『ノルウェイの森』は、村上自身が注記しているように、短編「蛍」を長編化したものである。第二章と第三章がほぼ「蛍」そのままで、それに続く中心部分は短編の後日譚にあたっている。
短編として発表ずみの作品を長編化するのは、村上にとってめずらしいことではない。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』がそうだし、『羊をめぐる冒険』もそうだった。いや、『風の歌を聴け』から『ダンス・ダンス・ダンス』まで書きつがれてきたシリーズだって、まるごと短編の長編化と言えないことはない。
だが、この場合は事情が違う。「蛍」は、わたしの見るところ、未決着な作品どころか、村上の短編で最も完成したもののひとつであり、きわめて結晶度の高い作品に思えたからである。まして、
僕は何度もそんな闇の中にそっと手を伸ばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光は、いつも僕の指のほんの少し先にあった。(「蛍」)
と終ったあとに後日譚が続くなど、たちの悪い冗談としか思えなかった。
なぜそう感じたか、今なら説明できる。
すぐれた短編小説は説話的類型を踏んでいるものだが、「蛍」も例外ではない。この作品は禁忌を侵したために最愛の女をうしなうという「犯禁−離別」のプロットを骨子としており、気ままな女の子にふりまわされたという "NORWEGIAN WOOD"との関連を考えるより、夕鶴やオルフェウスの系統の物語と見た方がいい。彼女に去られた後の「僕」の喪失感は、オルフェウスや「夕鶴」のよひょうの自責と諦念に通じるものがあるからだ。
説話性はプロットを支えているだけではない。主人公の前から消え去る娘、後に直子と呼ばれることになる娘の目は「どこにも行き場のない透明さ」を漂わせていたと書かれるが、この不思議な手ごたえのなさは話型の暗示する他界性に由来している。異様に透明だという「彼女」の目が求めているのは、「僕」ではなく、死者の影なのである。「僕」の腕にすがり、「僕」の温もりにくるまれていても、彼女が本当に求めているのは「誰かの腕」、「誰かの温もり」なのだ。直子と呼ばれることになる娘はどこまでも「死んだ友だちの恋人」なのである。
奇妙なことに、そう語りながら、「僕」には嫉妬の感情がすこしも見られない。なるほど、「悲しみ」は感じてはいるが、それはふりむいて欲しい人にふりむいてもらえぬという態のものであって、嫉妬の焼けつくような痛みからは程遠い。東京の町をあてもなく歩きつづける彼女、「虚空の中にことばを探し求めつづけ」るという彼女は最初から半ば他界の存在であり、通常の恋愛の対象ではないのだ。決して手を触れてはならぬ女、その魅惑の前では金縛りになるしかない女が彼女なのである。それゆえ、どんなにいとしく思おうと、「僕」は男女の一線を越えることはできない。それは親友の名前を持ち出すこと同様、生死の境をおかす禁忌だからだ。
だが、彼女の二十歳の誕生日の夜、「僕」はこの禁忌を二つながら犯してしまう。彼女が「僕」の前から姿を消したのは、この侵犯の結果である(少なくとも「僕」はそう了解している)。「そうすることが正しかったのかどうか僕にはわからない。でもそれ以外にどうすればよかったのだろう?」。しかし、そんなことは「死んだ友だちの恋人」と二度目のデートをしたときからわかっていたはずだ。「僕」はそれを承知の上で「犯禁−離別」の物語に巻きこまれていったのだから。そもそも、彼女の「美しさ」はいつ失われるともしれぬ関係の危うさと無縁ではなかった。それは他界に通じる「美しさ」だった。
蛍が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じた厚い闇の中を、そのささやかな光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもさまよいつづけていた。
つうが鶴の女であるなら、彼女は蛍の女であり、阿美寮と名づけられる「山の中の療養所」とは死者の住む山中他界である。彼女の手を触れるのをためらわせるような美しさと「蛍」という短編の結晶度の高さは、この類型性によっているといって差し支えない。
しかし、彼女は "NORWEGIAN WOOD" の気まぐれ娘のように、「僕」を一方的にもてあそび、捨てたといえるのか?
「蛍」にはある隠蔽がある。「僕」は禁忌を犯したがゆえに報いを受けるが、その侵犯行為が、同時に、彼女に対する加害行為でもあることが視野から排除されているからだ。もし黙って去っていった彼女に言葉が与えられたらどうなるのか? 犯禁−離別の物語は、他界の側からはどう見えるのか?
『ノルウェイの森』がリアルな小説だとするなら、「蛍」の説話的完結性から踏み出して、もう一つの視点を取りこまなければならないはずである。村上はそれをどこまで実現したのか?
