秋山駿は近代文学の二大テーマは「恋」と「犯罪」だが、日本には「恋」をあつかった傑作が多いのに、「犯罪」には第一次戦後派が登場するまでほとんど手も触れなかった、これは「日本近代文学七不思議の一」だと指摘している。
学生時代、ミステリ系のサークルに所属し、殺人の出てくる小説の話に明け暮れていた身としては、江戸川乱歩や中里介山、国枝史郎はどうなのだと反問したくなるが、乱歩も中里も国枝も通俗作家と見なされ、つい最近まで「文学」の範疇から排除されてきたことを考えると、秋山の指摘は重要な点を衝いているといえる。
秋山は「恋」と「犯罪」という言い方をしているが、「不倫」と「殺人」といった方が適切だろう。最初の近代小説といわれる『クレーヴの奥方』以来、『ボヴァリー夫人』、『アンナ・カレーニナ』、『チャタレイ夫人の恋人』と、恋愛小説の歴史は即、不倫小説の歴史だったし、「犯罪」についても、『罪と罰』、『獣人』、『テレーズ・デスケイルー』、『異邦人』と、「殺人」を主題とした傑作が頭に浮ぶ。
不倫と殺人が小説の特別なテーマとなってきたのは、性と死という最もデリケート部分に直接触れるからだ。あってはならない関係を作りだすか、ありつづけるはずの関係を消滅させるかという違いはあるにせよ、社会の秩序を揺るがす点では変わりはない。
近代日本社会が他国と較べて殺人がすくなかったかどうかはわからないが、世を騒がせた事件ならいくらでもあげることができる。殺人をあつかった文章は夥しく書かれたし、黎明期の新聞の最大の売物は猟奇殺人の実録だった。ただ、ノンフィクションとフィクションとに係わりなく、そうした文章はまっとうな「文学」とはみなされなかった。
わたしが不勉強なだけかもしれないが、「文学」の範疇にはいるとされた近代小説の中で、殺人犯を主人公にした小説は横光利一の『寝園』くらいしか思いつかない。この作品とて被害者は最後には命を取りとめていて、殺人未遂を犯したヒロインは、自分が故意にやったのか、単なる事故だったのか、確信がもてずにいるという「藪の中」的結末に着地している。『寝園』は傑作だと思うが、人殺し小説としてはおよび腰といわざるをえない。
第一次戦後派が登場するまでの近代日本文学では、なぜ人殺しはまっとうな小説のテーマとはみなされなかったのだろうか?
近い原因としては、私小説的な文学観の支配が考えられる。不倫を体験したことのある小説家はたくさんいたが、人を殺したことのある小説家は、永山則夫が登場するまでは一人もいなかったのである。
遠い原因としては、日本的な物語は最初から不適切な男女関係に敏感だったということがあげられるかもしれない。物語の祖である『竹取物語』は、結婚してはならない月の世界から来たお姫様に貴公子たちが求婚する話だし、『伊勢物語』は禁断の恋と滑稽な恋(どちらも不適切な関係)の話ばかりである。『源氏物語』が父帝の妻を奪った主人公が、晩年にいたって、自分の妻を奪われる話であることはいうまでもない。王朝物語がある種のすりこみとなったのか、王朝物語そのものがより深い文化的趨勢のあらわれなのかはわからないけれども。
現在はどうだろう。
不倫はもはや日常化してしまい、小説の特別なテーマではなくなったが、人殺しは依然としてスキャンダラスであり、社会秩序を解体しかねない脅威である。この数年、おぞましい事件が次から次へと報じられている。殺人の件数自体はあまり変わっていないといわれているが、新たな事件が起こるたびに、残虐性が徐々にエスカレートしているように見えるのが不気味だ。
たとえば、世田谷で一家四人が自宅で殺される事件があった。その三年後に福岡で類似の事件が起きたが、一家四人が皆殺しにされただけではなく、死体は顔が見わけがつかなくなるほど損壊され、ダンベルをくくりつけられて海に沈められている(後に犯人は中国人留学生とわかる)。酒鬼薔薇事件として知られる神戸の事件では、十四歳の少年が小学校高学年の児童三人を殺傷し、社会に衝撃をあたえた。十四歳でも驚きなのに、その六年後に長崎で起きた事件では、十二歳の少年が四歳の男の子を全裸にし、ハサミで性器を傷つけてから、六階建相当の駐車場の屋上の手すりに立たせ、突き落としている。
