政府と東電は福島原発でいよいよ手詰まりとなり、これまで婉曲に拒否していたアメリカとフランスの協力を受けいれることを決め、31日にはサルコジ大統領がアレヴァ社のアンヌ・ローベルジョンCEOと技術陣を引きつれて来日した。昨日はアメリカ海兵隊の核専門部隊の先遣隊が横田基地に到着した。
海外の専門家の眼を意識してか、隠されてきた事実がここにきて急に表に出てくるようになった。原発敷地内からプルトニウムが検出されていたことが遅ればせながら公表されたし、健全と連呼しつづけてきた圧力容器の損傷の可能性を東電までが認めるにいたった。現場の作業員に線量計をもたせずに3週間以上作業させていたことも明らかになった。5000台あった線量計が地震で故障し320台しか使えなくなったのでグループで一台だけもたせるようにしたと言い訳しているが、どうせ後方にいる現場監督がもっているだけだったのだろう。発覚した翌日には他のたちまち920台確保したというから、集める気があればいつでも集めることができたはずなのだ。アメリカとフランスに協力を請うような事態になっていなかったなら、作業員はずっと線量計なしで働かされていたかもしれない。
下請作業員の声も報じられるようになったが、避難区域の住人の発言が興味深かったので紹介したい。「東日本大震災 福島第一原発元モニターからの証言 Reported by MIKE-T」である。これはミュージシャンのMIKE-T氏が原発の町で保育関係の仕事をしていたAさんというオバサンにおこなった1時間インタビューである。
Aさんは東電の募集する「モニター」になって原発問題を「勉強」したことがあり、原発は絶対に安全と信じていたそうである。東電の派遣した講師の話を聞き、東電の用意した全国原発めぐりツアーに参加したとなれば賛成派になるのは当然であり、意地悪な言い方をすれば東電に「洗脳」されていたといっていいかもしれない。
Aさんは自分が勉強した成果を周囲の人に広める活動をはじめようとしたが、モニター仲間には東電社員の家族が多く、原発賛成の立場のAさんから見ても東電社員の家族には異和感を感じることが多く、はじめるにはいたらなかったという。
地震後、Aさんは自分が受けもった子供の安否を確認しようとしたが、やっとケータイが通じてみると東電社員の子供たちは12日には母親に連れられて秋田や栃木や東京に逃げており、90km以上原発から離れろと忠告されたそうである。
Aさんは避難所にいたが、避難所に集まった住民は何の知識も危機感もなく1号機が爆発した後も和気あいあいと大人の修学旅行状態だった。原発の知識のあったAさんは東電社員の家族の忠告にしたがい逃げることにしたが、ホテルや旅館で住所を書くと、満員だと断られたり、放射能がないという証明書を見せろといわれたりして、黴菌あつかいされた。向こうは認めなかったが、原発の町から来た客は危険だという回状がまわっていたのではないかと疑っているという。
放射能がないという証明書は会津大学で発行してくれるというので大学に行ったが、長い行列ができていた上に3時で受付は終了し、行列していた人たちは高校の体育館に疫病患者のように隔離されたそうである。
その後紆余曲折があり、Aさんは現在は大阪市の提供した公営住宅に入居できたということである。
驚くような話がいろいろ出てくるが、一番ショックだったのはコストカットでベテラン作業員がリストラされ、何の経験もない農家のオヤジが配管や溶接をやっているという話だった。
原発作業員が素人ばっかりだという話は他で読んだことがあるが、Aさんによると昔はベテランがやっていたが、数年前から素人ばかりになってしまったのだそうである。
素人が配管をやるというので思いだすのはオウム真理教のサティアンである。オウム真理教はサリンを大量生産する化学プラントを作りあげたが、信者に一流大学での技術者はいても、ベテランの配管工がいなかったためにプラントはガス漏ればかり起してサリンの大量生産に失敗した。