『ノルウェイの森』は著者自身によって「恋愛小説」と呼ばれ、一般的にもワタナベと直子=緑をめぐる三角関係の物語だと受けとられている。そうだとするなら、この長編はフイッツジェラルドの『夜はやさし』の村上版だといわなければならない。直子と緑の対比は、明らかに、ニコルとローズマリーの対比を下敷にしている。緑はある種の「父親っ子」で、ローズマリーのように生気にあふれて、直子の方はニコル同様、精神を病み、主人公の心の介護を頼りに生きているからだ。しかも村上が好むカウリー版では、主人公とニコルの出会い、ローズマリーの登場、ニコルの症状の増悪という順で話が展開しており、ワタナベの物語との類似は一層際だってくる。
しかし、わたしはそういう読み方にはなじめない。先に触れたように、読めば読むほど、『ノルウェイの森』は三角関係のモチーフとは別のモチーフで出来上がっているように思えてくるからだ。ここには確かに葛藤が描かれているが、少なくともそれは選ぶ=選ばれるという三角関係の葛藤ではあるまい。
「蛍」の「僕」と『ノルウェイの森』のワタナベとの相違は、前者が説話の語り手であるのに対し、後者が聞き手、それも辛抱強い聞き手だという点である。さまざまな人物が彼に打ち明け話をする。直子、緑だけでなく、ハツミ、レイコ、永沢、アルバイト先の友人、そして行きずりの女たちまでがワタナベの耳に秘密を囁きかける。『ノルウェイの森』はおびただしい打ち明け話によって出来上がっている。
何が「蛍」の閉じたストーリーを、おびただしい打ち明け話へと開いたのか?
「蛍」には「死んだ友達」=「彼女」=「僕」という他界へ連なる軸とは別に、もう一つの軸があった。突撃隊=主人公=直子という社会へ係わる軸である。
突撃隊とは主人公と同室の地理学専攻の学生のあだ名だが、男ばかりの学生寮では「異常性格」と見なされるほど禁欲的で、「清潔好き」であり、「僕」の部屋は塵ひとつないほど整理されてしまう。地図が好きでたまらず、地理学を勉強しているというのも、「清潔好き」ゆえにちがいない。
彼は秩序、掟の権化といっていいが、その秩序への固執ぶりには「異常」と感じさせるような強迫性がある。彼はラジオ体操を習慣としているが、運動を自分流にアレンジすることなどできない。秩序を徹底しょうという努力とは裏腹に、彼は自らのよりどころとする秩序に対して、どうしょうもない不適合を感じている。いゃ、不適合があるからこそ、彼は秩序に向って突撃するのだろう。彼は模範生であること、「よい子」であることのパロディ化なのである。
これに対して、直子は逆方向の不適合を示している。彼女はあてどもなく町を歩きまわり、何かを語ろうとするたびに失語状態に陥ってしまう。彼女は地理的秩序からもはずれていれば、言葉的秩序からもはみだしている。彼女は世界を整理し、秩序づけるということが一切できないのだ。しかも、『ノルウェイの森』で明らかになるように、性に関する禁止も欠如している。彼女にあっては、そもそも性というものが排除されているのだ。普通の人間が当り前に受け入れている秩序はえたいのしれぬ桎梏でしかなく、そのような約束の縦横に張りめぐらされた世界を前に、彼女は茫然と立ちすくむほかはない。
不適応 | 直子 | 秩序不信 | 性の排除 |
---|---|---|---|
過剰適応 | 突撃隊 | 秩序過信 | 性の抑圧 |
『ノルウェイの森』はどうか?
突撃隊=「僕」=直子という軸は、永沢という印象的な人物によって一挙に解体される。適応というなら、これほど完璧に適応している人物はいない。突撃隊の適応ぶりなど、永沢の旺盛な適応性の前では臆病なストイシズムにすぎず、以後は、点景人物の一人として背景に退くことになる。
永沢は外交官志望の東大の学生で、頭脳的にも、人望的にも、経済的にも、家庭的にも、性的にも卓越しており、寮長も一目おく存在である。彼の類まれな優越性を支えているのは、異常ともいえる克己心である。彼は外交官試験に受かった後も、新しい外国語の習得にとりかかるし、他人に頭を下げるくらいならナメクジを呑みこむことさえいとわない。
しかし、突撃隊とは別の意味でだが、永沢にも過剰適応の歪みがうかがえる。それは、すべてを「ゲーム」と見なす徹底した人生観と、異常ともいえる漁色にあらわれている。
「知らない女と寝てまわって得るものなんて何もない。疲れて、自分が嫌になるだけだ。そりゃ俺だって同じだよ」
「自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ」
「そうだよ。ゲームみたいなもんさ。俺には権力欲とか金銭欲とかいうものは殆んどない。本当だよ。俺は下らん身勝手な男かもしれないけど、そういうものはびっくりするくらいないんだ。いわば無私無欲の人間だよ。ただ好奇心があるだけなんだ。そして広いタフな世界で自分の力を試してみたいんだ」(『ノルウェイの森』)
こうした言葉からうかがえるのは、外貌とは裏腹の荒涼とした内実である。彼にとっては女性も、外国語も、単なる数の問題でしかない。彼は自己規律の確認のために果てしなく漁色をかさね、外国語を習得する。そこでは、すべては欲望の経済の問題であり、緊張と放出という二元的リズムに還元されている。「可能性」、「好奇心」という語は、彼が口にすると、ひどく空疎に響くが、空疎さこそが重要なのだ。肌をあわせた生身の女を単なる「数」に空疎化すること、その現実存在を否定することが永沢を奮いたたせるのである。永沢の適応とは、秩序を尊重するようでいながら、実は秩序=躾をおとしめるための適応であり、模範生であること、「よい子」であることへの攻撃である。突撃隊の過剰適応が受身のそれだとするなら、永沢は攻撃的な過剰適応にほかならない。
彼は本当に「無私無欲」で、「公平」なのだろうか?
