ソシュール研究の大家といえば、多くの人が丸山圭三郎を思い浮かべるだろう。ところが日本にはもう一人の大家、それも世界的に評価された大家がいたのである。それが小松英輔である。
小松の名前を知っている人は多くはないだろう。『現代思想』に短いエッセイか翻訳を載せるくらいで、大半の論文は大学の紀要か学会誌に発表し、日本語の単著は最晩年に出た本書しかないからだ。
小松の最大の業績は『一般言語学講義』(以下、『講義』)の学生のノートを翻刻校訂し、英訳とともに世界ではじめて出版したことだ。英国のパーガモン社から1989年から1997年にかけて上梓された以下の3冊である。
- "Saussure's First Course of Lectures on General Linguistics (1907): From the Notebooks of Albert Riedlinge"
- "Saussure's Second Course of Lectures on General Linguistics (1908-09): From the notebooks of Albert Riedlinger and Charles Patois"
- "Saussure's Third Course of Lectures on General Linguistics (1910-1911): (F. de Saussure - Troisieme Cours de Linguistique Generale (1910-1911)"
この3冊が出るまでは、エングラーの校訂版を通して、実際の講義を推測するするしかなかった(原資料の意義を日本の読者に知らせた丸山圭三郎の『ソシュールの思想』はエングラー版のみを参照して書かれたらしい)。
エングラー版は『講義』の典拠となった学生のノートの文言を切り貼りしたもので、あくまで『講義』の順番に並べられており、実際の講義の流れとは違っていた。多くの誤りが含まれていたが、最大の問題点は、バイイとセシュエが『講義』にとりいれなかった文章は載っていないことだ。どこがバイイとセシュエの加筆かはわかったが、何が削除されたかはわからないままだったのである。
小松は1982年の7月と8月の2ヶ月をかけて、ジュネーブ公共大学図書館に収蔵されているソシュール関連資料を、『講義』に直接関係しないものも含めて、すべて撮影した。その量はフィルム230本、8200コマにおよんだ。1コマには2ページおさまるから、実に1万6400ページにのぼる。(この間の経緯は本書に序文として収められた松澤和宏氏の「小松英輔氏とソシュール文献学」に詳しい)
相原奈津江訳も影浦峡・田中久美子訳も小松の校訂本を底本としているし、第二回講義の出版前に出た前田英樹の『ソシュール講義注解』は学習院大学で閲覧できる小松の撮影した写真にもとづいている。ブーイサックの『ソシュール超入門』にも小松の名前が明記されている。
さて本書であるが、小松が病いに倒れたために相原奈津江氏が編纂したもので、三部にわかれている。
Ⅰ
第一部はソシュール関係の論文である。
「ソシュール自伝」
ソシュールが21歳で出版した『インド・ヨーロッパ諸語における母音の原始体系に関する覚え書き』はフランス語圏では絶賛されたが、ソシュールが留学していた印欧言語学の中心地、ライプツィヒを含むドイツ語圏では無視に近い扱いを受けた。この間の経緯をソシュール自身が書き残したもので、ドイツ人の言語学者のもとめに応じて書いた文書の下書きと推定されている。
ソシュールは21歳と22歳の時に出版しただけで、その後は一冊も本を出さなかったが、それにはそれだけの事情があったのである。
手稿は中が読めないように綴じ合わせて残されていたという。読まれたくないなら破ってしまえばいいが、破ることもできなかったのだろう。恵まれた生涯を送ったように見えるソシュールも人には言えない鬱屈をかかえていたのである。
「ソシュールの原資料」
本書では唯一、一般読者向けの雑誌(「学燈」)に書いたエッセイで、『講義』とエングラー版の問題点と、ジュネーブでソシュール関連資料を撮影した経緯と意義がわかりやすく語られている。
「神話・伝説研究および未刊資料の公開」
今年、ようやくソシュールの『伝説・神話研究』が翻訳されたが、その先駆的な紹介で、伝説に対する関心が晩年だけのものではなく、37歳の時の「ホイットニー論」にさかのぼると指摘している。共時態・通時態という二分法も「ホイットニー論」を契機として生まれている。
