JISと工業標準化法

加藤弘一

電脳社会の日本語』 補説1

 JISとは Japanese Industrial Standard(日本工業規格)の略である。大半は通産大臣の担当だが、厚生大臣や運輸大臣、農林水産大臣の管轄するJISもある。

 JISにはISO(国際標準化機構)などの規格を国内化したものと、日本独自に作った規格があるが、どちらの場合も管轄官庁の外郭団体がまとめた原案を、日本工業標準調査会(JISC)が審議し、主務大臣がJISとして告示する。

 民間で独自に開発した規格をJISにする道も一応用意されているが、ほとんどの原案は管轄官庁が外郭団体に公費で開発を委託している。委託を受けた団体は官庁と密接な連絡を取りながら委員長を選び、業界を代表する企業や学界、官界から委員を集め、原案委員会を発足させる。委員長の下で直接、規格本文と解説の執筆にあたる委員を主査ないし幹事と呼ぶ。委員長と主査・幹事が決まれば、どんな規格になるかはほぼ決まるといわれている。末端ユーザーが原案委員会の委員になることはほとんどなく、文字コードの場合でいえば、ユーザー側といえるのは印刷会社、出版社どまりだった。

 原案委員会は、委員の顔ぶれからして審議会もどきであるが、正式の政府機関ではなく、まとめた原案はあくまで私案にすぎない。だが、日本工業標準調査会の審議で変更がくわえられることはめったにないから、原案委員会が実質的にJISを決めているといっていい。規格票の出版は日本規格協会に一任されている。

 規格作りは形式的には民間主導だが、実質的には官庁主導なのである。これには歴史的な背景がある。

 第二次大戦前には日本標準規格(旧JES)という官製規格があった。現在、ISOおよびIEC(国際電気標準会議)に日本を代表する標準化団体として加盟しているのは日本工業標準調査会だが、先進工業国では政府機関が標準化団体となっている例は多くない。アメリカのANSI、フランスのANFOR、英国のBISは民間団体である。若干の助成金を受けている例もあるが、基本的に規格のユーザー(受益者)である企業の拠出金と規格書の売上で財政をまかなっている。ISOやIEC自体もNGO(非政府組織)である。

 欧米には工業規格は産業界が自主的に決めるものという考えがあり、特にアメリカでは企業が合従連衡してさまざまなコンソーシアム(協議会)を作って、規格を競いあっている。日本でも、家庭用ビデオの規格では、VHS陣営とβ陣営が競争するという欧米的な標準形成が進められた。

 日本は明治期に政府主導で工業の近代化をすすめたが、規格作りは基本的に民間にまかされていた。ISOの前身にあたるISA(万国規格統一協会)の各部門やIEC(万国電気工芸委員会)には関連学会や業界団体が直接加盟していた。軍需品など、政府調達品には官の購入規格や試験規格、標準仕様書があったが、一九二一年の勅令第一六四号により、これらをまとめる形で「日本標準規格」(旧JES)をつくった。アメリカには民間のANSIとは別に、国防総省のMIL(軍用品規格)があり、民需品にも適用されているが、旧JESはMILに近いかもしれない。

 一九三〇年代の日本では、日中戦争の長期化にともない、満洲国で国家社会主義的な行政を経験した革新官僚によって、国家総動員体制が作られていく。戦争拡大で軍需品の調達が増えると、官製規格のカバーする範囲が広がり、一九三九年には制定手続を簡単にした「臨時日本標準規格」(臨JES)が作られる。旧JESは二〇年間に五二〇件が制定されたにすぎないが、臨JESは敗戦までの六年間で九三一件にのぼっている。一九四一年には航空機製造事業法に基づく「日本航空規格」(航格)がもうけられ、六六〇件の規格が生まれている。

 敗戦で軍需品中心の旧JESと臨JES、航格は存在理由を失うが、戦時中の経験で官民ともに品質管理の重要性をよく知っていたので、乏しい物資を有効活用するためにも工業製品に広く規格の網をかけようという合意が形成された。商工省の下で業界の指導と監視にあたっていた日本能率協会の規格部門は、日本航空技術協会の規格部門と合併し、一九四五年一二月に日本規格協会として再出発する。翌年、勅令第九八号により日本工業標準調査会官制が公布され、「日本規格」(新JES)という新たな官製規格が設けられた。一九四八年には特許標準局標準部と一五の研究試験機関を統合して、工業技術庁が設置され、日本の復興のために標準化行政を強力にすすめる体制が作られた。

 戦前・戦中の規格の大半は新JESとして追認されたが、軍需品という柱がなくなった以上、工業製品を広く拘束することになる工業標準を官の命令で決めるのは問題があった。規格に法的な裏づけをあたえるために、工業標準化法が制定された。

 工業標準化法によって、日本工業標準調査会は審議会相当に格上げされた。工業技術庁(後の工業技術院)は形式的には日本工業標準調査会の事務方となり、規格名称はJESからJISに改められた。戦前のISAは一九四七年にISOに改組されたが、日本工業標準調査会は一九五二年に日本を代表する標準化団体として加盟した(IECには翌年加盟)。規格実務には戦前同様、関連学会や業界団体が国内委員会をつくって対応しているが、形式的に日本工業標準調査会=工業技術院が上に乗ることで、官僚が睨みをきかす体制が確立した。敗戦後、官僚統制がかえって強化された例である。今日、JISは八千件以上あるが、その半数は一九五五年までの六年間にできている。戦後の復興期と高度成長期に工業技術院が果たした役割は大きいが、橋本行革により、二〇〇一年四月には産業省に吸収され、傘下の一五の研究所は産業技術総合研究所として統合の上、独立行政法人化することが決っている。半世紀におよぶ歴史を閉じるにあたって、標準化行政も審議会もどき方式から脱皮すべき時ではないだろうか。

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