ワタナベはこんな感想をもらしている。
僕は永沢さんが酔払ってある女の子に対しておそろしく意地わるくあたるのを目にして以来、この男にだけは何があっても心を許すまいと決心したのだ。
ふだんは快活そのものの永沢が、時として、えたいのしれない悪意を発動し、女性をいじめぬくというのである。彼は並外れた克己心でも統御しきれない攻撃衝動に突き動かされている。彼は攻撃衝動のゆえに女性をあさり、外国語を食いちらかす。「この男はこの男なりの地獄を抱えて生きている」。
「地獄」を生きているのは、もう一人の漁色家、レイコのピアノの生徒も同じである。彼女もまた「自分の能力を試す」という理由だけのために、「無意味に他人の感情を操」るからだ。
レイコは彼女に翻弄された経験から次のように語る。
「彼女が誰かに対してどう考えても理不尽で無意味としか思えない激しい悪意を抱いていることがわかってゾッとすることもあったし、あまりに勘が良くて、この子いったい何を本当は考えているのかしらと思ったこともあったわ」
「あれくらい頭がよくて美しいのに、それ以上の何が欲しいっていうのよ? あれほどみんなに大事にされているっていうのに、どうして自分より劣った弱いものをいじめたり踏みつけたりしなくちゃいけないのよ?」
「彼女はね、自分自身のためにひっそりと何かをするといった人間なんじゃないんだもの。彼女は他人を感心させるためにあらゆる手段をつかって細かい計算をしてやっていく子供だったのよ」
彼女は美貌にくわえて頭の回転が速く、「人を引きつける天賦の才」をもっているという。母親の視点を想定するなら、永沢同様、きわめつきの「いい子」であるだろう。事実、レイコにとっても最初は「理想的な生徒」だった。だが、彼女は「筋金入りのレズビアン」で、母親ほどに年のちがうレイコを手もなくもてあそんでしまう。
「その子は左手で私の手を握って自分の胸に押しつけて、唇で私の乳首をやさしく噛んだり舐めたりして、右手で私の背中やらわき腹やらお尻やらを愛撫してたの。カーテンを閉めた寝室で十三歳の女の子に裸同然にされて──その頃はもうなんだかわからないうちに一枚一枚服を脱がされてたの──愛撫されて悶えてるなんて今思うと信じられないわよ。馬鹿みたいじゃない。でもそのときはね、なんだかもう魔法にかかったみたいだったの。その子は私の乳首を吸いながら「淋しいの、先生しかいないの。捨てないで。本当に淋しいの」って言いつづけて、私の方は駄目よ駄目よって言いつづけてね」
レイコは「犠牲者として私を選んだのか、それとも何かしらの救いを求めて私を選んだのか」、わからないと述懐している。おそらく、彼女の直感は正しい。淋しい、捨てないでくれ、乳首を吸わせてくれという訴えと、彼女を弄び、破滅させたいという衝動は矛盾するものではない。レイコは愛憎の交錯する転位感情の標的にされたのだ。
『ノルウェイの森』では、なぜ、卑劣な人間、「地獄」をかかえた人間とされる永沢やレイコの生徒にあれほどの紙数がさかれるのか? クリステーヴァは自己の成立時に外へ放逐したもの、自己および自己をささえる「掟」を根本から脅かすものを「異象」(abject)と呼び、すべての犯罪者は異象だが、偽善者は「掟」を根本的に疑わしくさせる点において、より一層異象であると言っている(『恐怖の権力』)。突撃隊は自己規律をパロディ化することで多少とも異象であったが、永沢やレイコの生徒は、みごとなばかりの偽善性と、それと表裏するみじめさによって異象そのものである。彼らがおぞましくも魅惑的に立ち現れるのは、彼らがワタナベの陰画であり、目をそむけたい暗部を代表する人物だからなのだ。
彼らの異象性は性と不可分である。彼らは身体を完璧に自己統制することによって、性の勝利者となっているが、それは性=身体そのものが異象であるということでもある。いうまでもなく、性=身体が異象であるからこそ、自己規律が必要になるのだ。
直子は阿美寮に訪ねてきたワタナベにこう言っている。
「たぶん私たち、世の中に借りを返さなくちゃならなかったからよ」と直子は顔を上げて言った。「成長の辛さのようなものをね。私たちは支払うべきときに代価を支払わなかったから、そのつけが今まわってきてるのよ。だからキズキ君はああなっちゃったし、今私はこうしてここにいるのよ。私たちは無人島で育った裸の子供たちのようなものだったのよ。おなかがすけばバナナを食べ、淋しくなれば二人で抱きあって眠ったの。でもそんなこといつまでもつづかないわ。私たちはどんどん大きくなっていくし、社会の中に出ていかなくちゃならないし」
