R.A.ラファティ「空」

加藤弘一

 空を売る空屋ソラヤとはファーティヴ氏、狐面でイタチ眼、蛇のように身をくねらせて進み、ロックスの地下を寝ぐらにする彼のことである。いつの頃からかロックスは立派な建物ではなくなっていた。もとは龍脈を選んで建てられた豪壮な建築だったが(大地のエネルギーを利用しようというわけだ)、地脈はもう枯れていた。ロックスの各戸は半分、また半分と小分けして貸間になった。そのたびに建物の威光はうすれ、今では名目だけになりさがっていた。ロックスは見るかげもない。パステル調の色合だった外壁はすすけた灰色と茶色になっていた。

 かつては地下の五階分は共有スペースで、駐車場になっていたが、今では小部屋がごちゃごちゃひしめいていた。空屋が身を隠し、寝ぐらにしているのは、その中でも一番小さく、一番見すぼらしい最下層の一室だった。

 彼は夜しか表に出なかった。日の光にあたったら死んでしまうのだ――彼はそれをよく承知していた。彼は夜空の一番暗い部分を売っていた。客はごくすくなかったが(それにしても妙な顔ぶれを選んだものだ)、品物をどこから仕入れて来るか、知る者はなかった。本人はどこから仕入れるのでもない、自分で集めてきて、こしらえるんだといっていたが。

 まるまると太った身軽な娘(骨が中空になっているとか)、ウエルキン・アローダが空屋のところにあらわれたのは、今にも空が白みかけようとしている頃合だった。その時刻、彼はひどくいらつくが、まだ地下の自室に閉じこもってはいない。

 「苛々鼠の空を一袋。早くしてよ。ぐずぐずしてたら、あんたの部屋、太陽があふれちゃうわよ!」とウエルキンは歌いかけた。もう空のてっぺんよりも高く舞上がっている。

 「これで、これでいいだろ」空屋は袋を相手に押しつけながらおろおろいった。彼の眼は恐怖にキラキラ光を放った(本物の日光を受けたら、彼の眼はつぶれてしまうのだ)。

 ウエルキンは空の袋をひったくると、掌まで毛むくじゃらな(本当に? そう、本当に)彼の手に紙幣を押しこんだ。

 「世界はまったいら、大気はまんまる、大空は地下深くひろがって」空の袋を手に、ウエルキンはくちずさみながら、足取りも軽く飛び跳ねて帰った(骨が中空で身が軽いのだ)。一方、空屋は真暗っな竪穴に飛びこみ、地下深い寝ぐらへ。

 その朝、彼らはスカイ・ダイビングに出かけた。ウエルキンをはじめとして、カール・ヴリーガー、イカルス・ライリィ、ジョセフ・アルザーシィの四名である。パイロットは――(いゃ、いゃ、あなたが考えているようなしろものではない。逆さまに飛ぶぞと、早々に脅しをかけてくるのだから。彼らはこのパイロットはもう願い下げにした)――パイロットは農薬散布用小型機の操縦専門のロナルド・コリブリである。

 しかし、農薬散布機では、彼らが身をおどらせたがった極寒の高みまで昇れないではないか。ところが昇れるのだ――空をやれば誰にでも。しかし、機体は与圧されてもいなければ、酸素も積んでいない。それがどうしたというのか。たとえ一人も空をやらず、飛行機も空をやらないとしても。

 ウエルキンはマウンテン・フィズという炭酸をきかせたカクテルで空を流しこんだ。カールはかぎ煙草よろしく鼻につめこんだ。イカルス・ライリィは紙で巻き、火をつけて喫った。ジョゼフ・アルザーシィは飲用アルコールに混ぜて静脈注射した。パイロットのロニーはシュガー・ダストのように嘗めて、クチャクチャ噛んだ。モズ号と呼ばれる飛行機は吸気管マニホルドから空を吸った。

 高度一万五千メートル――本当だろうか。気温零下三〇度――ああ、寒いなんてもんじゃない! 大気は希薄で呼吸などできるはずがない――いゃ、空さえあれば、空気のようなまだるっこしいものなど不用ではないか?