日本の原発がオウムのサティアンのように素人によって維持されているとしたらと思うとぞっとする。
銀座シネパトスの松本清張特集で見た。原作は短編の「たづたづし」(『眼の気流』所載)。
最初に「制作 渡辺プロ」と出てきて何かと思ったら、園マリと藤田まことが主演だった。主題歌はもちろん園マリのムード歌謡。
「たづたづし」は日本テレビの「火曜サスペンス」でやった吉川十和子・古谷一行版がよかったので期待したが、お笑いスターだった頃の藤田まことの持ち味を活かそうとしたのだろうか、コメディ仕立てにしたのが裏目に出て締まりのない駄作に終わっている。
都合のいい女が一転して怖い女になるというアイロニーがこの作の肝だが、園マリは都合のいい女ははまっていたが、怖い女となるとリアリティがなくなる。ムード歌謡の女性像の域を出ていない。
藤田まことは重役の娘と結婚して頭の上がらない小心な男をコミカルに演じているが、まだ「必殺シリーズ」の凄みはなく、あれでは殺人などできないだろう。
藤田まことを尻に敷く重役の不良娘役の原知佐子は唯一リアリティのあるキャラクターだった。
同題の長編小説を中村登が映画化したもので銀座シネパトスの松本清張特集で見た。
高級官僚の汚職を人妻と若い特捜検事のよろめきドラマとして見せるという趣向だが、人妻役の有馬稲子がずっとしかめっ面で色気が皆無。検事役の津川雅彦(若い!)が夢中になるのは無理がありすぎる。
有馬の夫で政商役の南原宏治は迫力があったが、他の役者が小粒すぎて事件にスケール感が出ていない。これならまだTBSでやった麻生祐未・小泉孝太郎版の方がよかった。
31日にIAEAが再臨界の可能性を指摘したという報道があったが、政府・東電は原子炉は地震直後に停止しており再臨界はないと否定しつづけている。もし再臨界しているなら原子炉は今でも新たな死の灰を作りつづけていることになり、大変なことである。
半減期53分のヨウ素134が大量に検出されたという発表が翌日に測定間違いだったと取り消されるなど情報が錯綜しているが、IAEAが再臨界の根拠としたのは建屋の地下にたまった水から塩素38が検出されたことだ。塩素38は塩素が中性子を吸収してできる放射性同位体で半減期が37分しかないし、そもそも原子炉中に塩素がなければ生成しない。塩素38が存在するとしたら原子炉停止後に注入された海水中に含まれる塩分から生成したことになるが、東京大学大学院理学系研究科の早野龍五教授は26日のツィターで「炉心には今でもある程度の中性子がある(必ずしも臨界を意味しない)」と反論している(J-Cast)。ウランの自然崩壊で発生する中性子は微々たるもので、それによって生成される塩素38もごくごくわずかだろう。ところが1号機で検出された塩素38はきわめて高濃度だったので早野説には疑問が呈されている。
京都大原子炉実験所の小出裕章助教はMBS毎日放送ラジオの「たねまきジャーナル」の4月5日の放送で再臨界が断続的に起っており、水蒸気爆発につながるおそれがあると指摘している(テキスト版)。
小出氏が根拠としているのは半減期8日の放射性ヨウ素131が減らないどころか今でも排出濃度基準の一億倍という高濃度をたもっている点だ。原子炉が「停止」してから半減期の3倍たっており、1/8になっているはずなのにこれだけ出ているということは「停止」後も臨界がおこり、新たに生成されているというわけだ。
もし再臨界がおきているとしたらどこで起きているのか。これまでは被覆の熔けた燃料棒からウラン・ペレットが圧力容器の底に溜って再臨界するといわれてきたが、小出氏はその可能性は低いという。燃料棒はシュラウドという箸立のような枠の中にはいっているが、シュラウドは狭い上に燃料棒の下部は棒の形状を保っているだろう。ペレットがシュラウドの下へこぼれ落ちるようなことは考えにくく、小出氏はシュラウドの下部、箸が詰まった箸立の底にペレットの塊ができている状態を想定している。