ドイツで生まれたニーベルンゲン伝説がスカンジナビア半島やアイスランドに伝わり、すこしづつ意味がずれながら反復されていき、記号の組み替えによって新しい意味が生成していく。ソシュールはその過程を伝説のディスクールと呼んだ。
ソシュールの提出するディスクールの概念が、起源から遠く隔てられた無限に差異化されるなかで反復されるテクストの再生産であると結論することができよう。ソシュールは『講義』で述べた <<langue>> でもなく <<parole>> でもない、それらと交叉しつつそのどちらでもない神話伝説のテクスト世界における新しい言語的現実を、ディスクールという概念で示したのであろう。これに続くアナグラム研究の作業で、ソシュールは主語となる固有名詞がサンタクスの外におかれ、語る主体の判断行為をまぬがれうる特殊な位置におかれることに注目し、もっとも風化して変化を蒙りやすい固有名詞の散種の減少を研究した。これ以後、彼は近代の固定概念である「人物」の解体から、ついに「語」そのものの崩壊という考えにまでたどりつき、フロイト、マラルメとともに今世紀の真の知的ラディカリスムを築いたのである。
今、ソシュールの神話研究が注目される理由がよくわかる。
「『一般言語学講義』はどのようにして書かれたか」
ソシュール文献学に関心のある人にとっては一番読みごたえのある論文である。
『講義』は第三回講義をもとにしてまとめられているが、小松はまず、構成が逆になっていることを指摘する。ソシュールの実際の講義は具体から一般論を抽出するという構成をとっていたが、『講義』はまず一般論を述べ、それから個別の言語へ降りていくという演繹的な構成になっている。
小松はさらに、学生たちのノートからいきなり『講義』が作られたのではなく、講義に出られなかったセシュエがノートを借りて清書した中間段階のノート(小松は「コラシオン」と呼んでいる)があり、『講義』はそれをもとにしたことを明らかにしている。
後半では『講義』の「言語学小史」の部分が、コンスタンタンのノートからコラシオンを経て、どのように『講義』の本文に落としこまれていったかを跡づけ、バイイとセシュエの編纂作業がどんなものだったかを例示している。
こうしてみると、言語学の対象をラングに限定するという『講義』の立場を貫くために、かなり強引な編集がおこなわれていたようである。
「もう一人のソシュール(Ⅰ)ソシュールのアナグラムについて」
スタロバンスキーの『ソシュールのアナグラム 語の下に潜む語』以来、注目されているアナグラムについての論文である。
クリステヴァに引き寄せられているような印象を受けたが、伝説研究との関連を指摘した次の条は興味深い。
ソシュールは Nibelungen 伝説に関する同じ考察の中で更に続けて、伝説中のそれぞれの登場人物はシンボルであり、一国の神話体系の中では機能として働くが、実際の語りの配列過程の中で、このシンボルとしての人物は、名前・他者との関係における位置(立場)・性格・機能・行為を変えていくと言っている。あたかも物語の生成機構の中に埋め込まれた(言語学におけるラングのように)、機能としての固有名詞が、ディスクールとしてテクストの中で実現される過程で(言語学におけるパロールのように)、テクストが生成されていくと主張しているようである。
アナグラムで埋め込まれる語は英雄の名前が多いから関連があるのは当然だが、ラングとパロールの関係と平行しているという見方は面白い。
「もう一人のソシュール(Ⅱ)ソシュールの「原典資料」の調査から」
これもアナグラム論だが、ジュネーブから持ちかえった原資料でスタロバンスキーの説を再検証した文献学的な論文である。難しすぎて、途中で読むのをやめた。
「ソシュール研究のために(1)」
『講義』の成立過程の研究だが、原資料を収蔵しているジュネーブ公共大学図書館の性格や、講義の受講者がわれわれが考える「学生」ではなく、ジュネーブや近郊の高校のラテン語教師だったなど、得がたい情報が含まれている。
後半ではラングの可変性を論じた部分(町田訳で110~116頁)のコンスタンタンのノート、セシュエのコラシオン、『講義』本文を比較し、以下の結論を得ている。
- コンスタンタンのノートは表現は詳しいが、かならずしもソシュールの思想をそのまま写しているとは言えない。
- ソシュールの講義ノートこそ、分量は少ないが、たよるべき唯一の、またソシュール思想を最もよく反映している資料である。