 ウエルキンは機外に飛び出し、落下するどころか上昇していった。これが彼女のおはこだ。彼女はあまり重くない。だから、いつも皆より高く上れるのだ。彼女はどんどんどんどん高く昇って、とうとう見えなくなってしまった。それからまた、ふわふわと降りてきた。氷の結晶の球体にすっぽり包まれ、大はしゃぎ、百面相しながら。

 風は叫び、吠える。ダイバーたちは空中へ身を踊らせる。一斉に降下し、気流にあおられ、横に流され、くるくる回り、時に直立し、すこしだが逆に上昇するかに見えることもあった。彼らは雲海めがけて降下し、間隔をひろげた。陽光をはらんだ銀一色の雲が上下左右から押しよせる。彼らはウエルキンの氷の球体を割った。彼女は殻の外へ飛びだす。みんなで氷の薄片を食べる。とても冷たく、シャリシャリしている。オゾン臭がする。アルザーシィはシャツを脱ぎ、雲の上の日光浴を楽しんだ。

 「黒焦げになっちゃうから」ウエルキンがいった。「雲の中の日光浴が一番効くんだよ」それは本当だった。

 雲海の眼もくらむ白銀一色を降下し、雲の外に突き抜ける。真青な空間が上下の雲層にはさまれ、はるかにひろがっている。こここそ、かのヒポポダミアが馬を競わせた競技場である。あのような駿馬を走らせる場所が地上にあるだろうか。その時、眼下の雲表から雲が逆巻き、上からは雲脚が垂れ下がる。雲の壁が彼らを囲いこんだ。

 「ここなんだ、ぼくらが本当の自分にもどることができるのは」イカルス・ライリィがいった(この名前はダイビング名で、本名ではない)。「どんな世界、どんな星々とも切り離されたここでこそ、ぼくらはひしゃげた状態から回復する。この外にはいかなる世界も存在しない――そう言いつづける限りは。この空間はそれ自体で自足している。ここには究極の完成がある。時間は止まる」

 腕時計はすべて止まっていた――すくなくとも。

 「でも、下には世界がある」とカールがいった。「今は見る影もなくぺしゃんこになっているが。ぼくらがそのつもりなら、未来永劫ずっとぺしゃんこにしておけるだろう。しかし影なみの実在性ならないわけではない。ぼくらにも下界のものへの同情はあるから、あとでまたふくらましてやってもいい。もっとも今はぺしゃんこだ。呪文でこのままの状態にしておかなくては」

 「それは大切なことだ」ジョセフは空をやっている者特有の重々しい口調でいった。「われわれの世界が立ち上がっている間、下の世界にはつぶれていてもらわなくては。いゃ、ずっとつぶれたままにしておくべきだ。そうでなければ、ぼくたちが危ない。あちらがひしゃげたままでいる限り、こっちがつぶされる心配はないからだ」

 「どのくらいの間、降下できるの?」ウエルキンが聞いた。「もし時間が止まっていなくて、もとの速さで流れていたとしたら、どのくらいの間、降下をつづけることができるんだろう?」

 「昔、ヘファエストスはまる一昼夜、宇宙を落ちつづけた」イカルス・ライリィがいった。「当時の一日は今より長かった」

 カール・ヴリーガーの眼はどんより濁っている。内なる情欲が突きあげているのだ。彼はダイビング中、よくそんな風になった。突然、イカルス・ライリィは笑気ガスを吸ったかのように笑いだす。空の効き目が完全でない徴である。ジョゼフ・アルザーシィの背筋を冷たいものがおりる。不吉な予感で鳩尾が固くなる。

 「すこしまずったか」ジョゼフはいった。「明日か明後日なら完璧にできるかもしれぬ。だんだん完璧に近づけていけばいい。一度うまくいけば、次も成功する。だからといって今日の勝負を投げたりするな。不注意がなんだ。大地の奴、老いぼれた背中をちょっともちあげたぞ。おいでなすった! いいか、今だ!」

 彼ら四人は(三人だけだったかもしれない)リングを引いた。パラシュートがするすると引きだされ、大輪の花が開く。衝撃。彼らは会話をかわすために麦束のように寄りあつまろうとした。だが、急速に大地が迫り、五百メートル四方にわたって散らばった。