再臨界すると急激に発熱し、水の沸騰でペレットの塊が膨張するだろう。ペレットの間隔が開けば臨界は終わるが、沸騰がおさまるとまたペレットが凝縮して再臨界する。こうしてブスブス燃えつづける状態が継続しているのではないかというのが小出氏の見解である。
問題なのはシュラウドは圧力容器の内部で浮いた状態にあることだ。シュラウドも熱で損傷しているだろうし、ペレットがたまっていったら底が抜けてしまうかもしれない。そうなるとペレットは鍋底になった圧力容器の底に落下して継続的な再臨界を起したり、水蒸気爆発を起こしたりする危険がある。ペレットはウラン235の濃度が低いので圧力容器や格納容器を破裂させるほどのエネルギーはないという見方があるが、1号機は40年たって老朽化しているし、海水を注入したので持ちこたえてくれるかどうかわからない。
もちろんこれは最悪のシナリオで、そうならないことを祈る。
付記:モントレー国際大学院不拡散研究所のダルノキ=ベレス氏による福島第一の1号機での再臨界の可能性を問う論文は小出氏とほぼ同様の推論をおこなっている。再臨界はもはや絵空事ではない。(Apr11 2011)
「たねまきジャーナル」の小出氏のインタビューは他にも重要な指摘がある。4月1日の放送では
この放送の翌日、高濃度汚染水がピットという点検孔から海に流出していることがわかった。生コンクリートを流しこんだり新聞紙やゲル材を流したりしたが流出は止まらず、5日になって周囲の土壌に水ガラスを注入してようやく止まった。小出氏の予想通り高濃度汚染水は周囲の土壌に漏れていたのである。
高濃度汚染水をメガフロートに貯める計画が進んでいるが、小出氏によると貯めた汚染水を処理する施設は日本にはない。柏崎原発には汚染水の処理施設があるが、こんなに高い線量の水を処理するためのものではないし、六ヶ所村の再処理工場は用途が特化しているのでおそらく使えない。
鳴り物入りでやってきたフランスのアレヴァ社はどうだろうか。六ヶ所村は最初国産技術でやる予定だったが、できなかったのでフランスに頼んだようにフランスの処理技術が日本よりも進んではいるのは事実だが、画期的な技術をもっているわけではなく過剰な期待は禁物という。数万トン規模の高濃度汚染水は今後も増えつづけるが、どう処理するのだろう。
4月1日の放送の後半では飯舘村にもふれていた。IAEAは30日に飯舘村から1平方メートル当たり200万ベクレル(31日に2000万ベクレルに訂正)と、IAEAの避難基準の倍にあたる放射線量を計測したとして、日本政府に避難区域の見直しをもとめたが、飯舘村は日本政府の決めた半径30kmの自主避難地域にもはいっておらず、避難の必要はないとした。IAEAは原子力利用を促進するための機関であり、もともと危険性を明言したがらない傾向がある。そういう機関がこういう警告を発するのはよほどのことなのである。小出氏は日本の法律に照らしても管理区域に指定すべきレベルの放射線が出ているのだから、同心円状の避難区域に固執せずに避難地域にすべきだとしたが、当然のことだろう。
チェルノブイリの経験からいっても放射性物質はチリとして風に乗って拡散し、たまたま雨でチリがまとまって落ちた場所は距離が離れていても高い線量のホットスポットになることがわかっている。同心円状に避難区域を設定するのがそもそもおかしいのだ。
飯舘村は地形的に福島原発から出た放射性のチリが対流しやすく、3月20日には水道水から基準を超えるヨウ素131が検出されたり(厚生省)、28日には京大原子炉実験所の今中哲二助教によって「チェルノブイリ強制移住」以上の土壌汚染が指摘されたりしていた。
飯舘村は今日になって妊婦と3歳未満の乳幼児約50人を13日から村外に疎開させる計画を発表した(東京新聞)。今避難しても手遅れかもしれないのに、一週間先とは悠長なものである。
