ディレイニーとの交点
              ──伊藤典夫氏と語る

加藤弘一

20年がかりの翻訳

──まずは『アインシュタイン交点』の刊行、おめでとうございます。もうお忘れと思いますが、ちょうど伊藤さんがこの翻訳にとりかかられた頃、ワセダ・ミステリ・クラブに浅倉久志さんとお二人で来ていただいて、いろいろお話をうかがったことがあります。その時、『アインシュタイン交点』はいつでるのですかと質問したところ、「あの作品は腐る心配がないから、じっくり時間をかけて訳す」とおっしゃり、さすが伊藤さんは大物だなと思いました。

 『アインシュタイン交点』は20年がかりのお仕事になり、ついに今年(1996年)、刊行の運びとなりました。送っていただいた本を前に、伊藤さんはやはり大物だなと敬服しましたが、ただ、後書はどうなんでしょうか。「翻訳家M」と「文芸批評家K」がわけのわからないことを言って混乱させるので仕事が遅れたというようなことをお書きになっていますが。

伊藤 ああ、『ノヴァ』を訳していたときね。だけど、もともと遅れていた仕事で、あなたたちが遅らせたわけじゃないんだ。翻訳という仕事に自信をなくしている状態がずっと続いていて、ナメクジが這うようなペースでやっていたから、あなたたちの茶々で1ヶ月くらいずれたところで、遅れたうちにははいらない。しかし宮脇(翻訳家M)とあなた(文芸批評家K)のいったことが青天の霹靂だったことは事実だよ。

 宮脇のベアード・サールズ情報だかなんだか、ディレイニーがあの小説にゲイ的なテーマを込めてるといわれると、それなりに腑に落ちるところがある。それまで、『ノヴァ』というのはメタ・レベルで読む必要のない小説だと思って訳していたんだが、やっぱりそうだったのかと。つまり、たんにメタ・レベルで読めるというだけじゃなく、作者がメタ・レベルで読ませようとしているという意味でね。『ノヴァ』というのは26歳くらいで1度読んだだけで、英米でもあまり掘りさげた評論は出ていないから、たかをくくっていた。その核心部をずばりと指摘された。

──『ノヴァ』のラストがアナル・セックスの隠喩だという読み方ですね。『ダルグレン』が出た後だったと思いますから、ディレイニーがゲイだという話は知っていましたが、あの指摘を聞いた時にはびっくりしました。しかし、結末のもやもやした感じが、そういうことだったのかと得心がいきました。それに、イリリオン=糞便=金というイメッジャリーを念頭において読み直すと、ピタッとはまるし、読みすごしてきた文章があの指摘で前に出てくるんですよね。。意識的に組み立てた部分もあるんでしょうが、文体のリアリティーは計算で出せるものじゃないですから、「文芸批評家K」としてはあの説はいい線いっていると思っています。

追記:『ノヴァ』の解釈については書評空間参照。(Sep29 2006)

伊藤 糞便というのはわからない。そういう線もあるのかな。直感的にそういうものが全部見える人間もいるんだろうが、少なくとも俺はいろんな手続きを踏まないと見えてこないところがあるから。

──そういえば、佐川(「June」の元編集長)から大量に資料を送ってもらったと、『ノヴァ』の後書にありましたね。ぼくも、確か、10年前に最後に伊藤さんと話した時に、ジャン・ジュネを読んでくださいとお勧めしたと記憶しています。

伊藤 『薔薇の奇蹟』とかジャン・ジュネ全集は、図書館から借りて字づらを見たよ。薔薇のイメージは『アインシュタイン交点』のなかでけっこう重要な役を果たしてると思う。だけど、ジュネの作品からディレイニーをながめるところまでは行かなかった。それをいえば、ゲーデルも知らず、エミリ・ディキンスンも知らず、ヴェネツィアにもイスタンブールにも行ったことなしに訳してる。作者と同じくらい詳しいと思うのは、マリア・モテスのことぐらいだろう。