 一同は集った。そして、パラシュートをしまった。ダイビングはこれで終わりのはずだった。

 「ウエルキン、いつの間にパラシュートをたたんだ? やけに早いな」イカルスはいぶかしんだ。

 「わかんない」

 「君はいつだって一番ドジでのろまだったじゃないか。君のパラシュートはいつだって誰かにもう一度たたみなおさしてもらわなくてはならなかった。そうしないと、次に使えないからな。しかも、今日は着地も一番最後だったはずだ。どうやって一番早くたたんだんだ? どうしたらそんなにきれいにたためる? なんだ、これはぼくの巻き方だぞ。今朝、離陸する前にぼくが巻き直してやった時のままじゃないか」

 「わかんないよ、イカルス。ああ、あたしもう一度舞上がっていきそう。まっすぐこのまんま」

 「だめだ。今朝はもう十分ダイブしたじゃないか。ウエルキン、確かにパラシュートを開いたんだろうな?」

 「わかんない」

 翌朝、空でハイになって、彼らはまた高空に上がった。モズ号と呼ばれる小型機はどんな飛行機もいまだかつてのぼったことのない高空へ暴風雨をついて昇った。乱雲におおわれた地上は豆つぶほどに縮んだ。

 「魔法をかけてやろうよ」ウエルキンがいった。「空をやってれば、何にだって魔法がかけられる。かけたままにしておける。こんなのはどうかしら。さっきまで世界だった豆つぶよ、消えちいな。そら、消えた。今度は別の豆つぶを選ぶわ。あ、それ。かの豆つぶは世界なり、と唱えるの。すると、その豆つぶはわたしたちが後で降りる世界になるんだ。こんな風に取りかえても、世界の方では何もわからない」

 「お言葉だが、下ではおろおろしているぞ」風圧で鼻穴の広がったジョゼフ・アルザーシィがいった。「君のせいだ。世界が自分を疑いだすのも当然だ」

 高度二五万メートル。高度計にはこんな数字までか書かれてはいない。パイロットのロナルド・コリボリは、正確を期すために、目盛りをチヨークで書きたした。ウエルキンが機外へ踏みでた。カールとイカルスとジョゼフがつづいた。ロナルド・コリブリも機外へ飛びだしたが、一刹那、自分は操縦士だったと気がつき機にもどった。大変な高度だった。天空は青いどころか真っ黒で、無数の星が輝いていた。あまりにも冷たくてうつろな空間はひびだらけ、穴だらけになっていた。二五万メートル降下の半ばはあっという間だった。彼らは笑うのを止めた。

 胸が高鳴り、血がたぎる。彼らは雲を踏んで歩く。雲海はまるで凍りついた地面みたいに澄んだ響きをたてた。ここは大地におりる霜、粉なす雪、きららかな氷の故郷だった。風の子供、嵐の王だった。彼らは小石混じりの氷でできた洞窟にはいった。鹿角のように枝分かれした飾り斧やヘミサイオンの骨があった。石炭はまだ燃えていた。割れ目から風が群をなして飛びだし、吠えまわった。これが冷たいフォーティーンの雲だ。その位置は概して高い所にあるものだ。

 暴風雨の下まで降りた。そこには新しい陽光と新しい空気があった。小春日和だった。深まりゆく天上の秋だった。

 ふたたび降下。何万メートル、何万年も。夏の真盛りの空にむかって。大気はあまりに青く、スミレ色の錆を浮かせている。表面に傷がつくのをおそれているのか。またしても、彼らだけの空間が周囲に出現する。時間が止まる。

 だが、運動は別だ! 運動が停止したことは一度もない。御存知か、虚空の中の無といえどもなお動いていることを? 大いなる中心にはなんという力が集中していることか! そこには活力が、不滅の渦巻きが逆巻いていた。激しい動きだけにそなわるしんとした静けさが。

 しかし、運動とは結局、時間と空間の関係にすぎないのではないのかだって? 違う。それは世界に住む人々が常識としている考えだが、勝手な思いこみでしかない。ここ、いかなる世界のいかなる影響からも自由な空間では、動くものなしの純粋運動が生き生きと現前している。

 「ウエルキン、今日の君はすっかり見違えたぞ」とジョゼフ・アルザーシィが驚きのおももちでいった。「どうしたんだ?」

 「わかんない。見違えたなんてすてきじゃない。わたし、すてきなのね」

 「一皮むけたんだな」イカルスがいった。「君はお荷物を降ろしたんだと思うよ」

 「わたし、お荷物なんて背負ってなんかいなかったわよ、イカルス」

 彼らは中心をなす永劫の瞬間にいた。その瞬間は終わることなく、終わるはずもなく、今もつづいている。何かが起こったように見えても、それはこの瞬間に挿入された括弧にすぎない。

