ツツイ戦争 2

加藤弘一
承前

Aロール

 ツツイ的企てを一言でいえば、意味が根拠でも超越でもなくつくられるものであること、生産の対象であることを示すことである。それは単なる人間不信ではなく、もしこういってよければ、意味の観念論に対して意味の唯物論をたてること、意味の境位をあばくことである。意味とはなにか? ツツイ小説のうちでもっとも成功しているもののひとつ、「しゃっくり」にわれわれはその正確な解答を見ることができる。ここでは時間の反復現象を設定することで、物質と記憶、外在的な事態と純粋な意味、物体的なものと非物体的なものを手品のように分離している。叱言をくる警官から解放された主人公はオートバイをとばして交差点を右折する。次の瞬間、彼はふたたび先刻の警官の前にいる。彼はまたオートバイをとばし、ポストの角を右折する。彼はまたもや警官の前にもどっている。時計の針は午前八時四十一分十秒からの十分間をしゃっくりするように往復し、路上の乗用車とトラックは追突のピストン運動を痙攣的に反復する。彼は公衆電話の受話器をとりあげ、十円玉を落しこみ、ダイヤルをまわす。ふたたび警官の前にもどったとき、十円玉はポケットの中にもどっている。彼はチョコレートのパッケージを破り、狂ったようにチョコレートを口の中におしこむ。今や何枚食べようが、腹をこわすおそれも、虫歯になる心配もないのだ。そして、寸断されたこの「十分間の永遠」を反復しつづける限り、死ぬおそれも。

 衝撃があった。
 おれは空中で一回転していた。眼の隅に晴れわたった青空が映り、転じてアスファルトの地面が鼻先にあった。それに額をぶつけたとき、ダンプカータイヤがおれのオートバイを轢くのを見た。逃げなければ──と考えるだけの意識はあった。だが、動けなかった。 たった数秒間、気絶寸前の状態にしては驚くほどのことを考えた。
 十分たてば生き返るのだから、一度ぐらいは死んでみるのも経験だと思った。しかし、もしこの回がラスト・スピンだとしたら、おれは死んだままだ。おふくろはどうしているだろう。死んだら泣くかな? 泣くだろう。会社の可愛いタイピストは? 泣かないだろう。同僚は? 笑うだろう。上役は? あの男は? あの子は?
 巨大な重量のタイヤがおれの胸に乗っかってきた。ひとりでに口が開き、舌がとび出した。肋骨が折れた。意識が幾百万の飛沫になって、はじけ飛んだ。おれは、自分の心臓の潰れる音を聞いた。
 眼の前に警官が立っていた。

それは真の死だろうか? 物理的・生理的に元にもどるという限りでは、なにも変ってはいないし、なにも起こらなかったともいえるかもしれない。だが、彼はまちがいなく宙に舞い、路上に落下し、ダンプカーのタイヤに押しつぶされる。彼は「死ぬ」。「死ぬ」こと、それはオートバイやダンプカー、アスファルトの路面等の諸々の物体から結果するある出来事であるが、しかしそれは轢かれた蛙と同じかっこうでころがる死体に還元されるわけではない。死んでいるという状態、死体という物体が消えた後も、「死」の意味は霧消するわけではないからだ。それは純粋な出来事としての「死」、意味の境位に出来する限りでの「死」である。同時にそのような境位として「記憶」が見いだされている。「十円玉は戻っても、記憶はもとへ戻らない。記憶という無形のものだけが、脳細胞の疲労や思考のエネルギー消費量に関係なく、反復後とに意識の中へ刻みこまれているらしい」のだ。だから問題は非物体的なものとしての「意味」であり「記憶」なのだ。それは物体から独立してあるわけではない。タイヤと路面と身体というすくなくとも三者がなければ轢死という出来事は出来しない。

