ヘンリー・カットナー 「悪魔と呼ぼう」 2

加藤弘一 訳
承前

 やがて眠る時間がきても、チャールズだけはそのことを話したがった。ジェーンは、ベアトリスはこの午後のことがあってから、すこし大人になってしまったなと思った。ボビーは『ジャングル・ブック』を読んでいた。あるいは、読むふりをしていた。虎のシーレ・カーンの挿絵はだいのお気にいりだった。エミリーは壁の方を向き、うそ寝をしていた。

「ベッシー伯母さんに呼ばれちゃったの」とがめるような雰囲気を感じたジェーンはベアトリスにこう切りだした。「できるだけ早く伯母さんのところからもどろうとしたのよ。だけど、衿の寸法をあわせるというの」

「まあ」言い訳は聞いてもらえた。でも、ベアトリスはあいかわらず話しかけてくれない。ジェーンはエミリーのベッドにいき、彼女の小さな体に腕をまわすと、
「怒ってる、エミリー?」

「ううん」

「でも、怒ってる。仕方なかったのよ」

「いいの」エミリーは言った。「気にしてないもん」

「きにきらして、まぶしいんだ」チャールズは眠たそうに言った。「クリスマスツリーみたいだった」

 ベアトリスはキッと向きなおり、「静かになさい、チャールズ。静かに、静かにするのよ!」

 ベッシー伯母が部屋に顔をつっこんで、
「どうしたんです、みんな」

「なんでもありません、伯母さま」ベアトリスが言った。「ちょっと遊んでいただけです」

 そいつは、時たまエサをあたえられ満足しては、奇妙な巣の中で怠惰に横たわっていた。家は静まりかえり、家族はねむりこけていた。ニセの叔父でさえ眠っていた。ラゲドーは物まねの名人なのだ。

 ニセの叔父は幽霊でもなければ、ラゲドーが投射した単なる影でもなかった。アメーバーがエサの方に偽足をのばすように、ラゲドーも体の一部をのばしてニセの叔父をつくったのだ。しかし、似ているのはそこまでだった。というのは、ニセの叔父は自由にひっこめられるのびちぢみ自在の突起ではなかったから。むしろ、彼──それ──は人間の腕にあたるような恒常的な肢だった。大脳から神経系にメッセージをおくることによって腕がのび、指がにぎられ、食物が手につかまれるというようにはたらくのだ。

 しかし、ラゲドーの延長は腕のような半端ものではなかった。それはかならずしも物質を支配する厳密な自然法則にしばられているわけではなかった。腕ならごまかしはきかないかもしれない。ニセの叔父の方は、子供の曇りのない眼以外には、人間そのものと映り、人間としてふるまっていた。

 ラゲドーでさえしたがわざるをえない法則もあった。この世界の自然法則は、ある程度までラゲドーをしばった。生活サイクルもあった。母虫−幼虫の寿命はサイクルにしたがって区切られている。マユをつむいで変態するまでは、食べて食べて食べまくらなければならない。変化の時期がおとずれるまでは、現在とっている姿を変えるわけにはいかない。いま、ここにいるラゲドーも、変化の時期がくるまでは、変身することができなかった。もっとも、その時がくれば、べつの姿になるわけだが。考えもつかない永劫の昔から、何百万回とくりかえしてきたように。

 しかし、いま、それは現在経過中のサイクルの法則にしばられている。突起はひっこめることができない。そして、ニセの叔父がラゲドーの一部であるなら、ラゲドーはニセの叔父の一部だった。

 スクードラーの首と胴体のようなものだ。

 暗い家をつらぬいて、満足の睡りをもよおさせるような波動がこやみなくひたよせてきた──その波動はそれとわからないくらいじょじょに加速していき、消化・吸収が一段落したあとにかならずやってくるどん欲なピリピリした脈動へ変化していった。

 ベッシー伯母は寝返りをうち、いびきをかきだした。べつの室では、ニセの叔父が目をさまさないまま、あおむけの姿勢にもどり、やはりいびきをかきだした。

 防御のための模倣能力はすこぶる発達していた……

 ふたたび午後。わずか半時間ほどで、家の中をみたしていた波動がテンポとムードを微妙に変えた。

「サンタバーバラにいくんなら」と祖母は言いだした。「今日のうちに子供たちを歯医者に連れていっておくよ。歯の掃除をするところだし、フーバー先生の予約をとるのは四人どころかひとりだってむずかしいからねえ。ジェーン、お母さんの手紙だと、先月歯医者にいったそうだから、おまえはいかなくていいよ」