VideoNewsの神保哲生氏が福島第一原発から20km以内の立ち入り禁止区域に車で突入した画像がYouTubeで公開されている。国内版もあるが、英語字幕版は全世界で36万人が視聴し、2500を越えるコメントが寄せられている。
ダッシュボードの上にサーベメーターを二台載せ、警告音や検出音がピーコピーコとかピッピッと鳴るのをものともせずに危険地帯にはいりこんでいくだけでも目が画面に釘づけになるが、無人の町を野生化した犬や牛の群が闊歩する光景はなんともシュールだ。
時おり東電関係のトラックとすれ違うが、運転手はみな防護服とガスマスクで身を固めている。荷物を取りに来た住民とおぼしい乗用車もいるが、中の人は花粉症用のマスクをつけている。津波の爪跡や倒れた電柱、流されたパトカー、地震で出来た道路の亀裂もそのままだ。
線量の低い場所では車から降りて歩きまわるが、サーベメーターが急に警報を乱打しはじめるので気が抜けない。最終的に原発から1.5kmまで近づくが、線量は100μSv/hを越えていた。原発の敷地内ではもっと高いだろう。
人間がいなくなって2週間以上たっているのに犬の栄養状態はやけによかった。動物愛護団体が避難区域に餌をやりに行っているという噂は本当なのかもしれない。
科学的な意味などないだろうが、ジャーナリズムの原点は野次馬根性にあることを再認識させてくれたレポートだ。
付記:犬の栄養状態がいいのは愛護団体の餌だけが理由ではないかもしれない。「NEWSポストセブン」の「原発周辺の立ち入り禁止地区 「カラスが遺体に」との証言」によると放射能で収容できない遺体が烏や野犬に喰われているという。いやはや。(Apr11 2011)
松本清張の同題の長編小説を富本壮吉が映画化。
若尾文子主演ということで勇んで見に行ったが、なんだ、これは。
元華族のみゆきが義理の兄である楠尾英通に犯され、半身不随の地方の金持ちと結婚させられる。彼女は楠尾に復讐するためにこれみよがしに男漁りをつづけ、それに実直な自動車のセールスマンが巻きこまれるという洋物ミステリにありそうな話で、およそリアリティがない。
若尾文子はどう見てもトウの立ったホステスで、元華族の令嬢には見えない。仕事を放りだして彼女を追い回す園井啓介が自動車セールスマンという設定は無理がありすぎるし、彼の婚約者で楠尾邸に住みこむ節子(江波杏子)がまったく嫉妬せずに都合のいい女で終始するのも拍子抜けだ。
松本清張の気まぐれから生まれた駄作を大真面目に映画にしてしまったという感想しか持てない。
松本清張の同題の短編を野村芳太郎監督、橋本忍脚本で1958年に映画化。
一番新しいビートたけし版をはじめ何度も映像化された名作の最初の映像作品だが、これは傑作中の傑作である。
ベテランの下岡刑事(宮口精二)と若い柚木刑事(大木実)が横浜駅から満員の東海道線に乗り、佐賀に向かう。質屋に強盗にはいり銃を持ったまま逃走した石井(田村高廣)をとらえるためだ。石井は山口の生まれだったが、生家の方は別の刑事が担当し、下岡と柚木は石井の元恋人のさだ子(高峰秀子)の家を一週間の予定で張りこむ。
さだ子は石井と別れた後、佐賀の子持ちの銀行員の後妻にはいっていた。幸いさだ子の家の真ん前に旅館があったので発動機の営業マンという触れこみで投宿し、交代でさだ子に眼を凝らす。
石井はあらわれず、二人の刑事はさだ子の判で押したような平凡な、そして不幸な日常生活につきあうことになる。
カメラはさだ子を終始引きで撮る。さだ子はクローズアップされることなく、つねに風景の一部でありつづける。昭和33年の地方都市の風景が克明に描かれるが、確かにこうだった。「三丁目の夕日」とほぼ同時代だが、あんなウソくさい作り物の昭和ではなく、本物の昭和がここに定着されている。
一市民であるさだ子の生活を壊さないように、二人は刑事という身分を伏せるが、それが旅館の女将の疑いをまねき、地元の警察に通報されるというアクシデントを生んだりする。昭和30年代でも警察は市民に対する配慮をしていたのだ。