- バイイとセシュエ編のCLG〔『講義』〕の特徴は、ラングという思想を科学的に打ち立てることであった。それに対してソシュールは、シニフィアンとシニフィエのずれ、それに起因するラングの多様性を語ろうとした。
論文の最後には第三回講義の目次が再構成されている。
「ソシュール研究のために(2)セシュエ著『理論言語学の素案と方法』についてのソシュールの書評の下書」
ソシュールが第一回講義をおこなった1907年の次の年、セシュエは処女作を出版するが、その本についての書評の下書きの全訳と解説で、抹消された部分まで訳してある。
セシュエの本の内容はほとんど無視して、自説ばかり書いてある。セシュエが気の毒である。
ソシュールといえばシニフィアン/シニフィエだが、この用語は意外にも第三回講義ではじめて出てきたことが知られている。本論文では初出の日付(1911年5月19日)が明らかにされている。第三回講義は1910年10月28日にはじまり、ソシュールの病状悪化のために1911年7月4日で中断したから、最後の1ヶ月半でようやく登場したことになる。
「原典資料目録解説」
小松がジュネーブで撮影してきた資料の目録と解説で、近年注目されているアナグラム研究や神話研究まで揃っている。
丸山圭三郎は、小松からジュネーブに残っている全資料の撮影の協力をもちかけられた際、そんなことは意味がないと断ったそうだが、『講義』に無関係な資料まですべて撮影してきたことが正解だったと、今なら言える。
Ⅱ
第二部は文学論でテーマは多岐にわたるが、文学テキストを端緒に言語の始原にさかのぼろうとしている点で軌を一にしている。ソシュール文献学に係わる人たちは言語の始原に対する関心が強いが、小松もそうである。
<<Essai sémiotique du texte d Jean RACINE>>
演劇はコンディヤックの言語の発達過程論(身振り言語→音声言語→文字言語)を逆転させるという視点から書かれたラシーヌ論である。クリステヴァの『詩的言語の革命』の影響が顕著だが、テキストに密着して論を進めているので、理論の受け売りではなく、再創造たりえている。
「文学とオノマトペ」
言語と言語があらわす物事との間には何の関係もないというのがソシュールのいう言語の恣意性だが、オノマトペは言語を、それがあらわす物事に似せようとした表現である。ソシュールはオノマトペも言語の恣意性の例外ではないとしたが、はたしてそうか?
小松はオノマトペを五つにわけて考察している。
- 語のレベルの擬態(時計がコチコチ、雨がしとしと)
- 音声レベルの擬態
- 文字レベルの擬態(機関車=locomotive)
- 文レベルの擬態
- 音素レベルの擬態(Ivan Fónagyの無意識論)
短い論文の中で目配りよくまとめているが、欲をいえばジュネットの『ミモロジック』にもふれてほしかった。
「源氏物語の固有名詞」
フランス語訳の『源氏物語』は「桐壺」を「桐の木で囲われた場所」のように訳し、ほとんど固有名詞が出てこないそうである。固有名詞の消去という観点から『源氏物語』を論じたエッセイで、わずか3頁ながら深い。
「言語学と失語症」
小中学校の教師のためにソシュールのラングの考え方と、ヤコブソンの失語症論を紹介した講演である。
意外にも小松は臨床言語士(国家資格となった言語聴覚士の前身)の実習で言語障害の人のリハビリにあたったことがあるそうで、ラングの実在性を実習を通じて実感したらしい。ソシュールの全資料を撮影するという思い切った行動に出る背景には、ラングの実在に対する確信があったのだろう。
Ⅲ
第三部は小松が校訂したソシュールの自筆草稿のフランス語テキストと「抄訳」からなるが、「抄訳」は実際は草稿の書誌学的な記録と成立の経緯、内容のあらましを紹介した解題であって、逐語的な翻訳ではない。
『ホィットニー』あとがきの抄訳
1894年のホイットニーの死のすぐ後、11月から12月に書かれた原稿で、ノート47頁の分量があるが、小松は120の段落に区切って、抹消された語句まで可能な限り復元している。
『トリスタン』まえがきの抄訳
ソシュールは1903年から1910年にかけて神話・伝説研究に打ちこんでいたが、この「まえがき」はその最終段階で書かれたらしい。
ソシュールが神話研究に打ちこんでいた時期は三回の一般言語学講義をおこなった時期と重なっており、ラングの学の構想は神話・伝説の研究と絡みあって発展したようだ。
ラングと神話の平行性はそそられるテーマだ。読んでみようと思ったが、古いドイツ語やスカンジナビア語が混ざっていて、まったく歯が立たない。