 というわけで、この心配事が暗々裡に子供たちの上にのしかかった。もっとも、だれもそれにふれようとはしなかった。ただ、祖母が子供たちをポーチにあつめた時、ベアトリスは最後まで中でぐずぐずしていた。ジェーンは玄関にでてなりゆきを見まもっていた。ベアトリスはうしろむきに彼女に近づき、目で見ずに手さぐりで彼女の手をとると、しっかりにぎりしめた。それだけだった。

 しかし、責任はそれで十分うけわたされた。余計な言葉は必要なかった。ベアトリスはごくあっさり、今度はジェーンの番だと言っただけだった。それで彼女の責任になったのだった。

 彼女はことさらエサやりをおくらせはしなかった。彼女には大人たちの気をめいらせる波が強まっていることはよくわかっていた。ラゲドーはまた腹をすかせているのだ。

 彼女は従姉妹たちを見送ったが、彼らの姿はやがてコショウボクの影に消え、市内電車が遠くでガラガラ音をたてて発車すると、途中でもどってくのではないかという思いにもようやく終止符がうたれた。そのあと、ジェーンはあるいて肉屋にいき、肉を二ポンド買った。それからソーダ水をのみ、家にもどった。

 脈動がせわしなくなっているのがわかった。

 彼女はブリキの皿を台所からもってきて肉を盛ると、バスルームにすべりこんだ。重い荷物をかかえて、手助けもなしに屋根裏へあがるのはひと苦労だったが、彼女はやりとげた。屋根の下のあたたかな静寂の中で立ちつくしながら、彼女はベッシー伯母がまた彼女を呼びつけて、この義務から解放してくれないものかと思った。でも、声は聞こえてこなかった。

 これからやラ・なければならない動作が単純だったことで、恐怖をほんのすこし追いやることができた。しかも、彼女は九つになったばかりだった。それに、屋根裏は真っ暗なわけではない。

 彼女は垂木の上を平均をとりながらすすみ、厚板の橋のところまできた。彼女は足元に波動の手ごたえを感じた。

ひとつ ふたつ はこうよ おくつ
みっつ よっつ こつこつ ノック
いつつ むっつ ぼうきれ いくつ
ななつ やっつ──

 彼女は二回失敗した。三回目は成功だった。心をきっかり正しい音調の放心状態にひたらせなければならないのだ……彼女は橋をわたった。そして、ぐるっとまわると──

 そこはほの暗く、ほとんどまっ暗闇といってよかった。地の底の冷え冷えとした洞窟のにおいがした。地の底ふかく、おそらく家の地下ふかいところだ。それからは遠くはなれているとわかっても、びっくりはしなかった。ほかの不思議なこと同様、彼女はそのこともうけいれることができた。彼女はおどろきをおぼえなかった。

 奇妙にも、彼女はそれのところへいく道がわかるような気がした。彼女は細いトンネルの中へはいっていき、果てしなくつづく天井の低い洞をあるいていった。つめたい湿気のにおいがした。とてもいごこちのいい場所とはいえなかったし、肉を盛りあげた皿をかかえてうろつくには安全ともいいかねた。

 それは肉が美味なことを知っていた。

 あとからふりかえると、ジェーンはそれのことを、なにひとつおぼえていなかった。どんな風に肉をやったのか、それがどんな風に肉を食べたのか、皆目わからない。あの小さなよじれた空間のどこにそれが横たわり、べつの世界、べつの時代のことを夢見ていたのかもわからなかった。

 わかったのは、それが肉をむさぼり食うにつれて闇がまたも周囲で回転し、光が明滅しはじめたことだった。おびただしい記憶がそれの心から彼女の心へ渦をまいて流れこみ、ふたつの心はまるで一本の糸のようによりあわさった。今度は前よりいっそうはっきり見えた。彼女は輝く檻の中に閉じこめられた大きな翼をもった存在を見ていた。そしてラゲドーが回想するままに回想し、跳躍するままに跳躍した。翼の打撃をわが身におぼえ、飢えのあまり肉を食いちぎり、どくどくあふれだす熱く塩からい、甘やかな液体をとっくり味わった。