こうした世相を反映してか、今日日の書店に行くと殺人を題材にした小説がずらりと並んでいる。第一次戦後派で殺人を描いたのは椎名麟三、武田泰淳、大岡昇平くらいだが、現在の小説家の多くは人殺し小説に手を染めている。殺人は恋愛以上に日本の小説の重要なテーマとなっているのだ。
恋愛から殺人への関心の移動は「心の闇」という言葉の用法の変化からもうかがえる。
残虐な殺人事件が起こると、新聞雑誌には「心の闇」という見出しが踊り、TVではレポーターやコメンテイターが「心の闇」と連呼する。今日、「心の闇」は異常心理という意味で使われているが、もともとは王朝時代に生まれた由緒正しい言葉である。『伊勢物語』六九段の
かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは世人さだめよ
の「心の闇」とは恋に惑う心。
『源氏物語』の靫負命婦が桐壺の更衣の母を訪ねた条の
暮れまどふ心の闇も堪へがたき片端をだに、はるくばかりに聞こえまほしうはべるを、私にも心のどかにまかでたまへ。
は子を思って乱れる心。
「心の闇」とは恋人を思い、子を思うという人間的な感情が極まって惑乱した状態を指すが、この状態は了解することも、共感することも可能だった。ところが、現代では「心の闇」は共感も了解もできない異常心理を指す言葉になってしまった。
恋から人殺しへという「心の闇」の用法の変化は酒鬼薔薇事件の後に一般化したらしいが(注1)、短期間に広く受けいれられたのは一見、普通に見えながら、なにをするかわからない人間がいるという不安を、「闇」という語が言い当てていたからだろう。
『罪と罰』でも『マクベス』でも『異邦人』でもいいが、殺人を描いたすぐれた文学作品は、読者を主人公の異常な心理状態に共感させ、彼らもまた人間であり、人間にはこういう深淵があるという洞察に導いてきた。今日の小説は「心の闇」と呼ばれるようなケースを共感可能にすることができるだろうか?
共感の可能性を、まず、動機の面で考えてみる。
まず、動機のある殺人である。古典的な人殺し文学では、貧困と野心という動機が重要な役割をはたしてきた。読者は貧困と野心をよく知っていたので、それを手がかりに主人公の異常と見える行為でも了解・共感することができた。ゾラの小説では遺伝的異常性が主人公を殺人やアルコール中毒、売春に追いやるように書かれているが、ゾラの依拠した一九世紀の遺伝学が幼稚で、なんの根拠もないことがあきらかになった今日でも、作品が圧倒的な迫力をもちつづけているのは、そこに描かれた貧困の現実感ゆえであろう。また、魔女を信じる者がほとんどいなくなった現代でも『マクベス』が上演され、感動を呼ぶのは、マクベス夫婦の野心が現代の観客にも共感できるものだからである。『罪と罰』のラスコーリニコフにいたっては、貧困と野心の両方をかねそなえている。
貧困と野心は重要な動機だったが、現代の日本では説得的ではない。現代日本にも貧困は存在するし、野心もなくなったわけではないが、前者は知能の低さなど医学的な問題になってしまっているし、後者も価値観が多様化している社会では趣味の問題になってしまって、了解はできても共感するところまではいかない。
むしろ怨みや嫉妬といった被害感情の方が、殺人の動機としては共感をえやすい。テレビの二時間ドラマでは、極悪非道と見えた犯人が実は可哀想な被害者だったことが最後に種明かしされ、視聴者の同情心をかうというパターンがよく使われる。今日の殺人の動機としては被害感情が一番無難だろう。
第二に医学的な原因による殺人である。動機のある殺人は共感できるかどうかはともかく、了解することはできるが、病いによる殺人は了解のしようがない(注2)。
動機による殺人が心理的・経済的な因果関係で説明されるのに対し、病いによる殺人は医学的因果関係で説明される。前者は探偵小説と裁判、後者はホラー小説と精神医学(注3)の領分といえる。
動機のある殺人と医学的な原因による殺人の二つですべての殺人がつくされるわけではない。両者の中間にはグレイゾーンが存在するだろう。この中間地帯を「動機なき殺人」の領域と呼んでみたい。