直子の不適応の本質は自己規律=「掟」に拒否を示していることにある。永沢とレイコの生徒が過剰適応の極にいるとすれば、直子は不適応の極にいる。自己規律=「掟」を自分のものと出来ない彼女は「秩序」無しで世界や身体に直面しなければならない。地図のない街が豊饒=混沌であるように、自己規律のない身体は恐るべき豊饒=混沌である。直子は圧倒的な身体の反応に立ちすくみ、自分が「バラバラにな」りそうな恐怖に襲われる。彼女はどうしても性を受け入れることができない。性の豊饒は彼女を恐慌におとしいれる。彼女は「吐く」ように泣く。
レイコも同じだ。彼女はコンクールを目前にして指が動かなくなり(最初の入院)、生徒の挑発には手もなく「濡れて」しまう(再度の入院)。彼女の発症の契機は、いつも身体である。彼女の身体は彼女の意に反してピアノを拒否し、彼女を裏切って少女の愛撫を待ち望む。身体こそが異象であり、目をそむけたいものなのだ。
しかし、物語の上で七年という時間を置いた後、村上の文章はレイコに身体という混沌を十分言語化させている。彼女は繰り返しためらっているが、自分の身体の混沌に表現を与えることに成功している。表現できたからこそ、彼女は「感情を外に出す」ことができ、ひいては秩序を確立することができた。彼女は狂気をジョークにさえする。
「でも夜になると駄目なの。夜になると私、よだれ垂らして床中転げまわるの」
「本当に?」と僕は訊いた。
「嘘よ。そんなことするわけないでしょ」と彼女はあきれたように首を振りながら言った。「私は回復してるわよ、今のところは」
「まさかあなた誰かがすっと立ちあがって「今日は北極熊がお星様を食べたから明日は雨だ!」なんて叫ぶと思ってたわけじゃないでしょう?」
しかし、狂気をジョーク化できるからといって、彼女が外部の目を恐れていないということにはならない。精神に傷を負った人間として、彼女は外部の目が自分をどう見ているか痛いほど承知しているはずだし、承知しているからこそ、ことさらジョーク化しなければならないのである。機知とは、フロイトの言うように、不安の転化なのである。そして、言語によって転化し、散らせる限り、彼女は「正常」でありつづけることができる。
緑のセックス・ジョークも、この文脈の中で考えるべきだろう。彼女は十八歳の娘としては過酷な境遇にいるが、セックス・ジョークを連発することができる限り、そしてその尻ぬぐいをしてくれる相手がいる限り、「正常」でありつづけることができる。
彼女たちにとって、本当に「怖いのはそれが出せなくなった」時、「感情が体の中にたまって固くなった」時である。事実、直子は手紙も書けず、会話もできなくなった後、最期の決断を下した。
直子の言語表現は、最も回復し手紙が書けた時も、ある偏りを示している。
「私は自分があなたに対して公正ではなかったと思います。そしてそれでずいぶんあなたをひきずりまわしたり、傷つけたりしたんだろうと思います。でもそのことで、私だって自分自身をひきずりまわして、自分自身を傷つけてきたのです。言いわけするわけでもないし、自己弁護するわけでもないけれど、本当にそうなのです。もし私があなたの中に何かの傷を残したとしたら、それはあなただけの傷ではなくて、私の傷でもあるのです。」
彼女はひどく自罰的になっている。自分がワタナベを傷つけたのではないか、これから傷つけるのではないかという疑念におびえ、そういう攻撃性を潜在させている自分、混沌としての自分を罪あるものと断罪している。
「公正」に見るなら、傷つけられたのは彼女の方であって、ワタナベは一方的に責められたとしても仕方なかったはずである。しかし、彼女はワタナベを責めない。ワタナベに見捨てられるのが何よりも怖く(「あなたに憎まれると私は本当にバラバラになってしまいます」)、本来他者に向けるべき攻撃性を自分自身にむけ、自分自身をさいなんでいるからだ。彼女は自分自身を言葉で切刻んでいる。それは言葉による自傷行為に等しいが、その言葉さえも失った時、彼女は自らの命を絶つのである。
緑の言葉とのつきあい方は、正反対に見える。彼女は相手の怯むのも頓着せず、むしろそれを楽しみながら、思う存分セックス・ジョークを吐き出すことができたし、また、黙りこむことによって、ワタナベを威嚇しさえした。緑は無邪気なセックス・ジョークがコケットリーの表現となることを知っており、甘えに身をまかせることもできた。
しかし、全面的に身をゆだねているわけではない。彼女はいつでも身をかわす用意をしている。彼女はあの手この手でワタナベを試す。とっぴょうしもないウソをつき、手のこんだカマをかけ、アテウマを使い、強がりをいい、冗談と見せかけた真剣さで彼の本音を探ろうとする。彼女の生気あふれる応対は読ませどころの一つだが、これとて愛情欠損に由来しているのだ。「私これまでの人生で十分に傷ついてきたし、これ以上傷つきたくない」というわけである。しかし、そう言葉に出来るだけ緑の欠損は浅い。直子の場合は言葉以前の段階にまでおよんでいる。