ホログラフの寓話

伊藤 ディレイニーというのは俺にとってはひとつのチャレンジで、読んだ量も少ないし、あんまりわかってもいないだろうけど、彼の考え方がすこしずつすこしずつ見えてきているという確信はある。「本の雑誌」の96年10月号に「時は準宝石の螺旋のように」の読み方をちょっと書いた。だけどこれの発端は1971年で、『アインシュタイン交点』を再読して、すこし見えてきたところからスタートしている。俺はなんでもかんでも遅いんだよ。『アインシュタイン交点』というのは、小説を書くことと読むことの寓話らしいというのが最初の発見だね。これ自体はテーマのひとつに過ぎないけど、ロービーが作者で、キッド・デスが読者──ただし悪い読者で、それに対立する読者というのがまた別にいる。そういうふうに読んでいくと、あのわけのわからない小説をかろうじて結末までたどることができる。

──1971年というと、「SFマガジン」の「SFスキャナー」に書かれた時ですね。

伊藤 そうそう。でも、そのことは書かなかった。

──読むことの寓話だというのは、『バベル17』も同じですよね。冒頭にリドラと将軍の対話がありますが、将軍(the General)は一般者(the general)でもあって、表面的には暗号がどうのこうのと喋っていますが、ディレイニーは詩人と読者の関係を書いているわけです。

伊藤 ああ、そうか。『バベル17』も読んでないんだ。とにかく、自分のやってることで手いっぱいだから。

──『バベル17』は読まれてますよ。あれを「スキャナー」で紹介したのは伊藤さんじゃないですか。

伊藤 表面的にしか読んでいないということだよ。スペースオペラらしいが、それにしては余計な回り道が多い話だなと(笑)。

 「本の雑誌」に書いたことに話をもどすと、『アインシュタイン交点』を訳しおえたとき、新しく見えてきたことがいくつかあって、これがどのくらい正解なのか、別のディレイニー作品を読んで確認することにしたんだ。で、昔からわからないなと思っていた「時は準宝石の螺旋のように」を読んでみたら、いままで見えなかったものがやはり見えてきて、それをちょっと紹介したんだ。

──どういう話だったんですか?

伊藤 ホログラフの喩えが出てくるわけじゃない。ホログラフの部分が全体の情報をもっていて、分割するとイメージはぼやけるけれど、全体像は変わらない。

──「ホログラム」という短編もありましたね。ディレイニーの日本最初の紹介じゃなかったかな。

伊藤 うん。「時は準宝石」は、ホログラフの喩えが世界像と一致すると考えられはじめた未来世界が舞台で、ひとりの小悪党の出世物語なんだ。途中、主人公はFBIみたいなのに捕まり、おまえは将来こうなる──すべてお見通しだといわれる。彼は最初、そういう未来予測をパラノイアックなものとして拒否するんだけど、最後はひとつの知恵として受け入れる。なぜそれが知恵なのか、それがどう納得できるかというのがいちばん肝心なところで、小説の細部に神経を行きとどかせると、それがわかってくる。

──あれは伊藤さんも訳してましたよね。

伊藤 最初、「SFマガジン」に載ったときは小野耕世の訳だった。だけど、その前から英語で読んでいてさっぱりわからなかったので、サンリオ文庫でディレイニーの短編集が出ることになったとき、自分で訳すとどうなるだろうと思って引き受けたんだ。70年代の終りだったかな。ところが、訳したはいいが、わからない。その後、2度ばかり再録され、そのたびに読み直し、訳文チェックをしたんだけど、まだわからない。でも、ストーリーそのものは、わからない話ではないんだよね。