「動機なき殺人」という言葉を文学の問題として最初に用いたのはアンドレ・ジッドである。『法王庁の抜け穴』にラフカディオという虚無的な青年が登場するが、彼は列車の中で、突然、殺人を思いつき、同室の男をいきなり窓から放りだしてしまう。ジッドの「動機なき殺人」は、因果律に縛られた伝統的な小説の書き方に一石を投じようとした試み(「アンチロマン」)の一つであって、実験のための実験にとどまる。人間性の深層を探ろうなどということではまったくないが、因果関係を括弧に入れても、小説が書けるということを実証してくれた意義は大きい。
動機なき殺人の領域は広大だが、そのうち、動機ある殺人に寄った部分には動機に齟齬のある殺人が布置されると思う。一応動機は判明しているが、殺人という行為とその動機を結びつけるには主観的・客観的に齟齬がある場合である。一方、いわゆる「心の闇」は、動機なき殺人のうち、病いによる殺人に近い部分に位置しているだろう。
客観的な齟齬のある場合とは、殺人という行為に比べて動機が不釣合に軽いと見える場合である。最近、電車の中で携帯電話で話していたのを注意されただけで殺すといった類の事件が頻発し、「切れる」と表現されている。
主観的な齟齬のある場合とは、世間的・警察的・裁判所的には十分な動機でも、当人には納得できない場合である。加賀乙彦の『宣告』は死刑囚、楠本他家雄を主人公にすえた監獄小説である。後半でわかるが、小説の第一日目は楠本の死刑執行命令の出た翌日で、刑が執行されるまでの四日間を追いながら、過去の日々が挿入される。この小説で興味深いのは、動機を語る三種類の言語――裁判の言語・本人の言語・医学の言語――が共存し、せめぎあっていることである。
楠本はメッカ殺人事件の正田昭をモデルにしており、現実の事件同様、被害者から金を奪っている。楠本は金目当ての犯行であることを認めているが、それだけが動機ではなかったと述懐する。
けれども蕎麦屋で私は金を奪うことをもはや第一義とは考えていなかったこともまた事実だ。殺すこと、それによって自分に力を与えること、それこそが第一の大事だった。
彼は殺人の準備をしながら、「冒険の旅」の予定をたてるような楽しさをおぼえたことを思いだしている。
楠本は死体の隠蔽をいい加減にすませ、犯行が簡単に発覚するような事態をまねいたのはなぜかと検事に問われ、自分が破滅していくのが「快楽」だったと答えている。この証言を聞いた検事は「被告は真面目に答えておりません」と決めつけ、裁判長も真面目に答えるようにと注意している。心理的・経済的な因果関係にしばられた裁判の言語においては「生活費に窮したため、熟慮の上犯行にいたる」という以外の発言は意味をなさないのである。
大古場という精神科医は「快楽」や自己破壊衝動に理解があるが、それは「|精神分裂病《ママ》」の文脈の限りにおいてである。
「そうさ、破滅への志向が楠本にはあった。四十万円を浪費することが彼には喜びだった。人を殺すことは喜びだった。浪費と殺人の瞬間だけ、彼は自分の力を自覚し、この世に生きている実感を抱きえたんだ。ぼくはね、鑑定書を何度も読み返してみて、犯行前の三箇月間に、楠本が陥った袋小路を実感できたよ。彼は、恋人に裏切られただけじゃなく、兄妹からは疎まれ、母からは拒絶され、会社の人にも入れられず、すなわちこの世で完全に孤立していた。誰もが彼を白眼視し、迫害すると信じていた。彼は全人類を敵と思い込んだ。あの絶対的な人間不信の状態は、きみ、分裂病の被害妄想に間違いないよ」
大古場は鑑定書を読んだだけで、楠本とは一度も対面していない。彼は医学の言語を通してしか楠本を知らないのだ。
拘置所の医務官で、楠本と親しく接している近木は大古場に反論し、楠本を「正常」と擁護する。「正常」と認めることは楠本の死刑を容認することにつながるが、自己の存在の条件を注視しようとする楠本自身に即してみれば、近木は楠本を代弁し擁護したといって差し支えないはずである。精神科医でありながら、精神医学の言語に距離をおいている近木の視点は、われわれが楠本を了解する上で大きな役割を果たす。