その差はワタナベを射精に導く仕方に端的にあらわれている。
「出してあげようか?」
「手で?」
「そう」と直子は言った。「正直言うとさっきからそれすごくゴツゴツしてて痛いのよ」
……
直子が手を動かそうとするのを僕は止めて、彼女のブラウスのボタンを外し、背中に手をまわしてブラジャーのホックを外した。そしてやわらかいピンク色の乳房にそっと唇をつけた。直子は目を閉じ、それからゆっくりと指を動かしはじめた。
「なかなか上手いじゃない」と僕は言った。
「いい子だから黙っていてよ」と直子が言った。
直子は「僕」に身体を触れさせているとはいえ、「僕」の愛撫を愛撫として受けとっていない。ワタナベの体は、愛撫の一方の極どころか、「ゴツゴツした」物体としか認知されていない。彼女は性の興奮というものが了解できないのだ。彼女の手の行為は、性愛の循環を断ち切った一方的な施しであり、気の入らない機械的動作にすぎない。だから、終れば、「これで少し楽に歩けるようになった?」と平然と聞くことができるし、本題の姉の死に話題を移すこともできる。このような能動的立場の保持は仮装された形での攻撃性の発動でもあるかもしれない。彼女は「濡れない」女だというが、逆の場合を考えれば明らかなように、相手を傷つける手ひどい拒否でもあるからだ。
緑の導き方は対照的である。
「どのくらい好き?」と僕は訊いたが、彼女は答えなかった。そして答えるかわりに僕の体にぴったりと身を寄せて僕の乳首に唇をつけ、ペニスを握った手をゆっくりと動かしはじめた。……
「ねぇ、ワタナベ君、他の女の人のこと考えてるでしょ?」
「考えてないよ」と僕は嘘をついた。
「本当?」
「本当だよ」
「こうしてるとき他の女の人のこと考えちゃ嫌よ」
「考えられないよ」と僕は言った。
「わたしの胸かあそこ触りたい?」と緑が訊いた。
緑は能動の側にいるにとはいえ、受身の性としての自分を受け入れている。そして、受身の性の常として、相手の心を独占しょうと気遣っている。緑は受身の不安に耐え、彼の欲望にすがっているのである。彼女がセックス・ジョークを連発しなければならないのは、そのためだ。
不適応 | キズキ | 自罰的行動化 | 性の排除 |
---|---|---|---|
直子 | (同) | (同) | |
半適応 | レイコ | 言語化 | 性のジョーク化 |
緑 | (同) | (同) | |
過剰適応 | 生徒 | 他罰的行動化 | レズビアン |
永沢 | (同) | 漁色 |
『ノルウェイの森』の登場人物はすべて言語−異象との関係において布置されている。直子と緑の対比はこのような布置の一部にすぎない。
しかし、一度だけとはいえ、直子は性の身体を受け入れたのではなかったか?
「私、あの二十歳の誕生日の夕方、あなたに会った最初からずっと濡れてたの。そしてずっとあなたに抱かれたいと思ってたの。抱かれて、裸にされて、体を触られて、入れてほしいと思ってたの。そんなこと思ったのってはじめてよ。どうして? どうしてそんなことが起こるの? だって私、キズキ君のこと本当に愛していたのよ」
この告白はわれわれを戸惑わせる。それはあえかで控え目な娘として語られてきた直子が、突如、欲望の主体、性の言語の主体として現れるからだが、先に描かれた一夜の後味の悪さが免罪され、その異象性が糊塗されようとしている点も見過ごしに出来ない。自分が無理矢理禁を犯したわけではない、直子もそれを望んでいたというわけだ。
その夜のことは次のように書かれていた。
全てが終ったあとで僕はどうしてキズキと寝なかったのかと訊いてみた。でもそんなことは訊くべきではなかったのだ。直子は僕の身体から手を離し、また声もなく泣きはじめた。僕は押入れから布団を出して彼女をそこに寝かせた。そして窓の外を降りつづける四月の雨を見ながら煙草を吸った。
朝になると雨はあがっていた。直子は僕に背中を向けて眠っていた。あるいは彼女は一睡もせずに起きていたのかもしれない。起きているにせよ眠っているにせよ、彼女の唇は一切の言葉を失い、その体は凍りついたように固くなっていた。僕は何度か話しかけてみたが返事はなかったし、体もぴくりとも動かなかった。
この直後、ワタナベは「君が落ちついたらゆっくりと話がしたいので、近いうちに電話をほしい、誕生日おめでとう」と書き残し、彼女を置き去りにするのである。
直子の告白との印象の差は単なる視点の相違だろうか? 直子を傷つけたと自責すること自体が男の傲慢さの現れにすぎなかったのか? 本当はイニシアチブをとっていたのは直子の方で、ワタナベはいいようにあしらわれたというわけだろうか?