──あれはおもしろいですよ。

伊藤 俺はおもしろい話だとは思わない。

──きらびやかで颯爽としているのに、「去年の雪、今いずこ」という寂しさがあるでしょ。あれがたまらない。ディレイニーの短編の中でも最高の部類だと思いますよ。

伊藤 そうかな。楽しく読んだひとはしあわせだと思うけど、はっきりいって焦点のさだまらない話だぜ。何をいいたいのか見えてこない。

──作者がなにを言いたいかなんて、どうでもいいと思うんですが。

伊藤 俺は英米SFの紹介と翻訳が仕事だからね。自分が紹介する小説の価値は知っておきたい。

 というか、笑える小説なら笑いたい。あっという落ちが仕掛けてあれば、あっといいたいというだけのことだよ。俺はSFも小説もエンターテインメントとして読んできた。ディレイニーの小説は、ほとんどがエンターテインメント仕立てのくせに、俺の楽しみの網の目をくぐり抜けてしまうところがあって、それで長年あがいていたんだ。「時は準宝石」でいえば、シンガーというコンセプトには何か作者のプライベートな思いがこもっていそうだけど、それを除けば、人物や背景の造りが雑で、舞台がほかの惑星に移ろうがどうしようが、そこらの二流SF並のおざなりな書き方しかしていない。

 だけど、いまはわかる。あの小説は、人物や背景や物語に主眼があるんじゃなくて、小説の構造そのものがほのめかす仮説的な世界像が重要で、そこがSFでもあるんだ。『アインシュタイン交点』もそうだよ。小説を書くことと読むことの寓話が中心テーマだったら、あんな凝った小説にする必要はまったくないし、SFにもならない。じっさい訳しおえて原稿をプリントアウトしているときに、全体がぼうっと頭のなかに見えてきて、「あ、よく出来てる!」と思ったの。超高級エンターテインメント。きっちりした構造を持っている。ディレイニーというのは西欧理性の権化みたいなやつでさ。

──そうです。普通、ホログラフィック・パラダイムというと、ボームとかカプラみたいに、神秘主義の方にいきますよね。すべての部分に全体が宿るような相互依存の世界は計算不能で、ホログラフというのは西欧理性の限界を示しているとかいって、禅とか悟りとか言いだす。ところが、ディレイニーは反対に、ラプラスの魔みたいな西欧理性の究極の姿を見ているんですね。ゲーデルも同じように、正反対に誤解しているし。

伊藤 うん、うん。なんだかね。黒人で、ゲイで、SF作家で、こういうものを書いているということで、ディレイニーはアメリカ文学の鬼っ子になっているようなところがあって、白人たちがたんに頭で考えてることを、みずから体現しようとしている。どうもそんな印象を受ける。

──本気で受けとっちゃったわけですよ。かわいそうに(笑)。

伊藤 もっとも、これは30年前のことで、いまのディレイニーは知らない。とにかくむずかしいんで、追いつけないんだ。巽孝之が紹介しているんだけど、ディレイニーは「自分が書いているのはまちがっても文学じゃない、一種の疑似文学だ」と。まさに疑似文学なんだよ(笑)。

──自分でそんなことを言ってるんですか。

伊藤 そう。ポップソングの歌詞やコマーシャル、マンガやポルノ、ウェスタン、推理小説、SFなどをひっくるめた大衆文学研究のさいの学術用語──”疑似文学”だとね。

黒人文学という陥穽

──しかし、それも文学だという立場もありますよ。

伊藤 ボルヘスの「トレーン、ウクバル」とか「バベルの図書館」と同じようなものを感じるから、ボルヘスが文学なら、これも文学だろうと思う。だけど、そういうものとちょっとズレてるかなと思うのは、「どうだ、よく出来てるだろ。まいったか」というのがあるんだ。そういう意味では映画のスピルバーグと同じで、どんなに深刻な題材を扱ってもエンターテインメントになっちゃう。たとえば、白人文明の中で生きている黒人がどうのこうのといった話は、そういう目的のまえには、やはり副次的なものなんだよね。

──身もふたもないですね。

伊藤 もうひとつ、ディレイニーが仕方なくそういう立場に追いこまれてしまったところもあるような気がする。十代のディレイニーが、黒人として危なっかしい人生を歩んでいたころ、いろんな種類の作品を書いて、あちこちに見せて歩いていた時期に、結局あたたかく迎えてくれたのがSFなんだ。そういう意味でも、彼はSFから離れられないんだよ。文学があたたかく迎えてくれていたら、文学の方へ行っていたと思う。

──ぼくと逆だ(笑)。

伊藤 それから、黒人として西欧文明を強く意識してしまった結果、西欧的な理性に異常にこだわっているところはあると思う。

──ただ、若書きという感じがします。『ダルグレン』以降は知らないんですが、どんなものを書いているんですか?