 記憶は混乱していた。翼あるものといりまじって、ほかのさまざまないけにえがラゲドーの爪の下を通りすぎっていった。翼の打撃は大きなカギ爪のはえた腕の打撃に変わり、大トカゲの身もだえに変わった。すべての獲物は彼が食べたものとして、記憶の中でひとつになっていた。

 終わりちかくになって、まったくべつの記憶が一瞬ひらめいた。ジェーンは巨大な花園を見た。彼女より大きな花々がゆれ、その間を頭巾をかぶった人影が黙りこくって行き来している。犠牲者は巨大な花のひとつの花弁の上になすすべもなく横たえられ、しろっぽい髪を雨露でくしゃくしゃにぬらしたまま、鎖をたらしていたが、鎖はぴかぴか光るツボミをいっぱいにつけているように見えた。ジェーンは自分も花々のあいだの人影にまじって、黙したまま頭巾をつけてあるいているような気持ちになった。そして、彼──それ──はべつの変装をして、彼女とともに犠牲者に近づいていった。

 それは彼が想いだした最初の人間のいけにえだった。ジェーンはその先が知りたかった。もちろん、道徳的なためらいはいっさいなかった。エサはエサだ。だが、記憶はちらちらしながらべつの記憶につづいていき、結末は見ずじまいだった。じつをいえば、結末を見るまでもなかった。こうした記憶の結末はひとつしかなかったから。おそらく、ラゲドーが血みどろのエサにかぶりつく決定的瞬間にながいをしなかったのは、彼女にとってさいわいだった。

じゅうしち じゅうはち
むすめは きゅうじ
じゅうく にじゅう──

 彼女はからの皿をかかえたまま、用心して垂木からあとじさった。屋根裏のほこりくさいにおいがもどってきた。このにおいのおかげで、記憶の中の血のにおいを心からぬぐいさるのが楽になった……

 子供たちがかえってきた。ベアトリスは一言、「やった?」とたずねた。ジェーはうなづくのだった。タブーは依然としてつづいていた。子供たちはほんとうに必要な時以外、その件をことさら語ろうとはしなかったのである。そして、睡たげで怠惰な脈動が家をみたしたが、それはニセの叔父の心霊的な空腹感が──ひとまず──回避されたことをなによりも物語るものであった……

「モウグリィのお話を読んでよ、おばあちゃん」とボビーが言った。祖母は席につくと、メガネをふいて鼻にのせ、キップリングをとりあげた。その時、ほかの子供たちは秘密の集まりの最中だった。祖母はシーレ・カーンの最期を語った。家畜を一頭ふかい峡谷に追いこんで虎をおびきよせる。そして地響きをたてて突進する家畜の群。踏みつぶされて血まみれになる殺し屋。

「いいかい」祖母は本をとじながら言った。「これで虎は死んだんだよ」

「ううん。死んでないもん」ボビーは立ちあがると、眠そうな声で言った。

「いいや、死んだのさ。めでたし、めでたし。家畜がやっつけたんだよ」

「結末では死んだよ、おばあちゃん。でも、もう一度お話の最初を読んだら、シーレ・カーンはちゃんと生きてるんだよ」

 もちろん、ボビーはおさなすぎて、死ということがわからないのである。西部劇ごっこで殺されることはあるが、結末は悲しいものでも取りかえしのつかないものでもない。「死」は抜きさしならぬ言葉なので、個人的な経験をぬきにしては理解できないのだ。

 リュウ叔父はパイプをくゆらしながら、目もとの茶色い皮膚にシワをつくり、バート叔父を見ている。バート叔父は唇をかみしめたまま、チェスの手を長考している。だが、どっちにしろ、リュウ叔父が勝つのだ。ジェイムズ叔父はガートルード叔母にウィンクをおくり、散歩をするからつきあわないかとさそった。叔母は承知した。

 ふたりが出ていくと、ベッシー伯母は目をあげ、鼻をくんくんやりながら、
「あのふたりがもどってきたら、タバコのにおいをさせているに決まってるわよ、母さん。よくがまんするわねえ」