 「もう一度考えてみよう」イカルスは暫くの間考えこんだ。大いなる瞬間の中では暫くも何もないが、括弧の中では別である。「考えるなどということは、これが最後であってほしい。ぼくたちは、もちろん、ぼくたちだけの空間の中にいて、時間もどんな接触も超越している。それなのに、大地はあの通り、厚顔無恥にも大変な速度で近づいて来る」

 「しかし、あんなものが何だというんだ!」カール・ヴリンガーは不意に妖しくも雄々しい激情にとらえられていた。「つぶしてしまえ! クレイ射撃の皿みたいに粉微塵に! 猛犬のように飛びかかって来ようというのか。下がれ、世界め! おとなしくすわっていろ、野良公! こら、いうことを聞け!」

 「『立て』といえば、世界は立ち上がるし、『ついてこい』といえば、ついてくるさ」力にみちた静けさをたたえて、イカルスは空語りに語った。

 「まだ無理だ」ジョゼフ・アルザーシィがたしなめた。「明日なら、完璧の域に達しているかもしれない。だが、今日はまだ無理だ。たぶん、その気になれば、世界だってクレイ皿のように壊せるだろう。しかし、壊さなくてはならないようでは、主人とはいえない」

 「代わりの世界くらいいつだって造れるわ」当然のことながら、ウエルキンがいった。

 「そうとも。しかし、これはぼくたちの方から試しているんだ。子犬みたいにお座りしていてくれれば、近くへいってやってもいい。いきなり飛びついてくるようなことはさせんぞ。止まれ! そこで止まるんだ、命令だ」

 すると、突進してきた世界はおびえて止った。

 「降りよう」ジョゼフがいった。「すっかり降参したから、じゃれさせやるか」

 (「そして彼らは天国へ心を向け降りて行った」)

 またしても、彼らのうち三人がリングを引いた。パラシュートがするすると引きだされ、大輪の花が開く。ショックが襲う。彼らは麦束のように寄り集まって、楽しい一時をもった。しかし、大地はみるみる迫って、あっという間に五百メートル四方にばらまかれた。

 「ウエルキン、今日は最初からパラシュートをつけていかなかったな!」もう一度集合した時、イカルスは畏怖の面持ちで彼女を見つめた。「だから、いつもの君とは違って見えたのか」

 「そう、確かにつけていかなかったようね。あたしには必要ないんだもの、どうしてつけなきゃいけないの。そうだ、あたしにはあんなものつける理由なんて、はじめから無かったんだ」

 「そうだったのか。ぼくらは、今日、完璧の域に達していたのに、気がつかなかったんだ」ジョゼフは思い切っていった。「明日は、みんなパラシュート無しでやろう。思ってたより簡単じゃないか」

 ウエルキンはその晩新しい空を買うために空屋へ行った。空屋はロックス界隈の暗がりにはいなかったので、地下室からただよってくるキノコの臭いと湿気の気配に導かれて下へ下へと降りていった。彼女の通り抜けた通路は人工のところ、自然のところ、自然のものとは思えないところとさまざまだった。そうした廊下の中には、なるほど人間の手で造られたものもあるにはちがいないが、今ではその大半は自然に戻り大地の奥底の何とも不可思議な洞窟と化していた。ウエルキンは漆黒の闇の中へ入っていった。そこにはいくつかの物影がかすかな白い影を浮かしていたが、それはおぞましい生白さで、すべておぞましい形をしていた。

 菌糸植物の群体がほの白くわだかまっていた。醜悪なアガリタケ、猛毒でまがまがしいテングタケにアミガサタケ。濁った乳色のラクタリウスが暗闇の中、消えがちなランタンのように光を宿している。ニセクリトシベルは青みをおびた光を、シーザーハラタケは黄色みをおびた光を放ち、中でもとにわけ毒々しく薄気味悪いのは幽霊のように白く光る狂気じみたベニテングタケで、今、モグラは収穫のまっさいちゅうだった。

 「モグラさん、空を持っといで。やんごとなき幽霊が欲しがってるのよ。途方もない取り巻きどもも、大気の女王も欲しがってる」とウエルキンはわめいた。彼女は空でハイになっていたが、効き目はすこしさめかけており、まぎれもない憂鬱な気分がはじまりかけていた。

