詩人、旅行家、エッセイスト。1895年12月25日、愛知県海東(海部)郡津島町に大鹿和吉の三男として生まれる。本名安和。一家は酒屋を営んでいたが、破産して名古屋に移り、安和を金子荘太郎の養子に出す。荘太郎は建設会社清水組の主任で、間もなく東京に転勤になり、安和は暁星中学をへて、早大英文科に入学。
1915年、早大を中退し、東京美術学校日本画科にはいるが、すぐに退学。慶応義塾英文科予科にはいるが、翌年退学。1917年、養父が亡くなり、多額の遺産を相続するが、第一詩集『赤土の家』の自費出版や最初のヨーロッパ旅行で使いつくす。
1926年、フランスの最新の詩法をとりいれた『こがね虫』を新潮社より刊行。光晴を名乗る。翌年、御茶ノ水高師の女学生だった森三千代を妊娠させてしまい、結婚。『ヴェルハアラン詩集』、『近代仏蘭西詩集』を刊行。
1928年、プロレタリア文学全盛の風潮に孤立感を感じ、森三千代とともに渡欧。考えられる限りのアルバイトをしてパリで食いつなぎ、シンガポール、マレー半島をへて、1932年、帰国。この間の体験は『マレー蘭印紀行』にまとめる。五年間の長旅の間にプロレタリア文学は全滅してたが、金子は国家社会主義体制に対する反抗を秘めた『鮫』と「落下傘」を発表する。
敗戦後、『落下傘』を刊行。1952年、『人間の悲劇』で読売文学賞受賞。1957年、自伝『詩人』を刊行。
晩年は性体験を赤裸々に語る奇矯な老人としてマスコミにもてはやされるが、五年間の海外放浪を回顧した『どくろ杯』、『ねむれ巴里』、『西ひがし』を1971年から74年にかけて刊行し、単なるエロ爺ではないことを示した。
1975年6月30日、急性心不全で死去。80歳だった。