 しかし、祖母は笑うだけで、ボビーの髪を指ですいていた。ボビーは祖母の膝で眠ってしまっている。両手をぎゅっとにぎりしめ、頬をほんのり上気させ。

 サイモン叔父のひょろ長い人影が窓のところに見えた。

 彼はカーテンごしに見つめるだけで、一言も口をきかなかった。

「早くやすむのよ」ベッシー伯母が言った。「明日の朝はサンタバーバラにたつんだから。いいわね、みんな!」

 というわけだった。

 朝方、ボビーは熱をだし、祖母は彼の命を危険にさらすような遠出はやめると言いだした。この一言でボビーはすっかり気おちしたが、前日、子供たちが何時間も話しあった留守中の問題はあっさりけりがついた。ジェーンの父からも電話があり、その日のうちにむかえにくるということだった。ジェーンには小さな弟ができていた。コウノトリの話をぜんぜん信じていない彼女はそれで元気をとりもどし、母がもう病気にならなければいいがと願った。

 秘密会議は、朝食のまえに、ボビーの部屋でひらかれた。

「どうすればいいか、わかっているわね、ボビー」とベアトリスが言った。「やるって誓う?」

「誓うよ、うん」

「あなたもやってくれるわね、ジェーン。お父さまがむかえにくる前に。それから、ボビーのかわりにお肉をたくさん買っておいてくれたらありがたいわ」

「お金がなくちゃ肉は買えないよ」ボビーが言った。

 ベアトリスはやや気のすすまぬ風に、ジェーンのささやかなたくわえの残りを一枚一枚とりだし、ボビーにわたした。ボビーは小銭を枕の下におしこむと、首のまわりにまいた赤いフランネルをひっぱり、
「あいつにひっかかれたんだ。とにかく、病気じゃないんだよ」

「昨日、青い桃をたべたからじゃない」エミリーはひどくあけすけな言い方をした。「だれにも見られないですんだとでも思ってるの」

 チャールズがはいってきた。彼は階下にいたのだ。息を切らせて、
「ねえ。なにがおこったと思う? あいつ、足をけがしたんだよ。これでサンタバーバラへはいけないぞ。賭けてもいいけど、あのけがはわざとだな」

「まあ」とジェーンは言った。「どんな風に?」

「階段でねじったと言ってるけど、ウソだね。あいつはいきたくないだけさ」

「たぶん、いけないのね──そんなところよ」突然のひらめきをえて、ベアトリスが言った。子供たちはその件については話を切りあげた。しかし、ベアトリス、エミリー、チャールズの三人は、とにかく、これでニセの叔父がいっしょにサンタバーバラへいくことはあるまいという受けとり方をした。

 一行と荷物は二台のタクシーに分乗した。祖母とニセの叔父とジェーンは玄関ポーチにでて見送った。自動車がガタガタいいながらいってしまうと、ジェーンはボビーからすばやくお金をうけとり、肉屋にいって、荷物をどっさり持ちかえった。

 ニセの叔父は杖をたよりに、びっこをひきながらサンルームにはいり、横になった。祖母はボビーに口のまがりそうなほど苦い、でもよく効く煎じ薬をつくってやった。ジェーンはあの仕事は午後にまわそうと決心した。ボビーはむずかしい単語につっかえながら、『ジャングル・ブック』を読んでいた。しばらくは休戦だ。

 ジェーンはその日のことのことはずっとおぼえていた。匂いはとてもくっきりしていた。台所から流れてくるパンを焼く香り。戸外の花々の甘ったるい芳香。陽射しにあたためられた敷物や椅子から立ちのぼる、ちょっと埃っぽい、焦茶色の匂い。祖母は顔と手にコールドクリームを塗りに自分の寝室にあがった。ジェーンは戸口のところで手もちぶさたにしながら、中をのぞきこんだ。

 すてきな部屋だった──心がうっとりとなごんだ。カーテンはゴワゴワになるほど糊がきいていて、ヒダにそって白く折り目がでている。文机にはいろいろおもしろそうなものがおかれている。人形をかたどった針さし。小さな赤い磁器の靴の上にのった、さらに小さな磁器のハツカネズミ。カメオのブローチには祖母の娘時代の肖像が彫りこまれている。