 「やかましい雄蜂をしたがえた女王に空を捧げようか。心も骨も虚ろな女王に」空屋は虚ろな口調で唱和した。

 「それなら新鮮な空を、ああ、生きのいい、パリッとした空をちょうだい!」ウエルキンは叫んだ。

 「ご覧の通りの生き物が材料じゃ。生きがいいもパリッとしたもないじゃろうて」空屋はいった。「むしろへたったやつといいなされ。そう、へたったやつと! 育ち過ぎてとうがたち、カビがびっしり生えたやつと」

 「それは何?」ウエルキンは問いかけた。「今、あなたが収穫しているのは何というキノコ?」

 「ベニテングタケじゃよ」

 「だって、それじゃ毒キノコ?」

 「毒以上のものに変えてある。毒を昇華したのじゃ。最初の毒性は二次醗酵によって、麻酔成分に変化しているのじゃよ」

 「でも、麻酔成分なんていうと安っぽくきこえる」

 「ただの麻酔成分じゃない。特別なうえにも特別な麻酔成分じゃな」

 「違う、違う、麻酔なんかじゃないわ!」ウエルキンは反対した。「あれは解放だわ。世界破壊だわ。至高の高みだわ。運命であり、超越そのものだわ。あれは究極、あれは勝利」

 「それなら勝利なんじゃろうな、お客人。これは神の造られたもののうちで最も気高く、最も下劣な代物じゃ」

 「違う、違う」ウエルキンはまたしても抗議した。「神の造ったものなんかじゃない。生まれもしなければ、造られもしない。そんないい方、たまらない。神の造らなかったもののうちで最高のものよ」

 「さっさと持って帰るがいい」空屋は不機嫌にいった。「そして、これ切りにしてくだされよ。わしの中で虫のやつ、居所を変えだしたようじゃ」

 「帰るわよ!」ウエルキンはいった。「でも、何度でも来ますからね」

 「いいや、来はしまい。そう何度も空を買いに来た客はいない。これが最後か、せいぜいあと一度じゃ。もう一回くらいは来るかもしれんが」

 翌朝、彼らはまた雲上の人となった。それは最後の朝だった。どうして最後の朝などというのか? なぜなら彼らにはもはや今日明日の区別がなくなっていたから。今や彼らの前には永遠につづくただ一つの朝があるだけだった。そしてこの朝を中断させることができるものなど、ありはしない。

 彼らが乗った飛行機はモズ号という名前だったが、今では永遠の鷹号と改めていた。飛行機は夜のうちに名前とマークを自分で新しいものに描き変えていたが、全員がそのことに気がついていたわけではない。飛行機は吸気管に空を吸いこみ、ニヤッと笑うとうなりを上げた。機は離陸した。

 おお、天上のエルサレムよ! 機はなんという高みへ昇るのか!

 今回は全員、間違いなく、完璧にハイだった。空はもはや必要なかった。彼らが空だった。

 「世界はなんて小さいの!」ウエルキンの声が響きわたる。「街がハエみたい、横町はまるでハエの胴の縞模様ね」

 「ハエみたいな生き物に『ハイ』と紛らわしい名前をつけるなんて間違いだ」イカルスが不平を鳴らした。

 「わたしが変えてみせる」ウエルキンは歌った。「申しわたす。地上のすべてのハエよ、ただちに死ぬべし!」その瞬間、地上のすべてのハエが死んだ。

 「君にそんなことができるなんて思ってもみなかった」ジョゼフ・アルザーシィがいった。「誤りは正された。今度はわれわれが『ハエ』というはえある名を引き継ごう。われらハエなり!」

 パイロットのロナルド・コリブリもふくめ、五人全員が永遠の鷹号からパラシュート無しで飛びだした。

 「一人で大丈夫だな?」ロナルドは絶好調の飛行機に聞いた。

 「もち」飛行機がいった。「永遠の鷹がどこをシマにしているかくらい知ってるさ。連中の仲間に入れてもらうよ」

 雲一つなかった。あるいは雲をもつらぬきとおす視力がそなわったのか。あるいは、地球が小石ほどに小さくなっていたので、その周りに浮かぶ雲など消えたのか。

 純粋な光があまねく湧いていた! (太陽も消えた。満ち溢れる光は太陽の放ったものではない)強烈な運き、特定の位置というものを持たない純粋な運きに彼らは身をまかせた。といって、どこへ向かうというわけではなかったが(すでに彼らはあらゆる場所にいた。あるいは、あまねき力の中心に)。