伊藤 <ネヴェリオン>というヒロイック・ファンタジーのシリーズとかいろいろあるけれど、あいかわらず若書きをつづけているような気がする。まったくの憶測だけど、最新流行、というか先鋭的な文学理論とか哲学なんかを先取りして、精巧な疑似文学を作っているという気がする。

──東部知識人の典型ですね。それを黒人でやっているという。

伊藤 そう、そう。SFのなかに、最新の物理学理論とかそういうのを小説的にふくらませたハードSFというのがあるけれど、ディレイニーもほとんど同じ意味でハードSFかもしれない。そういうものが書けるんだよね、あいつ。IQが高いから。

──出来た作品はおもしろいですか?

伊藤 おもしろいというか、チャレンジングだね。だから俺も、若気のいたりで変なことになった。でも、わかっていく過程はおもしろいよ。発見の過程とおなじだもの。ディレイニーがはりめぐらした謎が、根をつめていくと、だんだんわかってくる。

──意識的に構築したものを探しても、不毛だと思うんですけどね。

伊藤 不毛じゃないよ。俺は翻訳者だもの。意識的に構築してあるものがまず見えなければ、先へ進めない。最初にいったけど、小説を書くことと読むことの寓話だというのはまちがいないんだ。これは1995年に出たデミアン・ブロードリックというオーストラリアのSF作家で記号学者の『アインシュタイン交点』論を読んで、25年前の俺が正しい方向で読んでいたことを確認した。といっても、それは小説の三割か四割程度にしかすぎないんだ。なぜ、そういえるかというと、俺が読んだ当時、アメリカSFについての情報が少なくて、ディレイニーがSF界には珍しい黒人作家だというニュースもはいってこなかった。

──ああ、そうでした。あの頃はSF作家はすべて白人男性ということになっていて、ディレイニーが黒人だなんて夢にも思いませんでした。

伊藤 『アインシュタイン交点』に詩人のグレゴリー・コーソと作者との会話の引用がある。「きみみたいな若い黒人作家が〈偉大な白い雌犬〉に取り憑かれて、どうしようっていうんだ!?」──ここからディレイニーが黒人だというのがわかるんだけど、1971年に読んだとき、俺は young spade writer like you の spade という語に馴染みがなくて、「若い気鋭の作家」ぐらいに考えて、黒人だとはまったく知らずに最後まで行ってしまっているわけ。

 この小説の別の三割か四割は、黒人作家がなぜ白人社会の神話にこだわるかというところにあるんだけど、それに気づかなくても読めたんだ。

──でも、黒人というのは作品を書く前の段階で大きな意味をもっているのであって、作品の中では、普遍的な問題に昇華されているということもあるんじゃないですか? 西欧文明を輸入して四苦八苦している日本みたいな国でも共感できるところがあると思うんですが。

伊藤 もちろん、それはある。俺もそういう風に解釈しなおして読んだよ。だけど、現実にはそんなに昇華されていなくて、もろ黒人文学として読めるところがあるんだ。アメリカでは、評論家たちがそれで振りまわされてしまっているところがある。

──具体的にはどの辺ですか?

伊藤 主人公は黒人の村に生まれて、黒人の街へ向かうの。要するに、あそこに出てくるコミュニティは全部黒人のコミュニティなんだ。消え失せ古い種族というのが白人で、白人の作った文明が亡霊のように黒人社会にまといついて、彼らの行動を支配している。

 といっても、それしかないと俺は断定してるんじゃないぜ。隠喩的な小説というのは、つねに「……である。あるいは……」という風にいくらでも解釈を許容していくから。黒人のコミュニティだというのは、ジェイン・ウィードマンという大学の先生の質問に、ディレイニー自身がそうだと答えているからにすぎなくて、ロービーたちが別の宇宙からただよい着いた生物であるからには、あなたがいうように、背後にどういうイメージを重ねることもできる。