 そして、じょじょに、着実に脈動が強まっていくのが、この寝室にいてさえ感じられた。その場にいたジェーンは、いまにも押しつぶされるように感じたほどだった。

 昼食のすんだあと、呼び鈴が鳴った。ジェーンの父親だった。サンフランシスコにすぐにつれて帰るというのだ。列車の時間がせまっているし、車をまたせているので、あいさつもそこそこにたたなければならなかった。だが、ジェーンはすきを見つけて上にあがり、ボビーに別れをつげ──肉のかくし場所をおしえた。

 ボビーにおしつけるべきでないことはわかっていた。責任をはたせなかったという気持ちが、駅までの道すがら、ずっと脳裏をさらなかった。大人の声が列車の大幅な遅れをつげ、父がサーカスがきていると言ったのも、ぼんやり聞きながしただけだった……

 それはすばらしいサーカスだった。彼女はボビーのことも、危険のこともほとんど忘れていた──ボビーが約束どおりにやらなければ、おそろしいことがいまにも起こるというのに。空が紺青にくれる夕まぐれ、父と娘は人波にまじってテントをでた。その時、すき間ごしに、小さな見なれた人影が目にとまった。ジェーンは胃袋の底がぬけたような衝撃をおぼえた。彼女はすべてをさとった

 ラーキン氏もほぼ同時にボビーに気づいた。彼はすぐさま声をかけた。ややあって、ふたりの子供はたがいに顔を見あわせあった。ボビーの顔はむくみ、元気がなかった。

「おばあさんは君がここにきていることを知っているんだろうね、ボビー?」とラーキン氏は言った。

「ううん。知らないと思います」ホビーは言った。

「君はうんとお尻をぶってもらわなくちゃいけないな。おいで、ふたりとも。すぐにおばあさんに電話するから。死ぬほどびっくりするぞ」

 ドラッグストアーで父が電話しているあいだ、ジェーンは従弟を見つめていた。彼女は大人になることの重みをはじめて痛みとして噛みしめた。責任ということがわかっていなかったのだ。

「ボビー」と彼女は言った。「やってくれた?」

「ぼくひとりにしたじゃないか」ボビーは顔をしかめた。沈黙。

 ラーキン氏がもどってきた。「だれもでないんだ。車を呼んだ。ボビーを送っていっても、列車にはまにあうだろう」

 タクシーの中でも、おおむね沈黙がつづいた。家でおこっているかもしれないことについては、ジェーンはまったく考えていなかった。心には自動防御装置がそなわっているものなのである。それに、いずれにせよ、もう手遅れなのだから……

 タクシーで近づいていくと、家は薄暮の中にそびえ、四角い窓がオレンジ色にかがやいていた。玄関ポーチには何人もの人がいて、警察官のバッジがちらちら光った。

「おまえたちはまっていなさい」とは言ったが、ラーキン氏は落ちつきをうしなっていた。「車からでるんじゃないぞ」

 タクシーの運転手は肩をすくめ、ポーチへはしっていくラーキン氏をしりめに、新聞をひっぱりだした。うしろの座席では、ジェーンがボビーに話しかけた。彼女の声はひどくやさしかった。

「やらなかったのね」とささやいたが、とがめている風ではなかった。

「関係ないもん」ボビーはささやきかえした。「あのゲーム、もうあきちゃったもん。ぼく、なにかほかのことして遊びたかったんだ」彼はクスクス笑い、「ぼくの勝ちさ、どっちにしても」と言いはなった。

「どうしたの? なにがあったの?」

「警察がきたんだ──ぼくの思っていた通りにね。あいつはそんなこと考えてもいなかった。だから、ぼくの勝ちなんだ」

「どうして?」

「うん。これは『ジャングル・ブック』みたいなものさ。虎狩りをおぼえてる? 大人たちは子供を杭にしばりつけて、虎が近よってきたら──バン! さ。子供はみんなサンタバーバラへいっちゃったろ。だから、ぼくはおばあちゃんを使ったんだ。おばあちゃんは気にしていないと思うよ。だって、よくゲームをいっしょにやったもん。おにかく、おばあちゃんしか残っていなかったんだよ」