 冷たいまじりけのない熱狂。まじりけのない静寂。不純なのはカール・ヴリーガーの、ひいては一同のものである超空間への情熱だったが、それとて、あふれ出る出方は、すくなくとも純粋といえた。あらゆるものは卒倒的な美に加えて、異形さにおいてもそびえ立っている。これだけ異形であれば、忘我の境だって生まれようというもの。

 ウエルキン・アローダは髪の毛の中には睡蓮が花開いていると伝説になっていた。そして、ジョゼフ・アルザーシィが髪の中に入れてるものについては語るをひかえよう。どの一瞬も百万年、いゃ十億年つづいた!

 だが、単調ではない、断じて! 芝居だ! 大道具! 背景! 舞台は一刹那の何分の一かでつくられる。いゃ、不断につくり続けられている。あらゆる世界が生じたのは空無の母胎の中でなのだから。球状の世界だけでなく、正一二面体の世界、いゃ、もっと複雑な形状の世界も。七色に輝く世界だけでなく、七の七倍色、七の七倍の七倍色に輝く世界も。

 まばゆい天空に星々がぎらぎら燃えていた。夜空の星しか見たことのない御仁は何もいわぬがよい! 彼らは小惑星をピーナッツみたいにボリボリ食べた。もうそれほどの巨人になっていた。銀河は暴走する象の群だった。橋はあまりにも長大だったので、その両端は準光速で離れていった。きれいな水流さながら波打つ髪は島宇宙団をはらい、玉砂利のように飛ばした。

 髪をすく手際が悪かったばかりに、ウエルキンは老いた太陽を吹き消してしまった。

 「どうってことないさ」イカルスが彼女にいった。「天体の時間スケールから見たって、何百万年、何十億年と過ぎているんだ。そろそろ寿命だったんだよ。それに君は新しい太陽くらいつくれるじゃないか」

 カール・ヴリーガーは何百万パーセクもの長さの稲妻を投げつけて、島宇宙団の間に連絡をつけた。

 「こんなことばかりしてたら時間がなくなっちゃう」ウエルキンはちょっと心配になった。

 「時間そのものはなくなるかもしれないが、時間の外にいるぼくたちには関係ない」ジョセフが説明した。「時間は数をかぞえるための不自由な手段にすぎない。なぜ不自由かといえば、かぞえるための数字で限定されるし、かぞえる者は、数字が尽きたら死ぬほかない。もっとも、それだからこそ数学体系としては意味があるのだが。あんなものは教えるべきじゃない」

 「それじゃ心配ないのね?」ウエルキンは安心させてほしかった。

 「その通り。時間の中にいるならともかく、外に出たのだから、何もあるはずがない。何にぶつかるというのだ、空間を越えているわれわれが。止めろよ、カール! そんなことやって、オカマみたいじゃないか」

 「ぼくの内部の時間には虫が住んでいて、すこしづつぼくをむしばんでいる」パイロットのロナルド・コリブリがいった。「そいつは内側の空洞から、ぼくをバリバリ食べている。大変な勢いで」

 「いや、いや、そんなことがあるものか。ぼくらには何も近づけないし、何も危害をくわえることなどできない」ジョゼフはいいはった。

 「ぼくの場合はさらに奥深い内部に虫が住んでいる」イカルスがいった。「その場所は頭の中とも、胸の中とも、お腹の中ともはっきりしない。ひょっとしたら、それは元々は外にあったものかもしれない。ああ、ぼくの虫は噛りはしないが、もぞもぞ動いている。たぶん、ぼくはすべてから超越していることに疲れてしまったのだな」

 「そんな迷い、どこから湧いてきた?」ジョゼフは不機嫌な声をあげた。「ついさっきまで、虫がどこにいたというんだ。ほんの千億年前まで、どこにもいなかったじないか。世界のすべてが空無となった今になって、どうして虫なんかわいたのだろう?」

 「うん、そのことなんだが――」イカルスはいいよどんだ――(百万年がたった)――「かつてのぼくは、宇宙的好奇心とでもいうべきものをある対象に対して持っていた」――(さらに百万年がたった)――「つまり、世界と呼ばれる対象にだが」