 しかし、物体の変化の結果であるとしても、「轢死」は「死体」(「汚かったわ。顔中の毛穴から血が噴き出していたわ。口から臓物がとび出していたわ。胸が潰れて、一面に折れた肋骨が突き出ていたわ」)が結果であるという意味で「結果」であるのではない。「死体」は身体の変化してものであって、あくまで物体であり、それ自体他の物体的変化の原因となることができるにすぎない。他方、「死」は非物体的な結果、あるいは効果にほかならず、直接に物体的変化を出来させることはできない。「死」という意味はタイヤと道路にはされまて潰れていく身体から刻々に放射される非物体的なものであり、記憶はそのような意味を不断にむさぼり食いながら肥大していく。この「時間の檻」はシジフォスの谷ではない。反復は無意味どころか意味の過剰をひきおこす。「おれは、すべての行為が無意味なると感違いしていたとことを知った。意識がつづくかぎり、おれの行為は、おれの記憶からも、誰の記憶からも消えないのだ」。衆人環視の中で女事務員を突きたおし、強姦未遂におよんだ彼が自責するのは問題の核心をしめしている。「死ぬ」、「犯す」、それはまさしくチェシャ猫の笑いのように虚空に一閃する意味であり、物体の表面から放射される非物体的なものである。猫そのものが消滅しても、にたにた笑いが残存するように、死体や破れたブラウスが元に戻ったとしても、「死」、「犯す」という意味は霧消しはしないのだ。

 意味の境位は、では、どこにあるのか? ほかでもない、それは最も自明でありながら最も暗い場所、表面にある。

 おお、あのまったりとしてイエロー・オーカーの、実に快い最高の芳香を伴った便! スープ皿にとぐろを巻いて、突っこんだスプーンの周囲に動かぬ波紋をゆるく作っている、あの可愛げな様子! 私はそれを見るなり随喜の涙を流しました。スプーンにすくいあげると、それはピチャピチャと音を立てて粘液の滴を垂らし、皿の上のそれにのめりこんで行くのです。私はもう夢中でした。ひと口食べた時の、あの舌の裏側にまでとろりと拡がって行く感触!

糞便が一品料理としてもつ意味は、口に運ばれ咀嚼され身体の深奥、胃袋の奈落へ吸いこまれる粘液便自体に内在しているわけではない。単に排泄物を食べるだけではこのような意味は出来しない。食べるとともに喋る必要がある。咽喉の奥から噴出する声を分節し、言葉にしなければならない。問題は唇である。唇からは言葉が飛びたつとともに糞便が底無しの体内へ転落する。美辞麗句と汚物、肛門と唇の不意の出会い。皮膚にぱくりと開いた唇になだれこむ物体と、そこからほとばしり出る話声。食べる・喋るのはざまから意味が形成されるのだ。言いかえれば、意味は物体の内部でも外部でもなく表面に、内と外がそこで出会う表面に生まれ、表面から放射される。ちょうど、肉の表面に拡散した残存意識のように。「気の根もとにくくりつけられ、怒鳴り続けているその男、あるいは女を、皆でよってたかって食べるのだ。憎しみは食べられた後さえ、あたりに漂い流れている。旨い。生きたままの肉を引きちぎって口に投げこんだ瞬間の、肉の周囲にまつわりついている荒れ狂った意識が、肉の味をこの上なく旨くさせるのだ」。ここで賞味されている「憎しみ」とは、いささかも内面的なものではない。それは料理から立ちのぼる馥郁たる湯気のように、毟りとられた肉片の表面を美しく装うものなのだ。すべての意味が表面において出来するとすれば、真偽の区別は決定的に壊乱される。エピゴーネンのエピゴーネンが本物であるという『脱走と追跡のサンバ』の認識はここに由来する。それは否定の否定などではない。熊の木節を例に考えてみよう。主人公は村人たちが身ぶり手ぶりもおかしく歌って踊る熊の木節を真似るが、彼がお手本にしたのは真の熊の木節ではない。熊の木節は災厄をまねく忌み歌であって、本当の歌詞は口にしてはならないのだ。「わしらが、熊の木節の替え歌を喜ぶのは、いつ誰が間違って本ものの歌詞を歌うかもしれんためじゃった」。つまり、彼の熊の木節は贋物の贋物、模倣の模倣である。