しかし、その夜が彼女にとって幸福な一夜でなかったことは、後の経過が明白に語っている。性の身体を受け入れた直後、直子は言語そのものを失ってしまったのである。
当の箇所に続いて、不毛な漁色のエピソードが語られているのは意味深長である。
六月に二度、僕は永沢さんと一緒に町に出て女の子と寝た。どちらもとても簡単だった。一人の女の子は僕がホテルのベッドにつれこんで服を脱がせようとすると暴れて抵抗したが、僕が面倒臭くなってベッドの中で一人で本を読んでいると、そのうちに自分の方から体をすりよせてきた。もう一人の女の子はセックスのあとで僕についてあらゆることを知りたがった。これまで何人くらいの女の子と寝たかだとか、どこの出身かだとか、どこの大学かだとか、(……)とにかくもうありとあらゆる質問をした。僕は適当に答えて眠ってしまった。
ワタナベの行為の後味の悪さは、ここでも女の側の欲望によって免罪されている。自分はどうでもよかった、女が望んだからつきあっただけだ、けがらわしいのは女の方で、自分は潔白だというわけである。永沢という鏡によって浮かび上がったワタナベの異象性は、またしても女の欲望という異象によって隠蔽される。しかし対し方そのものの加害性についていえば、直子との一夜も行きずりの女との一夜も本質的に変るところがない。そして、変らないからこそ、同じような弁明が必要になるともいえる。「愛」という言葉はこのような文脈で登場するのである。
『ノルウェイの森』という小説は「体の中にたまった」感情の汚物をいかにして吐き出すかをめぐる物語である。この小説の登場人物は吐瀉=排泄にかかわる言葉で了解されている。親友の死は「空気のかたまり」となって「身のうち」にたまり、直子は「吐くような格好で泣」き、レイコの生徒は「バケツ三杯分くらいの嘘をつく」のだし、緑の父親の周りには「ロバのウンコ」がごろごろし、ワタナベのペニスは糞柱のように「固くて大きい」のである。チャンドラー的な奔放な比喩は、この小説に限り、排泄のテーマの周囲を回転している。(注)
フロイトの発達図式を消化器モデルで理解することを提唱する北山修は、次のように書いている。
未消化物を体内から反射的に放り出す未消化物放出反射は、清潔な文明との出会いによって、物質としての未消化物は保持し、また処理しながらも、割り切れない気持ちの高まりとしての未消化物放出衝動を残す。そして、より以上の清潔を要求する文明は、生活の便宜のために、われわれの未消化物の処理を物質的な水準で可能にするが、同時に、気持ちの吐け口にはならず、心は自らをその破綻から守るために、「自己防衛」の神経質や「防衛機制」としての未消化物放出機制を際立たせることになる。(『心の消化と排出』)
さらに、北山によれば「話す」ことは「放し」、「離す」ことだという。
わたしは、以前、村上の主人公の「母親代わり」の処し方が、依存することの不確かさを回避するための防衛機制であり、攻撃性の発動だと書いたが(「死者たちの贈り物」)、『ノルウェイの森』も基本的には同様である。この小説の後半の緊迫感には目ざましいものがあるが、それはワタナベの演じた卑劣な役割と無関係ではない。彼は「責任」の名のもとに直子を追いつめ、死を余儀なくさせていったからだ。
人生の旅半ばの年齢で回顧するという趣向によって盲点化されているが、ワタナベの加害性は覆いようもない。彼は緑に対しても「無神経」な恋人だったが、反撃するすべのない直子に対しては無神経を通りこして、残酷である。たとえば、彼は緑とのデートの模様を逐一直子に書き送っている。彼を信じようと努力し、彼への信頼を手がかりとして世界との基本的な関係を再建しょうとしている彼女にとって、これがどんなに致命的なことか。ワタナベの二回目の訪問の後、快方に向ったかに見えた症状がにわかに増悪するのは偶然ではない。この時の訪問がひどくそっけない書き方しかなされていないことも、小説技法上、きわめて効果的である。あの緩叙法の叙述は、ワタナベの心がすでに緑にむかっており、直子は視野の外に追いやられていたということを裏側から示しているのだ。もちろん、心の病によってただでさえ被害的になっている直子が、この変化に気がつかないはずはないし、緑に対して残酷だったことを反省できる37歳時点での主人公が、そのことに盲目であるはずもない。
つまり、これは未必の故意ではあっても、三角関係の葛藤と呼ぶことはできない。『夜はやさし』のディック・ダイバーはニコルを選ぶか、ローズマリーを選ぶかの選択で身をすり減らしたが、ワタナベにはそのような苦悩はない。彼は気がついた時には緑を選んでおり、直子に対しては「責任」しか感じなくなっていたからだ(直子は「重荷」という言葉を使っている)。そして、その「責任」を果たすために「穢れ」をはらう旅で自分を罰し(彼が行き着いた土地は出雲らしい)、母親が死んだと「反射的」に嘘をつき、「母親ほどに」年齢の違うレイコを形代に和解の儀式を演ずるのである。
額縁をも含めてプロットを概観するなら、彼は自分自身のわだかまり、愛とも憎しみともつかぬ混濁物を吐き出すために、この自責の劇を演じたのだと言っても差支えないだろう。女性たちの未消化な感情の受手であったワタナベは、彼自身、吐瀉すべき感情の塊を抱えていた。「無意味に他人の感情を操」り、「理不尽で無意味としか思えない激しい悪意」を皮膚の下にわだかまらせているのは、彼もまた同じなのだ。直子の側から見るなら、彼もまた永沢やレイコの生徒と同様のみじめな偽善者であり、彼の盲点化された意識の空白で脈打っているのは、転位対象を破壊しつくさずにはおかぬ傷ついた者の衝動である。
「蛍」の「死んだ友だちの恋人」は直子として再生したが、単に他界へ去る女から、「濡れない」ことで世界への拒否を身体化した女への転換は、「理不尽で無意味としか思えない激しい悪意」への注目と軌を一にしている。『ノルウェイの森』とは直子を追っての冥府下りであり、自らの悪意を反芻する作業であると同時に美しい皮膚の下から腐肉を剔抉する作業である。
何が腐っているのか? 村上的主体の悪意が穢し、破壊しようとしているのは何なのか?