近木は楠本の理解者といってよいが、楠本本人ではなく、あくまで他者である。楠本本人も死刑囚監房という特殊な場に身を置いて、十六年前の自分を回想しているのであって、今の彼からみれば、犯行時の自分は他者である。殺害の模様は詳細に描写されているが、あくまで間接的に描かれているにすぎないという点は押さえておきたい。近代小説の話者は神のごとき視点から見おろし、登場人物の内面に自由に立ち入って心理を分析してみせるが、上からのぞきこんだなら、闇は闇ではなくなる。
殺人者の視点の問題に自覚的にとりくんだ小説としてはトルーマン・カポーティの『冷血』をあげることができる。
『冷血』は1959年にカンザス州の片田舎で実際に起こった、クラター一家殺害事件を題材としている。クラター氏は富裕な農場主で、周囲から尊敬を集めていたが、朝、知人が訪ねてみると、一家四人が惨殺されていた。クラター氏は仕事上の決済をすべて小切手ですませることが近在で広く知られており、事件のあった夜も、一家には四十数ドルしか現金がなかった。当初、複雑な背景の怨恨が動機かと思われたが、蓋を開けてみると、金目当ての二人組の強盗のしわざと判明した。彼らはクラター氏が現金を手元に置かないことを知らなかったのである。
カポーティは取材に三年、作品化に三年を費やしたといわれ、この作品をみずから「ノンフィクション・ノベル」と呼んでいる。この作品の重要性は資料やインタビューを膨大に蓄積した点にあるのではない。純然たるノンフィクションであっても、集めた材料をもとに、神のごとき視点から語るものが多いが、『冷血』の場合は神の視点はできるだけ排除されている。二人の強盗の内心の動きを叙述する場合も、誰かが目撃したとか、聞いたとか、手紙や手記のような形で第三者が読めるという形をとっている(おそらく、すべてに典拠があるはずである)。
犯人は貧乏白人のディックと、アイルランド人とインディアンの混血のペリーで、二人は刑務所仲間だった。ディックはリヴァー・ヴァレー農場で働いたことのある同房の囚人からクラター家が富裕なことを知り、ペリーを犯行に誘う。家に侵入し、一家を縛り上げてすぐ、現金がないことがわかったが、ディックは娘をレイプするつもりでなかなか退去しようとしなかった。ペリーは水夫をやっていた頃、同僚のゲイにレイプされたことがあったので、ディックのたくらみを銃で阻もうとした。なまじこれが仇となって、惨劇が起こるのである。
カポーティは実証的な叙述に徹しているが、明らかにペリーに感情移入している。ペリーの母親はチェロキー族の美しい娘で、ロデオ・ショーの花形だったが、不幸な結婚生活で身をもちくずし、子供をほったらかすようになった。父親は西部に憧れて移民してきたアイルランド人で、荒野で生活する術は身につけていたが、社会生活を営む能力は欠落していた。ペリーは知能は高い方で、絵をよくするなど、繊細な感受性をもっていたが、教育はまったく受けることができず、仲間の間違った言葉遣いを直すことで自尊心を満足させるしかなかった(死刑囚監房には尊属殺人の学生がおり、逆に言葉を直され、深い屈辱を受けることになる)。
カポーティはペリーに同情すべき要素がたくさんあることを示すが、その一方で、まったく改悛していなかったという事実も提示している。ペリーは情状証言のためにはるばるやってきた軍隊時代の友人から、被害者の一家に申しわけないと思っているかと聞かれ、言下に否定し、犯行直後、ディックの冗談にゲラゲラ笑いころげたと告白する。
「もしあの人たちをほんとうによく知っていたら、たぶん、わたしの気持ちも変わっていただろうよ。わたしはとうてい生き永らえるとは思わない。しかし、ありていにいえば、あれは射撃場で標的を狙い射ちしたみたいなもんだったな」(瀧口直太郎訳)
カポーティはペリーをとりまく情況を詳細・精緻に描きだしたが、闇を闇のままにとどめている。『冷血』の衝撃はそこにある。
殺人者の内面に踏みこまないという点において、佐木隆三の『復讐するは我にあり』は『冷血』よりもさらに徹底している。