 誰背が踊っても面白いのだから、おれが踊っても充分おかしい筈だった。まず座の中央へ行き、手拍子にあわせて二、三度身を揺すってから、おれは歌い、踊りはじめた。

/~なんじょれ熊の木

  かんじょれ猪の木

   ブッケブッタラカ

   ヤッケヤッタラカ

   ボッケ ボッボッボッボッボッボッ

 歌い終り、踊り終え、自分で自分のやったことのおかしさにげらげら笑いながら周囲を見まわして、おれはどきりとした。

 誰ひとり、笑っていなかった。

無意味の上にも無意味のはずの所作、話声が、なにかの間違いで意味を生みだしてしまったのである。当人が意図しているいないにかかわらず、彼の熊の木節は真の熊の木節だった。踊りといい、歌といい、それは所作そのもの、話声そのものではなく、そうした物体的なものから剥離して飛遊する意味である。熊の木節の恐るべき効力は、内面などとはまったく無関係に、それ自体では無意味な所作、話声の組み合わせによって出来するのだ。意味の真実性を保証するのは言葉の指さす外物でもなければ、表現されるべき内面的真実でもない。といって、それはまた熊の木節の本質でもない。本質とは一般概念である以上、つねに言いかえ可能、説明可能でなければならないが、熊の木節の真実性は「ブッケブッタラカ、ヤッケヤッタラカ、ボッケ ボッボッボッボッボッボッ」という一連の音節の配置以外のなにものにも置き換えることができないからだ。熊の木節の真実は表層的な音だけによって生まれたのである。

 表面的なものの相互作用として出来する意味を規定できるのは、表面的なものについての規則だけである。「戦争」がなぜ「争戦」ではなく、「戦争」なのか? それは「戦争」と決まっているからであって、それ以上の根拠はない。「ツツイ」が「ツツイ」なのも、単にそう決まっているからにすぎず、そこになんらかの必然性を見いだそうとするなら、意味の王権神授説をまねきよせるしかない。あるいは、本物は本物であることによって贋物を生みだすことができるが、贋物は贋物を生みだすことも、まして本物を生みだすこともできない、と考える向きもあるかもしれない。しかし、本物の本物性を保証するのが表面的なものに関する規則だけだとすれば、そんな区別は効力を失う。ツツイ小説では贋物が際限のない自己増殖をはじめ、なにかの拍子に本物さえも生みだしてしまう。贋物から偶々生まれた本物──エピゴーネンのエピゴーネンとしての本物は、そのように解さなければならない。そして、贋物が本物なしにおびただしく増殖していくとき、真偽の区別はただ暴力によってのみ立てることができるという事態があらわになるだろう。「からからからから。さあ反論してみろ。さあ反論してみろ」と声をあわせる贋物たちを黙らせる方途はただひとつしかない。「本物とパロディの見わけをつけるのはこのおれだ。おれ自身なのだ」というように。

Bロール

 贋物が自己増殖するとは、表面的な意味が意味を生むということである。「水蜜桃」を思いだしていただきたい。当主の勝美は嫁にみだらな関心をよせていたが、それまで小娘と無視してきた七瀬に、突然、その「べったりとした視線」を注ぎはじめる(「お父さま、あんたがお気に入りらしいわ。あんたには気の毒だけど」)。七瀬は心をのぞく。

 勝美の意識の中にある七瀬のイメージは、白い果皮に淡紅色の(ぼかし)の入った一箇の水蜜桃であった。白桃色の七瀬の若わかしい皮膚と、陽光にきらめく少女らしいうぶ毛が、勝美の内部で甘く水分の多い果肉を包んだ水蜜桃のイメージと重なりあっていたのだ。

 (なぜ)

 (なぜ急に、わたしが)

そのような意味が出来したきっかけには、またしても紋切り型が介在している。彼が雑誌で読んだ詩の一節が七瀬の像と交差し、「桃というイメージのあたえるエロチックな部分を、身近にいる水蜜桃のような少女にあてはめた」のである。七瀬は桃の幻影と重ねあわされることによってはじめて性的な意味をおびる。意味どうしの相互作用が新たな意味を生みだすのである。老いてなおエネルギーを持てあましている彼は、にわかに性的な対象となった七瀬を犯すことを、「仕事」とこころえるようになる。忘れてはならないのは、勤勉な勝美にとって、若い女性はすべて潜在的に「仕事」の対象であるということだ。そして、本来の職を定年によって「奪われ」た彼にとって、女に対して欲情し、犯そうとすることが唯一の仕事であり、生きているという証しなのだ。仕事の対象はいくらでもいる。とりあえず、手近にお手伝いの七瀬がいる。だが、誰でもいいということは、誰でもないということだ。七瀬を犯すという「仕事」を彼に選ばせたのは、彼の内的必然性ではない。彼は「失業者」であることを心ならずも認めているが、その「失業者」という条件が、七瀬に過剰な意味をおびさせていくのである。