張りこみを切り上げる段になり、下岡が地元の警察に挨拶に出かけたところに石井があらわれ、柚木は一人で追跡することになる。もちろんケータイ電話はなく何度も見失いながら必死に追いかける。
柚木は平々凡々で実年齢よりも老けて見えたさだ子が石井と会ったとたん、あでやかな女にもどるのに目を見張る。彼女はここにいたってはじめてクローズアップで撮影される。
結末はあっけないが、さだ子の秘密を守り通した柚木は躊躇していた弓子(高千穂ひづる)との結婚を決める。弓子と結婚すると弓子の家族をまるごと背負いこむことになるが、吝嗇な夫のもとで甲斐甲斐しく家事をこなすさだ子の姿に感じるものがあったのだ。
ベテラン刑事の宮口精二もいい味を出している。見るべし。
久々の重厚長大な傑作である。1919年から49年までの30年間を一人の女性を主人公に描いた大作で「旅芸人の記録」をはじめて見たときの衝撃を思いだした。
ギリシア半島の東側の付根にテッサロニキという街がある。パウロが宣教した街で聖書にはテサロニケという表記で登場する。コンスタンチノープルとローマを結ぶ位置にあり東ローマ帝国時代にはアテネをしのぐ勢いだったが、15世紀にオスマントルコに占領された。オスマントルコの版図ではさまざまな宗教・民族の集団が共存していたが、20世紀にはいり民族意識が勃興してくると混在状況は紛争の火種となった。テッサロニキはバルカン戦争でギリシア領となりイスラム教徒が追放されたが、ギリシア・トルコ戦争でギリシアが負けると小アジアや黒海沿岸の都市からギリシア系住民が住みなれた土地を追われてきた。戦争や革命があるたびにおびただしい難民が発生した。ギリシア系難民の受皿となったのがテッサロニキである。
物語は1919年、テサロニキ郊外の河のほとりに難民の一団ががあらわれるところからはじまる。土地の者に何者かと問われるとリーダーのスピロスは自分たちはギリシア人だ、ロシア革命でオデッサから追われ、この土地を割り当てられたと答える。リーダーの手を男の子と女の子がしっかり握っていた。男の子は五歳のアレクシスで実の子だったが、女の子はエレニといい母親の死体にすがって泣いていたのを連れてきたのだという。
河のほとりの土地はすぐに浸水し牧畜くらいしかできないが、難民たちはニューオデッサと名づけ十年かけて村を作りあげるものの、そこでギリシア悲劇的な悲劇が幕をあげる。妻を失ったスピロスは娘として育てたエレニと結婚すると言いだしたのだ。拾遺の諫言を抑えこんでスピロスは結婚式を強行するが、エレニは花嫁衣装のまま教会から逃げだしかつて子をなしたアレクシスとともに駆け落ちしてしまう。
二人は式に呼ばれた楽士に助けられ難民のための宿舎となっていたテサロニキの劇場に落ちつく。アレクシスはアコーディオン弾きになり新しい生活をはじめるが、嫉妬に狂ったスピロスが追いかけてきて二人は白布の丘という別の難民街に逃げる。ギリシアの激動の現代史が若い二人を巻きこみ、悲劇が次々と襲う。
物語は重苦しいが、映像の透徹した美しさには息を呑む。なかでもスピロスの遺骸を筏に載せ、洪水に呑みこまれたニューオデッサに連れ帰る場面のなんという厳かさ。
泣いてばかりいるエレニは最後の場面では涙も出なくなり、譫言のように訴えつづける。エレニを演じたアレクサンドラ・アイディニは新人だというがすごい女優だ。
新国立劇場小ホールで「ゴドーを待ちながら」を見る。森新太郎演出でヴラジミールは橋爪功、エストラゴンは石倉三郎。
場内を縦に貫通した舞台を両側から座席がはさむ形に改装していた。R側の最前列右端の席になる。R側を正面に想定した演出だったが、首を曲げつづけていなければならないので端席はつらい。
これまでゴドーというとドライな安堂信也訳で上演されてきたが、今回は岩切正一郎による新訳で時に新派を思わせるくらい情感たっぷりの日本語になっている。どちらも見逃したが、この人の訳はアヌイの『ひばり』とカミュの『カリギュラ』も評判がいい。