村上が冥界下りをこころみたのは、『ノルウェイの森』が最初ではない。「街と、その不確かな壁」で、すでに冥府へ降りているのだ。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の原型となったこの短編で、「君」と呼びかけられる死んだ娘をさがし、「僕」は「高い壁」に囲まれた「街」へとおもむいている。もっとも、オルフェウスやイザナギの場合とはいささか事情が違う。オルフェウスやイザナギの冥府行は、ただひたすら恋人恋しさゆえの行動だったが、「僕」の旅は「ことば」の告発にうながされてのもの、強いられてのものだからだ。
ことば。
お前はずっと昔に死んだはずだ。僕はお前が最後の息をひきとるのをきちんと見届けてから、土におそろしく深い穴を掘り、そこにお前を埋めた。そして作業靴の底で地面をしっかりと踏んで固めた。しかし十年の歳月の後に、ことばは甦った。まるで食屍鬼のようにことばは墓を押し開け、闇とともにその姿を僕の前に現した。
無というものは偽善だ、とことばは僕に言う。お前にそれがわからんわけもなかろう。深い土の底から僕を呼び起こしたものがあるとすれば、それはお前の中の偽善だ。(「街と、その不確かな壁」)
この「ことば」とは「君」にまつわる言葉であり、「君」の死とともに記憶の底深く埋葬したはずの想い出にほかならない。「僕」はその「ことば」を忘れ、「君」を忘れた。ところが、「ことば」は甦り「僕」の日常を「偽善」と告発する。彼女を見捨て、忘れ、痛痒も感じないとは、たいした偽善者だ。いくら自分をだましたつもりでも、お前の体には死臭がぷんぷんする。お前は彼女をいいように利用した。お前は彼女の屍肉を食ったも同然だ。そんなお前など、誰が相手にするか。墓石もなく埋葬されたという「ことば」は、彼女になりかわって「僕」の忘却を告発している。「君」への想いは初めから罪責感と表裏しているのだ。「君」をもとめての冥府行はいやでも罪責感を確かめる旅となる。「僕」はどんな裏切りを犯したというのか。
「街」を教えてくれたのは死んだ娘だと「僕」は語る。
君が僕に街を教えてくれた。
「街は高い壁に囲まれているの」と君は言った。「広い街じゃないけれど、息が詰まるほど狭くもない」
このようにして街は壁を持った。
君が語りつづけるにつれて街は一本の川と三本の橋を持ち、見捨てられた鋳物工場と貧しい共同住宅を持った。夏の夕暮の淡い光の中で、僕と君は肩を寄せあうようにその街をじっと見下ろしていた。
本当の私が生きているのは、その壁に囲まれた街の中、と君は言う。でも十八年かかったわ、その街を見つけだすのに。そして本当の私をみつけだすのに……
「街」の詳細については立ち入るまでもあるまい。その「街」は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「街」にそっくり引き継がれており、同じように美しい川が流れ、りんごの木が繁り、一角獣が歩きまわっている。「街」の生活は時計仕掛のように規則正しく、冬になると一角獣は半数が飢えのために死ぬ。秩序というなら、これほど完璧な秩序はない。ただし、その完璧さは「暗い心」、「弱さ」、「腐臭」を切り捨てた結果としての完璧さであり、影と一角獣の犠牲によってかろうじて保たれた「永遠」、「完全」、「永久機関」、つまりは疑似的な秩序、疑似的な完全性だという。「街」に住む人々は「影」を見殺しにすることにより、「暗い心」ばかりか「心」そのものを喪失し、死者にも等しい平安さの中で暮らしている。
しかし、自分の「影」や「暗い心」、「心」そのものを切捨てたところで、このオモチャ箱のような世界が出来上がるわけではないだろう。この世界で本当に排除されているのは別のもの──他者性である。「影」、「暗い心」、「心」といっても、それは他者との力動的な係わりにおいて生じるものである以上、それらを決定的に放逐するためには、まず他者性を排除しなければならないからである。ナルシシズムの王国は他者性の否定の上にはじめて築かれる。「世界の終わり……」の図式を待つまでもなく、「街」とは自閉的な全能空間であり、そこに住むという「死んだ恋人」も他者性を剥奪された生命の抜け殻にすぎない。
「街」、「壁」の全能性がこのようなものであるなら、「街」を捨てるかどうかという選択は、『羊をめぐる冒険』の主人公の選択とかさなる。
「君を失うのはとてもつらい。しかし僕は君を愛しているし、大事なのはその気持ちのありようなんだ。それを不自然なものに変形させてまでして、君を手に入れたいとは思わない。それくらいならこの心を抱いたまま君を失う方がまだ耐えることができる」(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)
「街と……」ではこの言葉のとおり、「僕」は壁の外へ脱出するが、「世界の終り」では逆に街を選ぶ。『羊をめぐる冒険』の結末はくつがえされたのだろうか? 村上の作品史になにか決定的な転回があったのだろうか?