 意味の生成にはもうすこしこみいった仕掛けもある。土曜深夜、久国は遅く帰った娘のことさらなはしゃぎかたから、彼女が男と会ってきたことを確信する。彼は娘の痴態を想像する。

 映子のふるまいに関して、久国の描写ははなはだ迫真的だった。
 久国は娘の映子と、あの節子という名のホステスの、全裸のイメジをだぶらせていた。腹立ちを押えるため、むしろそうすることによって興奮しようと試みる一方、彼は娘のことばに絶えず上機嫌な笑いで応じていたのである。
 映子は娘らしい直感で、自分がボーイ・フレンドのことを話す時、必ず父の頬に浮ぶ微笑が、ややみだらなものであることに気がついていた。そんなことで情慾をかき立てようとする父を軽蔑していた。

 ここでは四つのシニフィアンの系列が交錯しあっている。家族の系列、情事の系列、優越感の系列、そして面相の系列である。男女の面相はまず家族の系列に重なることで、「父」「娘」という役柄を演ずる。同時に、男の面相は情事の系列をまきこみ、女の面相に愛人の痴態を交差させ、恥ずかしいふるまいにおよばせている。女の面相もまた「今別れてきた木谷との肌のふれあいの感触を動物的に反芻」するというように愛戯の記憶にひたりながら、その一方で男の面相に衰えた情慾を懸命にかきたてようとするあさましい「中年男」の表情を読みとっている。優越感の系列にからめとられた男の面相には父親の「上機嫌な笑い」に代わって、べったりとした「頬に浮ぶ微笑」が貼りつき、それはもはや断罪の的ですらなく、みじめな軽侮の対象にまでおとしめられているのである。男と女の面相は三つの系列とつぎつぎとかかわることによって、それぞれの意味をおび、それぞれの役柄を演じていく。偽善的な演技が真実の顔を隠している考えるのは適当ではない。情事と優越感の系列は真実だから掩蔽されるのではない。むしろ掩蔽されるから、家族の系列よりも真実めいて見えてくるのであり、『家族八景』という小説はその真実生成の瞬間を軽くかすめている。七瀬がエスパーだという設定はこれら三系列を面相の系列に並列的に提示するための工夫であって、心理小説としては明らかに御都合主義な、わざわざ括弧づけされた内話の必然性もここにある。これは心理小説のふりをしたコラージュ小説なのであって、「ビタミン」や「デマ」と同じ種類の小説なのである。

 とはいえ、この割算には余りがでる。面相の系列である。面相は、通常、表情と同一視され、それ自体が問題とされることはない。いや、誰も面相など見はしない。人は心を見透したつもりになって、この表面の存在を忘れさるのだ。だが、ツツイ小説にあっては面相と表情の間に解消不可能な絶対的な間隙が開いている。なぜか? 複数の系列と交渉することで、意味が過剰に生産されてしまったからだ。意味の過剰は意味の乖離を出来させる。妻と娘を同時に誘拐された『虚人たち』の木村のように。彼はマンションで犯されようとする妻と、海岸で輪姦されようとする娘の間できりきりまいし、バイオレンス小説につきものの宙づり状況自体は倍化するどころか、宙につられてしまう。クライマックスは複数化することで、アンチ・クライマックスにひっくりかえる。主人公の切迫した表情は剥がれ落ち、のっぺらぼうの面相がのぞく。

 遍在する自分であるならここで当然娘を助けに行かねばならないということを彼は思い出す。いったん自己の遍在を理由に妻を救出に駈けつけた以上は現在妻を助けているところだからという口実で娘の方だけを見捨てるわけにはいかない。現実には起こりえぬ妻と娘の同時誘拐という設定を追及しはじめたからにはこのような複数のクライマックスすべてに主人公たる彼が立ちあうという荒事も覚悟していなければならなかった筈である。それは現在のクライマックスの重複とは逆に今まで延延と続いてきたアンチ・クライマックスのさなかに充分予想できたのではなかっただろうか。

このようなサスペンスの末端肥大症が表情を剥離させるのである。その時、面相はあらゆる意味をはじいて透過不能の表面、絶対的に不透明な表面としてあらわれるだろう。たとえば、『家族八景』の咲子。七瀬の見た彼女の最初の心象風景。