「だけど、ボビー、そのお話にでてくるキッドというのは、わたしたちみたいな子供(キッド)ではなく、山羊の赤ちゃん(キッド)のことなのよ。それに第一──」

「へぇー」ボビーは小声で言った。「なんだ、そうなの。ぼく、おばあちゃんがぴったりだと思ってた。ふとってて、もたもたしてるしさ」彼は馬鹿にしたようにニヤリとして、「あいつ、パーなんだよ。虎狩りの時みたいに子供が杭にしばりつけてあったら、狩人がかならず待ち伏せしていると気がつかなくちゃいけないのに、なにもわかってないんだから。おばあちゃんを部屋にとじこめてある。まわりにはだれもいないよって、おしえてやった時、気がついてもよかったんだけどさ」ボビーは小狡そうに目をかがやかせ、「ぼく、利口だったよ。そうおしえるのだって、窓ごしに言ったんだ。ぼくのことをキッドとまちがえるかもしれないと思ったからだよ。でも、あいつ、まちがえなかった。あいつ、まっすぐ二階へあがっていった──全速力でだよ。びっこのふりをしていることまで忘れちゃってさ。よほど腹をすかせていたんだな」ボビーは人のゆきかうポーチへちらと目をやり、「きっと、警察はあいつをつかまえているよ」そして、こともなげにこうつけくわえた。「赤ちゃんの手をひねるみたいに簡単だったよ。ぼく、勝ったんだ」

 ジェーンの心は、もう、そうした気まぐれについていっていなかった。

「おばあちゃまは死んだのね?」彼女はうんとやさしくたずねた。

 ボビーはきょとんとして彼女を見た。その言葉は彼にとってはちがうことを意味していた。ゲームの中以外では、その言葉は意味をもたなかった。そして、彼の知るかぎりでは、虎は杭にしばらりつけられたキッドをけっして傷つけないのだった。

 ラーキン氏はタクシーにもどってきた。今度はひじょうにゆっくりと、おぼつかない足取りで。

 ジェーンは父の顔を正視できなかった……

 もちろん、事件は可能なかぎりもみけされた。子供たちは、無駄なことではあったが、事件の真相からまもられた──子供の方が、かくしたつもりの大人より、真相をよく知っていたのだが。反対に、大人から秘密をまもろうという子供たちの努力も、おなじように無駄だった。上のふたりの娘を除けば、子供にはことさら秘密をまもろうという意識はなかった。ゲームは終わった。おばあちゃまは長い長い旅行にでて、もう二度と帰ってくることはなかった。

 それがなにを意味するのか、子供たちには十分わかっていた。

 ところで、ニセの叔父の方は、やはりどこか遠くへいき、大きな病院にはいって、そこに一生いるということだった。

 こちらは子供たちをいささか困惑させた。なにしろ、経験の範囲外のことだったから。死のことは不完全にせよ理解したが、こっちはまったくもって謎だった。もっとも、いちど興味がうせてしまうと、そんなことは考えなくなったが。ボビーはある時『ジャングル・ブック』を読んでもらいながら、もしその場で虎を撃ち殺さず、生け捕りにしていたらどうかと、尋常ならざる注意を集中して考えこんだ。もちろん、そんなことはありえない。現実の虎は殺されるのだから……

 そのあとも長いあいだ、ジェーンの倒錯した想像力は、悪夢の中で、目がさめているあいだなら決して想いださないようなあれこれにこだわりつづけ、再体験しつづけた。彼女は祖母の寝室を最後に見たとおりに、くりかえしくりかえし夢に見つづけた。糊がききすぎて波うつカーテン。射しいる陽光。赤い磁器の靴。人形をかたどった針さし。しわのよった手にコールドクリームをすりこみながら、時々目をあげる祖母。地下のおぞましい岩屋から発せられ、家中にひろがっていく飢えのどん欲な波動のために、目をあげるごとに、祖母の視線はけわしくなっていく。

 それはほんとうに腹をすかせていたにちがいない。足首を捻挫したふりをしていたニセの叔父は、長椅子の上で輾転反側していたはずである。あの空腹をかかえて、栄養物──それなしには生きつづけられない赤いエサ以外のものには、まったく目をくれないあの男。サンルームの自動機械、飢餓と食物をもとめるどん欲さの脈動でゆがだ、あの狂おしい存在……

