リア王の片われ

加藤弘一

 シェイクスピア・シアターが久々に「アテネのタイモン」を上演した(出口典雄演出、パナソニック・グローブ座、1996年1月)。「アテネのタイモン」と聞いて、どんな芝居かすぐに頭にうかぶ人はなかなかいないかもしれない。なにしろ、シェイクスピアの全三七作品の中でも、「いちばん読まれることが少なく、上演されることのまれな作品」だそうだから。

 人気がないのは、一つには、完成度に難があるからだろう。今回の舞台は、演出の工夫で目立たなくなっていたが、文字として読むと、つじつまのあわないところや、あまりの御都合主義、途中で消えてしまう人物といった欠陥が目につく。執筆途中で放りだして、そのままになった台本という説がでてくるのも、うなづけるところである。

 だが、人気のないもっと大きな理由は、タイモンという主人公の人物像にあるのではないか。

 シェイクスピア劇の登場人物は、何百年前、時には何千年も前の異国の王侯貴族、大商人だが、その人物像は一つの典型となっていて、現代の観客でも共感をいだきやすい。ロミオとジュリエットのような恋人たちは身近にもいるだろうし、小リア王のような老人、小オセロのような夫だってめずらしくはあるまい。

 タイモンはどうだろうか? 彼はアテネの大富豪だったが、毎日、友人・知人を招いては大盤振舞いをくりひろげ、物を贈られれば二倍、三倍にして返礼し、借金に苦しんでいる友人がいれば肩代わりしというように、あまりにも気前よく散財したあげくに破産してしまう。彼はあれほど尽くした友人たちからも手のひらをかえされ、すべてを失って町を出るが、森で大金のはいった袋をひろう。もとの地位に返り咲けるだけの金額があったが、彼はアテネにもどろうとはせず、まだ金を持っているという噂を聞いてやってきたお追従屋どもに金貨を投げあたえては、金銭と金銭本位に動く社会を罵倒する言葉を吐きつづける。

 破産して人がかわってしまった金持ちならよくいるが、ふたたび大金を手にいれてなお、世を呪いつづけるほどの人間嫌いとなるとめったにいない。こんな剣呑な主人公がわめきちらすだけの芝居では、人気がなくて当然だろう。

 ところが、出口演出は、芝居の背景にバブル崩壊後の現代日本の世相をもってくることで、この破天荒な人物を、われわれの身近に引きよせることに成功した。タイモンを演じた吉田鋼太郎もすばらしく、機関銃のようにまくしたてる罵詈雑言は痛快の一語につきる。

 出口演出のもう一つの工夫は、犬儒派の哲学者、アペマンタスの四幕三場の出番を、あえて道化に変え、「リア王」との関連性をはっきり打ち出したことにある。

 「リア王」と「タイモン」の相似はすでに多くの研究者が指摘している。最後までタイモンに忠実な執事は、狂ったリア王に忠誠をつくしたケント伯そっくりだし(シェイクスピアは、ケントを演じたのと同じ役者に演じさせるつもりだったのではないか)、アテネが反乱軍に蹂躙されそうになる結末も、追放されたコーディリアとともにフランス軍がイギリスに上陸するという「リア王」の結末とよく似ている。

 今回の公演では、金銭に対するタイモンの罵倒は、嵐の中で狂ったリア王が宇宙を呪った有名な長台詞を彷彿とさせたし、道化との対話(原作ではアペマンタスとの対話)は、そのままリア王と道化の対話になっていた。タイモンからリア王に匹敵する大きさを引きだした点が、出口演出の最大の功績だと思う。

 こうなると、「タイモン」と「リア王」のどちらが先に書かれたかが気になってくる。普通に考えると、「タイモン」の金銭に対する悪罵が「リア王」の宇宙論的な怒りに昇華されたと見るのが自然に思えるが、現在の研究では、「タイモン」の方があとだという説が有力らしい。では、「タイモン」は、「リア王」の卑俗な焼き直しなのだろうか?

 マルクス主義批評のテリー・イーグルトンはおもしろいことを書いている。

 彼(タイモン)が破産後に激しい人間嫌いに陥るのは、以前の大盤ぶるまいを裏がえしにしたまでである。無差別にありとあらゆる人間を呪いつづけるのは、具体性のない抽象的行為であるという点で、見境なく報償を与えつづけることと、なんら選ぶところがないのだから。(『シェイクスピア』大橋洋一訳)

 イーグルトンはタイモンの見境なしの気前の良さと破産後の罵倒は、個々人の特殊で固有な価値(使用価値)を蹂躙し、値段という数値に平均化してしまう点で、貨幣の傍若無人なふるまいとよく似ているという。この指摘の背景には、「貨幣では商品のいっさいの質的な相違が消え去っているように、貨幣そのものもまた徹底的な平等派としていっさいの相違を消し去るのである」というマルクスの言葉がある(『資本論』第一巻第三章)。実は、マルクスはいま引いた一節の注釈として、「タイモン」の「この黄金の奴隷めは……」という台詞を引用しているのだ。

 バブルの時代には知らないうちに地価が高騰し、多くの人に相続税対策(不必要な借金をして、相続額を目減りさせる)を余儀なくさせた。バブルがはじけると、今度は知らないうちに地価が下落し、銀行の口車に乗って相続税対策をしたばかりに、住みなれた家を競売にかけられた人もすくなくない。土地にはりついた価格という記号が勝手に膨らんだり縮んだりすることで、わけのわからない借金がうまれ、その土地に住む人を追い立てていった。土地を失った人だけではない。今は住専処理にばかり目がいっているが、アメリカの信用調査機関の推計によると、総額一八〇兆円(国民一人あたり一六〇万円)にのぼるとされる不良債権も、その一部は不正蓄財や賄賂にまわったにしても、大部分は数字の独り歩きによってうみだされたといってよい。記号の暴力性が目に見える形で発揮されたのが、バブルとその崩壊だった。

 リア王の怒りが宇宙論的呪詛だとするなら、タイモンの怒りは記号論的呪詛である。高尚な怒りが卑俗な怒りに焼き直されたということではなく、シェイクスピアは宇宙論をなりたたせている基盤の下の闇をのぞき見たのではないか。リア王の「死産した双子の片われ」は、リア王以上の怪物なのかもしれないのである。

 われわれはいま、小タイモンが右往左往しているかなり異常な時代にいる。こういう時代を予見していたら、シェイクスピアは『アテネのタイモン』をきちんと完成していたのではないか。

(Apr 1996 「新潮」)
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This page was created on Mar04 1997; Updated on Oct05 2000.

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