エストラゴンがぼけ、ヴラジミールがつっこみということになるが、ヴラジミールはいじめられっ子のエストラゴンにホモセクシャル的な親近感をいだいている風で、ベタベタしたじゃれあいになっている。あまりにも自然というか、完全に日本の芝居になっている。
ヴラジミールとエストラゴンの煮詰まった関係をポッゾ(山野史人)とラッキー(石井愃一)が登場してひっかき回すわけだが、調教師と野獣の支配関係にも情緒的な一体感がまじっている。
ベケット劇の基調は不機嫌ないたたまれなさと思っていたが、この舞台には不機嫌なところもいたたまれないところもなく、ひもじくもの寂しい悲哀の時間がつづいていく。
「ゴドーを待ちながら」はつかこうへいや鴻上尚史、その他有象無象の演出家によって日本化されてきたが、この舞台はもっとも過激な日本化であり、しかも成功している。しかし、ここまでくるとはたしてベケットなのだろうか。
『細雪』の最初の映画化である。鶴子は花井蘭子、幸子は轟夕起子、雪子は山根寿子、妙子は高峰秀子が演じている。監督は阿部豊。
やっと最初の映画化を見ることができたが、雰囲気が暗く『細雪』にはこういう面もあったのかと認識をあらたにした。三回目の市川崑版は戦前の関西の上流の生活を美しく憧れをこめて描いていて、二回目の島耕二版もその傾向が強かった。ところが最初の阿部豊版は華やかな生活を描きながらも蒔岡家の没落がつねに背後にあるのである。
家督は長女が継いでいるが、婿の辰雄(伊志井寛)は事業をたたみ銀行勤めをはじめている。勤め人で家の体面を維持するのは難しく、夫婦とも必死に背伸びをしている感じだ。東京転勤は案外救いだったのだろう。
留守宅は昔の奉公人の音やん(杉寛)にまかされるが、この音やん、『桜の園』のフィルス風に造形されている。というか、この映画自体が『桜の園』をかなり意識しているように見えるのだ。
市川版の映画化では佐久間良子と石坂浩二が貫禄を見せた次女夫婦は阿部版ではちょっと軽い。轟の幸子はお金持ちのおせっかいオバサンにしか見えないのだ。雪子役の山根寿子は多分、一番原作のイメージに近い。
さて妙子の高峰だが、不良になりきれなくて不完全燃焼に終わっている。人形の先生の場面だけ妙にはまっていて、それ以外の場面がウソくさく見えてしまうのだ。
文句なしに面白い映画だ。高峰秀子というと眉根を寄せて愚痴をたらたらこぼすオバサンというイメージがあったが、この映画の高峰はまったく違う。若く脳天気であっけらかんとして、いっぺんにファンになった。
話は他愛がない。引退した落語家の新笑師匠(古今亭志ん生本人!)のところに親の縁で画家志望のお秋(高峰)とその親友で歌手志望のお春(笠置シズ子)が居候している。二人は金がなく一着の外出着をわけあう仲だが、新笑家の家計が逼迫し、大々的に引退興行をやったのに恥をしのんで復帰を考えているのを知る。切羽詰まっていたところに映画のエキストラで知りあった白井(岸井明)から銀座で歌えば金になると誘われる。歌うといっても流しだったが、二人は白井と組んで人気者になり、羽振りがよくなる。ちょうど新笑の甥で会社勤めをしながら音楽家を目指していた武助(灰田勝彦)が人員整理にあったので、彼もくわえて四人で銀座の街に流しに出るが、好事魔多しという展開に。
「銀座カンカン娘」は笠置シズ子の持ち歌と思いこんでいたが、映画のために作られたオリジナル曲だった。この主題歌を高峰が歌い、笠置が歌い、岸井が歌い、灰田勝彦までが歌う。あの時代の人でないと、こういう底抜けに明るい歌い方はできないだろう。ミュージカルまではいかないが、歌謡映画として背伸びをしないところがいい。CDがあるならほしいと思ったが、絶版のようだ。
志ん生が二回口演する場面があるが、映像として残っている唯一のものだという。映画の流れの中では不自然に長いが、高座の記録としては貴重なものである。