『復讐するは』は一九六三年に起きた西口彰連続強盗殺人事件をモデルにしている。主人公の榎津巌は、西口彰同様、福岡で最初の殺人を犯した後、香川、浜松、広島、徳山、沼津、千葉、東京、平、苫小牧……と殺人行脚をしながら逃げまわり、最後に熊本で逮捕されている。榎津の行動は西口の行動を細部までなぞっており、個人名こそ変えているものの、奪った金額から綽名、手記の言い回しまで踏襲している。
『冷血』の場合は内面に踏みこまないというルールに従っているにしても、視点は一貫していた。ところが、『復讐するは』は登場人物の数だけの視点がある。この作品は文庫本にして四百ページ余の長さだが、四十の短章にわかれ、榎津とかかわった五十人以上の人物が登場する。各人物は夫々の視点から榎津の人物像を語るが、浜松貸席殺人の章のように、八つの視点が交錯する章もある。しかも、榎津は詐欺の常習犯であり、逃走資金を稼ぐために弁護士、大学教授、福祉に熱心な篤志家等々、さまざまな人物になりすましてあらわれるので、人物像がくるくる変わっていくし、九州から関東まで、日本の半分を股にかけて逃げているので、章ごとに言葉が変わり、さながら方言の交響楽の観がある。
『冷血』の場合、事件に専従するKBI(カンザス州捜査局)の捜査官、デューイが通し柱的な役割をはたしたが、『復讐するは』の場合は、各地で殺人を起こしているために、各県警はばらばらに動いており、警察の視点も複数化している。複数の章に登場する人物もいるが、榎津を心配する再従兄の自衛隊員、共犯を疑われたバーのママ、同棲していたストリッパー、理髪店の女店主と何人もいて、印象は散乱する。われわれは登場人物の目という鏡に映った限りでしか榎津を見ることができないが、それは一枚の完全な鏡ではなく、砕け散った鏡の四十の断片なのだ。
『冷血』のペリーは社会の犠牲者という面が同情を引いたが、榎津の場合はピカレスク小説の主人公のような、ギラギラした悪の魅力で読者を引きつけている。榎津には同情できるような要素がない。浮き沈みはあったにしても、比較的裕福な家に育ち、教育も受けている。父親は一人息子の彼を神父にしようとミッション・スクールにかよわせたが、彼は厳格な学校に反発して中退し、十六歳で詐欺でつかまったのをかわきりに、刑務所と娑婆とを往復する犯罪者の人生を歩みはじめる。
向こう気が強く、刑務所の中では看守を「先生」と呼ばなければならないところを名前にさんづけですませ、看守側に落ち度があれば傲然と抗議して、同房仲間から一目おかれたこともあった。精力絶倫で手あたりしだいに女に手を出すかと思えば、詐欺のためにあの手この手を考えている。殺人で指名手配されたことがわかると、連絡船の甲板に靴と遺書を残して偽装自殺をしかけたり、警察に自分で自分を密告する葉書を出したりして、捜査陣をもてあそぶ。彼は逮捕されてなお突っ張りつづけ、供述をコロコロ変えて警察を翻弄しつづけるが、分裂し、散乱する榎津像を最終的に一つに収斂させたのは彼の弱さである。
榎津の家は潜伏キリシタンだった。徳川時代、仏教徒を装ってキリスト教信仰を守っていたのは隠れキリシタンと同じだが、隠れキリシタンが明治のキリスト教解禁以後も、仏教と習合して土俗化した信仰に固執したのに対し、潜伏キリシタンは幕末にキリスト教徒であることを公然と明らかにし、カトリックの正統信仰に復帰している。榎津の父は彼をミッション・スクールに通わせ、神父にすることを願っていたが、ぐれて犯罪の道にはいってしまった。
榎津は逃走の後半から歌詞の聞きとれないような小声で鼻唄を歌うようになり、取調中もやめないので、取調官にこづかれている。38章にいたって、この鼻唄の正体があかされる。
だれにも明かしていないが、貴女だから初めて云う。その歌は、曾祖母に習った。私が三歳から七歳のときまで、それはそれはかわいがってくれた人だった。八十七歳で死んだひいおばあちゃんが、なにかにつけて口ずさんだ歌を唱えながら、私は絞首台に登るだろう。熱心な教誨師の神父様には申し訳ないが、私はこれを唱える時だけ恐怖を忘れられる。もったいぶるほどのことはないから、書きます。それは歌オラショなのです。
