストが安いからといって、韓国や中国の会社に日本で使うフォントを作らせると、異和感のある文字になります。韓国や中国からの売りこみがよくありましたが、検討しても当時は使えなかったですね。最近は日本の書体を研究しているところもあるようで、事情はだいぶ変わっていますが。

――日本ではCNS 11643はBig5をISO 2022形式に並べかえたものだと書いている人が多いんですが、国際情報化協力センター多言語情報処理環境技術委員会の1997年の報告書には「Big5は事実上台湾の標準実装コードで、CNS 11643試案(プレーン1、2相当)をシフトJISと同様に1バイト、2バイト混在に取り込んだものである」という記述があります。この報告書は実際に台湾にいき、担当者にヒアリングして書かれたものなので間違いありませんし、内部的な証拠からいっても、CNS 11643がBig5に先行したことは明白です。

伊藤 そのとおりです。CNSの原型は最初に私達が協力して作った政府機関のコードと文字セットが叩き台になって、他の機関や企業からの文字セットがマージされ、さらに第1水準/第2水準の振り分けや文字配列がやり直されて制定されたと認識しています。私達が協力していた機関の責任者や合弁会社の技術者もその後委員会の委員として活躍されたので話もある程度聞いていました。
 BIG5はこれらの文字セットがシフトJISと同じような体系でパソコンの内部コードとして規定されたもので、製品開発をしていたメーカー団体が主導したのですが、実は委員はかなりダブっていたようですから。
 BIG5はその後、CNSやUCSなどの文字を約8千字加えて、2万1千数百字のBIG5+という規格になりました。

――伊藤さんとNECの高速漢字プリンタは、中国・韓国のみならず、台湾の文字コードにも大きな影響をあたえたのですね。

メーカーの責任

――さて、問題の1983年です。

伊藤 JISの83改正の委員会には私はかかわっていませんが、並行して進められたフォントの委員会には出ました。プリンタ用24ドットのJIS 6234、ディスプレイ用16ドットのJIS C 6232です。後者の委員会では幹事に指名され、規格本文と解説をまとめました。これは第1水準のみが規格で、第2水準は参考規格です。

――野村雅昭氏はフォントの方の委員もやっておられましたよね?

伊藤 はい。委員会発足前の会合でだったか、字形にかかわる規格を作る以上、国語学者に参加してもらったほうがいいんじゃないかという話があったのと、JIS C 6226委員会とのリエゾンも必要だということで、野村先生にお願いすることになったんだろうと思います。

――83改正の字形変更は、フォントの規格にあわせるためにおこなわれたということはあるんでしょうか?

伊藤 字形の委員会では、コード規格と字形規格に相違があるのはよくないという意見が強くありました。
 加藤さんは常用漢字表にはいっていない字にまで簡略化をおよぼしたのはけしからんと批判されていますが、常用漢字が将来拡大されるとしたら、当用漢字から常用漢字に移ったときの考え方が踏襲され、追加される字はきっと簡略化されるだろうから、最初から簡略化しておいた方がいいんじゃないかという考え方もありました。

――野村氏は常用漢字表で95字増えたのにさえ、激烈な批判を発表していますから、常用漢字表の拡大を前提にした議論に乗ってくるとは考えにくいのですが。

伊藤 そのような背景は知りませんでしたし、字形規格の委員会内でそのような議論はなかったと思います。レターサイズを24にするか22にするかとか、16ドットでどこまで省略せずに漢字が表現できるかが大きな問題でした。

――先ほど、日本電気標準漢字コードはJIS C 6226の1版1刷の字形を守りつづけたというお話をされましたが、符号表にせよ、フォントにせよ、規格の字形の変更に賛成したら、メーカーとしてはまずかったんじゃないでしょうか? だからこそ、NECは83JIS以降も78JISを使いつづけたのではありませんか?

伊藤 NECとしての判断をいっているんですね。中公新書から出した『漢字文化とコンピュータ』の83改正に関する記述が曖昧だと、「ほら貝」の書評で加藤さんに批判されましたが、メーカーの社員の立場では書きにくいこともあります。本を出す場合は事業部長の許可を得ることになっているのですが、あの本を出した時は、私は日本電気オフィスシステムの事業部長待遇でしたから、会社の役員とNEC標準化部門に相談したところ、文字コードの本なら伊藤さん以外に判断できる人はいないだろうから、ご自身で判断すればよいと言われました。よけい書きにくかったということはあったかもしれません。
 NECとしては、ユーザーの皆さんに御迷惑のかからないように、万全の措置を講じたということは言えます。製品というのは一度出荷してしまうと、どんな方がどんな使い方をしているかわからないので、メーカーとしては念には念をいれた移行措置をとらなければなりません。汎用機のACOSは78JISで通さざるをえませんが、83JISが必要なお客様にはゲートウェイで83JISに変換できるようにしました。ワープロ専用機とパソコンは数年間は78JISモードと83JISモードをスイッチかモード設定で切り替えられるようにしました。Windowsになってからはモードの切り替えはできなくなりましたが、78JISも入ったフォントを現役の商品として販売しつづけています。プリンタも10年ほど78JIS、83JISの設定切替機能を備えていました。
 当然、このような措置をとると製造原価にはねかえります。過去のしがらみが関係ないメーカーさんは新しい規格の製品をポーンと出してこれますから、コストがかからない。そういうメーカーさんとも競わなければならないのですから苦しいのです。しかし、私どもは官公庁、自治体、金融機関など、社会生活の根幹にかかわる業務にたずさわるお客様に使っていただいているので、苦しくてもやらざるをえない。