数年をおかずして書かれた作品で結末が逆転するというのも奇妙だが、もっと奇妙なのは、選択が逆転したにも係わらず、読後感がまったく変っていないことである。当然だろう。「ことば」に告発されながら生きるのも、「森」の過酷な境遇の中で暮らすのも、自分を罰し、「弱さ」「不完全さ」を自分の不可欠な一部として受け入れる点では同一なのだから。問題は街を出るか出ないかではなく、いかにして自分を罰するかにある。
彼女のためだろうと、「不自然」な「街」にとどまることは、「羊」の誘惑に屈することにもひとしい卑劣な選択だ。先の決意はそう言っている。もっとも完璧なはずの「街」はもっともみじめなものに、もっとも公正だったはずのものはもっとも卑劣なものに一変している。彼は他者性を放逐しようとしたがゆえに、より一層他者性の葛藤のうちに巻きこまれるのだが、それにしても、なぜ、その選択は「彼女」の名のもとに下されなければならないのか? 自閉的な秩序の是非と「彼女」への愛が、なぜ、結びつけられなければならないのか? なぜ、村上的主人公は、こうまで自分を罰することにこだわるのか?
それは、おそらく、自閉的な秩序の成立にあたって排除されたものが「彼女」だからである。あるいは、「彼女」こそが排除されたもの、起源に位置するもの、彼を形造った者の集約的な表現だからである。
「蛍」の女は「僕」から何かを持ち去ってしまった。その何かを確認し、取り戻すために、「僕」は白木の家具の部屋を出なければならなかった。異象の森に踏み迷い、冥界めぐりを敢行しなければならなかった。永沢やレイコの美貌の生徒に大きな紙幅がさかれるのは、彼らこそが冥府の住人だからだ。彼らの美しい皮膚の下では、愛を拒まれたものの傷が膿瘍となり、じくじくと血膿を流している。
おそらく、村上の小説で肯定的に描かれる女性がひとしなみに「短い髪」と「男の子のような細い腰」をもっているのは偶然とか嗜好の反映とかによるものではない。その好尚は「濡れない」ということに形象化された不毛さの選択ともかかわる。双子の増殖が不毛な増殖であるように、結合から遠ざけられた女、直子は、起源の存在であるにもかかわらず、豊饒さの否定、女という異象の放逐のしるしとして、村上的世界の中心に人柱のように埋められている。
「僕」が冥府で出会ったものは、拒絶と憎しみだけだったのか。
「僕」はハツミの想い出によせて、こう述懐している。
世界中のすべてが赤く染まっていた。僕の手から皿からテーブルから、目につくもの何から何までが赤く染まっていた。まるで特殊な果汁を頭から浴びたような鮮やかな赤だった。そんな圧倒的な夕暮の中で、僕は急にハツミさんのことを思いだした。そしてそのとき彼女がもたらした心の震えが一体何であったかを理解した。それは充たされることのなかった、そしてこれからも永遠に充たされることのないであろう少年期の憧憬のようなものであったのだ。僕はそのような焼けつかんばかりの無垢な憧れをずっと昔、どこかに置き忘れてきてしまって、そんなものがかつて自分の中に存在したことすら長いあいだ思いださずにいたのだ。(『ノルウェイの森』)
その「無垢な憧れ」の向かうところは、幼児のナルシスティックな自閉空間でもなければ、「愛」という名の傷つけ合いをくりかえす他者の空間でもない。それは両者の中間、子供から大人へと移行する特権的な時期にのみありうる、世界との最初の出会いの空間にほかならないだろう。だから、近作『ダンス・ダンス・ダンス』で、村上がこの特権的な時期の少女を副主人公に選んだのは必然なのである。
しかし、『ダンス・ダンス・ダンス』が成功しているとは思わない。『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」は、年齢差と少女の明白な欠陥両親という条件のおかげで(通俗性も含めて「初秋」そのままだ)、あまりにも安全な位置に安住してしまっている。これまでの村上には見られなかった冗漫な仕上がりは、この安全すぎる位置のゆえだろうし、ユキに対する一方的な保護者的態度は小説的感興をよほど薄いものにしてしまっている。「現実だ、僕はここにとどまるのだ」と主人公は何度もつぶやくが、わたしはこのつぶやきにリアリティを感得することができなかった。村上は「煉獄篇」をもう一度書く必要がある。
千石英世氏は「アイロンをかける青年」(nov 1988 群像)で村上的主人公の言葉使いがカタカナ語と翻訳の模倣によって覆われている事態を「アメリカニズム」と呼び、この「過剰包装」的言語が登場人物を追いつめたとしている。さらに、村上の小説が江藤淳の「自由と禁忌」の射程内にあって、戦後日本の金縛りになった言語空間の中に閉じこめられていることを暗示しているが、村上の比喩の使用が、チャンドラーの明白な影響下にある以上、千石氏のように「アメリカニズム」と呼ぶことは妥当だと思う。しかし、「アメリカニズム」と呼はれるジョーク化が、村上的人物を破滅から救っている点は無視できない。「過剰包装」は人をあざむくかもしれないが、真実を隠蔽してもくれるのである。