──それは気がつかなかった。

伊藤 評論家たちはみんなそっちのほうばかりに気を取られてしまう。俺の場合は、spade という単語を辞書で引かなかったがために、たまたまその図式にとらわれずに読めたんだ。

──そういえば、ディレイニーの作品は、大体そのパターンですよね。『エンパイア・スター』なんて、もろにそうだし。ディレイニーはニューヨーク生まれのはずなのに、なぜ、お上りさんが都会に出る話ばかり書くのか気になっていましたが、黒人文学のパターンから来ていたわけですね。

追記:おのぼりさんパターンはディレイニーの父親の経験が元になっている可能性がある。『ABOUT WRiTiNG』参照。(Sep29 2006)

 ただ、おっしゃるように、黒人文学のパターンからしか読めなくなってしまうとしたら、実証主義批評の弊害の最たるものです。伝記的事実によって作品の読み方が固定されてしまうわけですから。

伊藤 うん。しかし『アインシュタイン交点』の場合は、逆にSFの読者に対して、伝記的事実のほうまで踏みこむように誘っているところがあるような気がするな。だから、みんな惑わされるんだ。発表されて30年になるけど、これが小説を読み書くことの寓話だと指摘した英米の評論家って、ブロードリックのほかにいないんじゃないかと思う。俺は昔の「SFマガジン」にそれは書かなかった。というよりも、そのとき見えたのは直感的なもので、跡づけていく自信が持てなかったんだ。それも訳すのが遅れた理由のひとつだね。

 もうひとつつけ加えておくと、最近ある同業者から聞かれたんだ。「そんなにわからない小説なら、なぜ作者に聞かないの?」と。訳者あとがきには結局書けなかったんだけど、訳しおえたころ、ちょうどアメリカに旅行する予定があった巽孝之経由でいくつか質問してるんだ。だけど訳しおえた時点で、質問するのが空しくなっちゃった。作者自身が、読者や評論家や翻訳者に「解いてみろ」と突きつけている小説なんだよね。だから「こう読んだので、こう訳してみましたが、これで正しいですか?」とたずねるくらいばかばかしいことはない。またディレイニーが何をやっているにしろ、こっちが気がつかなければ聞きようがない。ウィードマンの分析なんかを読むと、そのあたりを痛感する。じっさい巽から来た返事を読むと、大筋では勘違いはないようだけど、細かくたずねた個所ではいくつか、きりにはぐらかされちゃった。出直してこいという意味だと思う。これはある意味で予想していた返事なんだ。

知的ジャンクフード

伊藤 みんな「スターピット」はおもしろい、「時は準宝石」がおもしろいというじゃない。俺はどうもディレイニーをみんなと同じようには読んでいないみたいだね。いったい何が書いてあるんだ、どこがおもしろいんだと。どうも俺の話はそこからはじまるらしい。

──それで、おもしろいですか?

伊藤 おもしろいというか……。映画だって、俺はハリウッド製のノンストップ・アクションや恋愛コメディが好きなんだ。キューブリックとかアンゲロプロスなんかはおもしろいと思って見たことはい。たとえば、「シャイニング」や「アレキサンダー大王」は、2回半ぐらいじーっと見ていたら、ああ、こういうことなのかとわかってきた。その過程がおもしろいといえばおもしろい。二回半見てもわからないものも多いけどね。

──アンゲロプロスなんかの映画も、なにが言いたいかではなく、リズムですよ。リズムにうまく乗れれば、気持ちよく酔いがつづいていくというものだと思うんですが。

伊藤 そういうことをいえるひとは幸せだと思う。俺の場合、映画も小説も「おもしろい」「つまらない」のほかに「わからない」のカテゴリーがあって、そこから考えていく。

──それじゃ疲れるでしょ。

伊藤 疲れるよ。だから、あんまり本も読まないし、仕事もしていない(笑)。

──小説を訳したというより、哲学書を訳したみたいですね。

伊藤 だいたい俺が物心ついたころって、バラード、ディレイニー、キューブリックじゃない。

──え? みんな1960年代の中頃ですよ。伊藤さんはもう20歳を過ぎていたでしょ。

伊藤 俺はそのころ物心がついたんだよ(笑)。しょうがないじゃない、無心につっ走っていたら、いきなり目の前に立ちはだかるんだもの。正気の人は、わかったふりをしたり、脇にどいて別の道を行くんだろうけど、俺はとりあえず進んでみようと。