――となると、JIS X 0213は実装できないですね。

伊藤 できません。83JISへの移行ですら、お話しできないようなことがたくさんありました。現在は当時と比較にならないくらいパソコンが普及していますし、コンピュータの不得意な方の比率も高まっていますから、JIS X 0213に移行するとなると、混乱は83JISの比ではありません。

――一部ではJISの委員に対する同情論があって、せっかく苦労して作った規格をつぶされて、委員たちが可哀相だという人たちがいます。影響力などまったくないぼくですら、怨念の対象になっているようなんですが、規格をつぶした張本人として伊藤さんの名前があがることもあるようです。

伊藤 そういう批判があるのは知っていますし、現在の新JCS委員会の席上でも、似たようなことを言われたことがあります。しかし、JIS X 0213の文字セットは力作ですし、委員の汗の結晶ですが、コード体系となると継続性や互換性が非常に大事です。メーカーとしては顧客に対してそれを保証する責務がありますし、混乱の発生を事前に防止する責任があります。だから、コード体系を規格から参考に落とすことに、ほとんどのメーカーが賛成しました。あの件については、別の見方もあると思います。

――別の見方というと、終わりの局面だけでなく、事の発端から見なければならないということですか? たとえば、JIS X 0213を開始するにあたり、工技院が開いた事業説明会とか。

伊藤 事業説明会の話はどなたも書いていないし、一般にはほとんど知られていません。

――文春新書の方には書いたんですが。

伊藤 加藤さんはお書きになっていましたね。

――あくまで外野からの感想ですが、JIS X 0213がああいう結末をむかえたのは、既成事実を積み重ねればどうにかなると考えた人が、委員会をミスリードしたんじゃないかと思っています。

伊藤 そういう見方もあるでしょうね。

――最後に、間もなく制定される新しいJISについてうかがいたいと思います。
 今回の改正はJISと表外漢字字体表のズレを解決するためのものですが、大雑把にまとめると、JIS X 0208にはできるだけ手をつけず、JIS X 0213のみを変更するということでしょう。
 JIS X 0208を無傷で残すために、誰も使わないJIS X 0213にすべての矛盾を押しつけ、流し雛のように流してしまうつもりだろうと受けとっていたのですが、JIS X 0213のみの変更を言いだしたのは、実はJIS X 0213の復活を本気で考えているグループで、それに別の考え方の人たちが別の思惑で乗ったというようなことをある方からうかがい、オヤオヤと思いました。JIS X 0213を復活させようという水面下の動きは、制定前後に激しかったようですが、まだ諦めてなかったんだな……と。

伊藤 そのあたりはわかりませんが、私は新JCS委員会の席で、本気で改正をするつもりがあるなら、メーカーが新規格に移行できるように段階を踏むべきだと申し上げました。しかし、それは委員会のスコープ外だと一蹴され、その方向には進まず、それどころかある委員から「この規格までつぶすつもりなのか」と言われました。私としては表外漢字字体表を普及させるには、手順を踏んで、社会全体の協力の下に改正を進めたらどうかと提言したのですが、委員会ではとりあげられず正反対の意味に曲解されたことは誠に残念です。
 いずれにしてもJIS X 0213の漢字セットは、Unicodeの中に含まれる漢字という形でサポートされますから、JIS X 0213規格書の例示字体を表外漢字字体表の字体に変更すれば、現行のUnicodeフォント実装製品との字体の非互換は免れませんから、字体相違による混乱発生は必至なわけで、どうしたらよいか頭の痛い問題です。

――JIS X 0213の文字セットをサポートするという点ですが、JISの文字コードは1997年の改正を境に、設計思想が根本的に変わっています。90JISまでの文字セットは外字の追加を認めた開集合だったのですが、97JISでは包摂規準をはじめて規定し、重複符号化禁止の条項によって異体字の追加を禁じて、文字セットを閉集合化しました。
 開集合と閉集合の一番の違いは何かというと、閉集合では、どの文字がないかがきわめて大きな意味をもつということです。JIS X 0213の文字セットをサポートするというならば、JIS X 0213文字セットにない文字は排除しなければなりません。
 となると、Windowsの文字セットやISO 10646にはいっている「」なんかはどうなるのでしょうか?

伊藤 私は、異体字に個別のコードを付与するのは際限がないので、枝番による指定方式をずっと主張していますが、それが叶わないJIS X 0213では、他の文字との横並びで考えても、また社会的な認知度からしても「」は絶対入れるべきだと考えていました。でも、一人、強硬に反対する方がいて落とされてしまったのです。
 この委員会でも、異体字を枝番で指定する方式を提案したのですが、まったく相手にされませんでした。
 しかし、情報処理学会の文字コード標準体系検討専門委員会の第二ステージでは、異体字枝番方式は三つの案の一つとして認められました。枝番方式がどのように実現され、認知されていくかはこれからの課題です。「」については、本来なら枝番であらわした方がいい異体字であると思っています。

――難しい問題ですね。伊藤さんにはこれからも御活躍いただかなければと思います。今日は御多忙のところ、長時間ありがとうございました。

(Dec20 2002)
Copyright 2003 Ito Hidetosi
Kato Koiti
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