 そこにあったものは意識の(がらくた)であった。
 風呂場のタイルが落ちかけていること。夕食は牛肉とピーマンの味噌炒め。テレビの垂直同期困難と物置の鍵が壊れて……

咲子の意識は壁にかかった鏡のように周囲のあれこれをとりとめもなく映しているにすぎない。人に対しても同様に──

「父さん。帽子とってやった方がいいよ。明日会社で、ゴルフ焼けだと思ってもらえるからね」
「何をいうか。ゴルフ焼けなどは下っ端の接待係社員がなるもんだ。こっちはもっと大物だよ。大物」
「潤一。おなかが出てきたわよ」
「母さん白髪がありますね。とったげよう。ほら、ね、これ」咲子だけが、何をいわれても返事せず、ただ(笑う顔)を相手に向けるだけだった。

彼女の面相は家族の表情を受けては送りかえす純粋の鏡面にほかならない。それは他の面相のように特定の系列に親和するわけではなく、あらゆる系列からすべり落ちて、なにも生産しない。ただ送られてきた意味が一時滞留するにすぎない。鏡面的な笑みの背後には空虚だけがひかえている。

「ああ。これはいかん。裏側もだいぶいたんでいる。こいつはもう、使いものにはなりませんな」彼はそういって顔をあげ、畳をとりはずしたあとのおれの顔の内部をのぞきこみ、一瞬気味悪そうな顔つきになってすぐにまた畳に眼を落した。

そのような絶句を強いる空隙。意味が目まぐるしく飛びかう空間に音もなく開いた裂目。意味を支える無意味が意味の境位にはいった亀裂からのぞいたのである。亀裂が拡大する時、意味は失語症におちいり、幻影はもはや表面から飛びたつことはない。「多くの文字だけが、無人の繁華街に氾濫」する銀座四丁目へおもむこう。

「構想10年! 製作費五百億! 70mm『大惨殺』絶賛上映中!」「(ミュンヘン)」「SBC/SONY」「サッポロ銀座ビルディング(工事中)」「昨日の交通事故・死亡 4名・負傷 291名」「なぐる! ける! 走る暴力! ローラーゲームは慌楽園アイスパレスへ」「(横断禁止)」

ここでは文字はとめどなく自分自身の上に崩れおちている。荒れ果てた邸宅で情念の黙劇をきりもなく反復する『セリーヌとジュリーは舟で行く』の幽霊たちのように、文字は無言の饒舌を懸命にくりひろげ、宙に向かってなにごとかを訴えかける。それは虚空に凝結した幻影、死の活人画である。

 人びとは、さまざまなポーズをしたマネキン人形のように、町中のいたるところに突立っていた。走っている人間は、両足をながい間宙に拡げたまま、地面から一フィート位の空中に浮かんでいた。犬も猫も、まったく剥製のように、そして車は、ちょうど大パノラマの模型のように、町中にゴロゴロ転がり、散らばって……

そして深夜、七瀬が目撃する意味の流産、

 そこには純白のガウンを着た痩せぎすで長身の菊子が鏡に向かって立っていた。彼女は指先につまんでコンドームを眼の高さにさしあげ、電燈の明りにすかして夫の体液を凝視していた。影が深く、蒼白い顔をした菊子の大きな眼は瞳孔の開きがわかるほどさらに大きく見ひらかれ、その眼の周囲は黒力かった。

あるいは浴室のドアをあけた時、

 彼女は裸のままだった。そして、あきれたことには、等身大の鏡に向かって、立ったままオナニーをしていた。呻き声をあげ、眼を吊りあげ、唇の端からはよだれがわりの機械油をたらたら流していた。

だが、テレビをつけると、

「わはははははははははは」
 達三はまっ赤な口をあけて笑った。テレビ・スクリーンの形に似た、疑似長方形の眼が落ち窪み眼窩の周囲にどす黒い隅が拡がっていた。
「これはテレビなんかじゃない」彼はスクリーンを指さして笑い続けながら、そういった。「これはただの、鏡だ」

ツツイ小説にあってナンセンスとは無意味の意味を認め、意味にとりこむことではない。そうではなく、意味を無意味において受けとめ、意味を脱臼させること。意味にしゃっくりをおこさせることだ。それをツツイ効果といってもいい。

予告

 虚像の戦争──ツツイ・ヤスタカ。今、わたしは何度目かにそう書く。だが、そう書いただけでは、まだなにも書いていないような気がする。

(May 1976 アステロイド 8号)
Copyright 1996 Kato Koiti
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