 「ふむ、それなら好奇心を満足させることだな」カール・ヴリーガーは言下にいった。「世界の造り方くらい知ってるだろ?」

 「知ってるさ。しかし、それは同一なのか?」

 「同一だとも、上手なら。同じように造れば、同じものができる」

 イカルス・ライリイは世界を造った。特別上手というわけではなく、完全に同じにはならなかったが、前の世界となかなか似ていた。

 「大事なものがそろってるか、調べてみたい」とウエルキンが要求した。

 「君の知っているものがそのままあるとは考えない方がいい」ジョゼフがいった。「何十億年もたっていることを忘れるな」

 「これからでも、その大事なものとやらを放りこめばいいじゃないか」イカルスはいいはった。

 「しかし、世界を近くへ持ってくることはできまいぞ。今や、すべての距離は無限大になっているからな」カールは譲らなかった。

 「すくなくとも、もっとよく見えるように近寄せることはできる」イカルスはいった。そして、そうした。世界はすぐ傍へ来たように見えた。

 「あら、まるで子犬みたい」ウエルキンがいった。「見て、あたしたちに飛びつこうとしている」

 「いゃ、ライオンだな、木の上に逃げたハンターに飛びかかろうとして、もうすこしでとどかない」イカルスは嫌味をいった。「もっとも、ぼくたちは木の上に登っているわけじゃないが」

 「これじゃ、届かないわよ。じゃれたがってるけど」ウエルキンは好奇心をおこした。「近づいてあげましょうか」

 (「そして彼らは天国へ心を向け降りていった」)

 大地にふれるやいなや、ロナルド・コリブリの身になんとも奇妙なことが起こった。発作でも起こしたのだろうか。彼の顔は歪んでいき、ほとんど恐怖の表情をうかべる。誰が声をかけても返事をしない。

 「どうしたの、ロナルド?」ウエルキンは親身に気づかった。「ああ、何なの? 誰か助けてあげて!」

 ロナルド・コリブリの身にはさらに奇妙なことがつづいた。彼の体は下の方からひしゃげ、つぶれはじめたのだ。骨はゆっくり砕け皮膚を突きやぶった。そして内臓が吹きだした。彼の体ははり裂けた。破裂し飛び散った。人間が飛び散る?

 同じような発作がカール・ヴリーガーを襲う。同じように歪んだ顔、同じような恐怖の表情。同じように下からひしゃげ、つぶれていき、以下同様、おぞましい光景がつづく。

 つづいて、ジョゼフ・アルザーシィの身にも同じことが起こり、あがきながら崩れていく。

 「イカルス、何が起こったの?」ウエルキンは悲鳴をあげた。「あの長くつづく凄まじい破裂音は何?」

 「死んだ。いったいどうなっているんだ?」イカルスは震え、あわてた。「死は時間の内部での出来事、ぼくらには無縁のはず」

 そのイカルス自身にしても時間の中にいた。大地に激突するや、彼もまた破裂し、仲間の誰にもましておぞましく飛び散った。

 そして、ウエルキン。彼女は大地にふれるや衝撃を受け、そして……? 彼女は打撃に貫かれながら、自分の体がつぶれていく長くつづく破裂音を聞いた。

 (さらに百万年がたった。いゃ、数週間だろうか)

 松葉杖をついたよぼよぼの老婆がロックス地下の真夜中の通路をおりていった。彼女はウエルキン・アローダにしては年をとりすぎていたが、時間の外で何百万年も生きたというには年をとっていなかった。

 彼女は死ななかったのだ。彼女は一番軽かったし、以前に二度、無傷で着地していた。もっとも、それは恐怖というものを知る前のことだったが。

 自然なことだが、彼女は二度と歩けないといいわたされた。そして、今、なんとも自然ならぬことに、彼女は松葉杖で歩いていた。キノコの匂いと湿気の気配に導かれるまま、彼女は真っ暗闇の中を、おぞましいばかりに生白く、おぞましい形をした小植物の生育するところへ降りていった。彼女にはあるものが必要だった。それなしには死ねなかった。

 「うちのめされたおいぼれ牝羊に空を! わが中空の骨に免じて空を!」彼女は老婆のひび割れた声をはりあげた。だが、返ってきたのは自分の声のこだまだけだった。

 空屋はまだ健在なのだろうか?

Copyright 1996 Kato Koiti
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