歌オラショとは、キリスト教禁教時代、キリシタンが踏み絵の屈辱の中で秘かに口伝えしてきたグレゴリオ聖歌の成れの果てである(「グレゴリオ」が「ぐるりよーざ」に訛ってしまっている)。口ずさんでいたのが晴れがましいグレゴリオ聖歌ではなく、幼時の曾祖母の記憶、さらには僧侶の唱える経文の効力を消そうと、隣室で必死に歌オラショをとなえたという先祖の記憶につながる土俗化した歌だったというところに、榎津の強がりの裏側がしるしづけられている。
榎津の人物像は最後にのぞかせた弱さによって完成した。榎津は『罪と罰』のラスコーリニコフや『宣告』の楠本他家雄、『冷血』のペリー同様、極悪非道な怪物ではなく、われわれと同じように血のかよった、弱い人間だった。殺人者を主人公にした小説が書かれるのは、結局、怪物の中に人間の弱さを発見して、読者をカタルシスに導きたいからなのかもしれない。
だが、そうではない例外的な小説も存在する。『異邦人』である。
主人公のムルソーはアラブ人殺しの罪で死刑を言いわたされたが、陪審員を動かしたのは殺人そのものよりも「心情の空虚」だった。検事は陪審員に対し、被告の心をのぞきこんだが「人間的な何物も、人間の心を守る道徳的原則も何ひとつ」見つからなかった、この男には魂がないと非難する。検事はその証拠として、養老院に入れていた母親が死んでも涙ひとつ見せなかったこと、母親の年齢を知らなかったこと、葬式の翌日、女と海に遊びにいき、夜、部屋に連れこんだことを挙げてみせる。
予審の際、ムルソーは検事から神の前で悔い改めろと迫られるが、無視してしまう。これは無神論者だと宣言したに等しい。日本では無神論者かどうかは大した問題ではないが、キリスト教信仰の生きている社会では、神を信じないとは、神によって担保される親子の情愛や友人に対する信義、社会に対する責任等々をすべて否定することにつながる。無神論者を放置すると、社会を滅亡させかねないのである。
ムルソーは殺した動機を尋ねられると、「太陽のせいだ」などと答える。これでは検事の非難を裏書きしたも同然である。単なる無神論者であれば、死刑を逃れることは可能だった。ムルソーはアラブ人に五発の銃弾を撃ちこだが、一発目を撃ってからすこし間を置き、二発目以降を撃ったとみずから供述している。検事は二発目を撃つ前に間を置いたという点にこだわり、何度も問いただしている。アラブ人は刃物を手にしていたから、動転して五発つづけて撃ったといえば情状酌量されたはずである。目撃者はいなかったし、死体の鑑定からは連続して撃ったのか、間を置いて撃ったのかは決定することができない。すべてはムルソー一人の証言にかかっているのである。
ムルソーは神を信じないにもかかわらず、みずからの刑死を決定的にする真実の証言をおこなった。卑劣で嘘つきの無神論者のはずなのに、そして殺人をこれっぽっちも後悔していないのに、彼は真実に固執した。これを怪物の所業といわずしてなんと言おう。検事は、そして死刑の判断をくだした陪審員たちは、神のない世界にも真実があるという事態に耐えられなかったのだ。
『異邦人』という小説が傑出しているのは、このような神学的・哲学的な問題を提起しているにもかかわらず、ムルソーの身体感覚に密着した微視的な叙述に徹している点だ。映画にたとえるなら、この作品には俯瞰のショットが一つもない。すべてはクローズアップで撮られている。『異邦人』の言語は、ムルソーのまばゆいばかりの明晰さをあますところなく造形している。ムルソーに共感するのはサドの小説に登場するリベルタンに共感するのと同じくらい難しい。いや、悪ですらないという点において、リベルタンよりもさらに怪物的かもしれない。こういう人物像の前では「心の闇」などという甘ったれた言い方は意味を失う。
以上、人殺し小説の種々相を見てきた。
さて、課題である。
人殺しを主人公にした小説を書いてほしい。ただし、推理小説やホラー小説にしないこと。それ以外には条件はつけない。いわゆる「心の闇」をあつかうかどうかも、おまかせする。
健闘を祈る。
(「群像」2003年11月号)
本稿は「群像」で2003年1月号から12月号まで1年間連載された「現代小説・演習」という企画で書いた評論である。「現代小説・演習」では毎回、評論家が現代小説の課題を論じ、小説家がその評論に答える形で小説を書いた。本稿に対しては岡武士氏が「月面の船長」という短編を書いている。