 エサのことをおしえるにあたり、窓ごしにつたえたのはじつに懸命だった。

 二階の鍵のかかった室で、祖母は逃げられないことをさとったにちがいない。老人斑のういたむくんだ指は、コールドクリームでぬるぬるし、扉のノブをつかんでもまわせなかったはずだ。

 ジェーンは迫りくる足音を何度も夢で聞いた。実際には聞いていない足音は、いままで耳にしたどんな音よりも大きく、現実味をおびていた。彼女は階段をのぼってくる足音がどんな風にひびくのか、よく知っていた。タッ、タッ、タッと一度に二段づつかけあがってくる。祖母は足首を捻挫した叔父ではないと気づき、警戒して目をあげたことだろう。飛びあがり、心臓は早鐘のように打ち、とっさに強盗かと思ったことだろう。

 それは長くはつづかなかった。ホールにかけあがると、足音は心臓の鼓動とかさなる。いまや家は満足を目前にした飢えの勝利の雄叫びで揺れうごき、脈動した。タッ、タッ、タッという足音のリズムは脈動とひとつになり、おおまたで、全速力で、いまわしい目的に胸を高鳴らせ、まっすぐホールをよこぎった。それから錠の中で鍵がガチャガチャ音をたて、そして──

 ジェーンは普通、そこで目が覚めた。

 小さな子供には責任は理解できない。ジェーンはあの時も、あのあとも、何度もそう自分に言いきかせた。彼女はあれ以来、ボビーと頻繁に会うことはなかったし、会っても彼はほとんどおぼえていなかった。あたらしい経験が古い経験をはじきだしてしまったのだ。彼はクリスマスに仔犬をもらい、学校にもいきはじめた。ニセの叔父が療養所で死んだと知らされた時も、それがだれの話か想いだすために一所懸命考えなければならなかった。なにしろ年少の従弟たちにとっては、ニセの叔父は家族の一員ではなく、自分たちがよくやり、最後には勝利をおさめたゲームの一部だったのだから。

 一族をおおっていた名づけようのない悲しみは徐々にうすれていき、やがて消えた。祖母の死の直後は、悲しみは最もふかく、ほとんど絶望であったが、みなは死をショックのせいにした。ニセの叔父が死んだ時、一族はようやく安堵した。

 ボビーの冷たい一面的な論理が奏功したのは、まったくの偶然だった。分身のニセの叔父をゲームに送りこんだからといって、また、ボビーが相手を信頼してルールをまもってもらえると期待したからといって、ラゲドーがフェアにふるまう保証はなかった。彼がルールにしたがったのは、ルールをやぶれなかったからにすぎない。

 ラゲドーとニセの叔父はふたつでひとつであって、生活サイクルの中でわかちがたく結ばれていた。現サイクルが首尾よく完了するまでは、ニセの叔父という突起をひっこめることも、法則をやぶることもできなかった。つまり、ラゲドーはついに手も足もでなくなった。

 ニセの叔父は療養所でしだいに飢えていった。彼はだされたものには手をつけようとしなかった。なにがほしいかはわかっていたが、それはあたえられなかったのである。首と胴体はともに死んだ。キートン祖母の家にふたたび平安がもどった。

 たとえボビーが事件をずっとおぼえていたとしても、そんなことがだれにわかるだろうか。彼の行動は完璧な──ただし、経験がすくないために一面的な──論理によって律せられていた。もしなにか十分ひどいことをさせれば、警察がつかまえにくるだろう、というわけだ。彼があのゲームをほうりだし、ほかの遊びをはじめなかったのは、ひとえに競争本能のゆえである。

 つまり、彼は勝とうと思い──勝ったのである。

 大人なら決してボビーのようにはしないだろう。──だが、子供はべつの種族なのだ。大人の規準からするなら、子供はすべて正気の沙汰ではないのである。その心のはたらき方のゆえに、おこないのゆえに、あるいは願いのゆえに──

 彼を悪魔と呼ぼう。

(マザーグースは谷川俊太郎の訳による)
(Aug 1983 ミステリ・マガジン)
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