──ぼくは小説というのは、酔わせてくれるものだと思っていますから、わかろうとしたことはないんですよね。作者の言いたいことなんて、考えたことないし。伊藤さんのディレイニーの翻訳は酔わせてくれないんですよ。

伊藤 ごめんね、俺が訳しちゃって。ディレイニーと感情的に共鳴していないのかな。ラファティだと共感できるだけど。

──ラファティもどうかな。ヤングだと酔わせてくれますけどね。

伊藤 ヤングはいいけど、俺もいろんなものを訳して感受性を豊かにしたいしね。『アインシュタイン交点』についていえば、いい翻訳かどうかは別にして、俺としては訳しおえてひじょうに充実感があったし、あれを越えないと、この先の人生が立ちいかなかったようなところがある。『ノヴァ』のとき、訳しおえて途方に暮れたことがあるので、今度もそうなったらどうしようとこわかったけど、半分ほど訳したところで、すこしずつ見えてきて、それ以後は、見えてくるプロセスがひじょうにおもしろかった。そのプロセスが『アインシュタイン交点』という小説なんだよ。

──250ページあるクイズをやったという感じですか?

伊藤 うん。というより、自分はどういう世界に生まれたんだろうという、その疑問を解く手がかりとなってくれる小説かな。ビートルズが出てくるのはもう古いとか、ゲーデルを誤解しているとかというのは、表面的なことにすぎない。だから、いま、訳せたんだと思う。

──世界を学ぶために訳したという感じですか?

伊藤 うん、そうだろうね。泥縄式にいろいろ勉強できるという効用もある。

──今、『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメが流行っていますが、あのファンは単におもしろがっているんじゃなくて、世界を学ぶために『エヴァ』を見ているらしく、死海写本の研究書を読んで真剣に議論しているんですよ。伊藤さんは『エヴァ』ファンの先駆なのかもしれません。

伊藤 俺はたんなるSF小僧のなれの果てだから、SFと映画からしか世界を学んでいないんだ。SFというのは、世界を学ぶには栄養価が乏しいかもしれない。けど、マクドナルドだけ食っていても、けっこう生きていられるじゃない(笑)。

──知的ジャンクフードですね。味は単調だけど、栄養補給にはなる。

伊藤 ああいうものにはタマネギぐらいは入ってるのかな?

──モスバーガーにははいってます。マクドナルドはピクルスだけですが。

伊藤 やばいね。

──こうなると伊藤さんの自伝が楽しみですね。

伊藤 ロバート・フルガムの何という題名だっけ、はっきり覚えていないが、『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』という本ある。それをもじって、『人生に必要な知恵はすべてスタートレックで学んだ』という本がアメリカで出ていたけど、それと同じだよ。

 というのは、もちろん冗談として受けとってもらいたいけど、たまたま職業としてSFを選んじゃったので、退治しなければならなかったということだな。

──まさに退治という感じがしました。伊藤さんの翻訳はドラゴン退治に匹敵する偉業だと思います。今日はありがとうございました。

(Nov07 1996)

「去年の雪、今いずこ」

 中世フランスの泥棒詩人、フランソワ・ヴィヨンの詩の一節。「時は準宝石の螺旋のように」はヴィヨンの詞藻を借りた部分がすくなくない。

ボーム

 世界最初のSF誌として知られる「アメージング・ストーリーズ」の1937年のある号のお便り欄に、アリゾナ州某所に住むデビット・ボーム君(14歳)の「ぼくは宇宙論に興味があります。恋愛ものはのせないでください」という投書が掲載されているそうである(笑)。伊藤さんによれば、年齢と育った町が同じだから、多分、あのボームだろうとのこと。

Copyright 1997 Ito Norio
Copyright 1997 Kato Koiti
This page was created on May25 1997; Updated on Sep29 2006.
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