國木田獨步くにきだどっぽ

加藤弘一

生涯

 小説家、ジャーナリスト。1971年旧暦7月15日、銚子に生まれる。幼名龜吉。父、專八は播州龍野藩の譜代藩士。出生の事情には諸説あるが、父が函館戦争に従軍の途次、船の難破で銚子に滞在中、獨が生まれたとする説が有力。1874年、仲御徒町の旧藩邸に移る。1876年、父の山口裁判所転任で、山口に移る。17歳まで同県内で育ち、吉田松蔭やナポレオンに憧れる。

 1887年、上京。翌年、東京専門学校(現在の早稻田大学)英語普通科に入学。1889年、哲夫と改名。青年文學會を結成し、徳冨蘇峰の知遇をえる。1891年、植村正久から洗礼を受けるが、学校改革を求めるストライキを計って退学になる。1893年、父の退職が迫り、家計を支える必要から、九州佐伯町の鶴谷學に教頭として赴任。自然に目覚め、後の「源叔父」「春の鳥」などの題材をうるが、周囲にいれられず、翌年、退職。日清戦争勃発とともに國民新聞にはいり、従軍記者として軍艦千代田に乗り組んで「愛弟通信」を連載、注目される。翌年、退職し、「國民之友」を中心に執筆。佐々城信子と知りあい、周囲の反対を押しきって結婚するが、すぐに逃げられて離婚。深く傷ついた獨は上澀谷村(現在の渋谷)に転居、武蔵野の自然美を発見する。

 1897年、柳田國男、田山花袋らと新体詩の先駆というべき『抒情詩』を刊行。事実上の処女作の「源叔父」を発表。翌年、榎本治と結婚。「忘れえぬ人々」「武蔵野」『ヲーズヲース譯詩集、自然の心』などを次々と発表。刊行。與謝野鉄幹と知りあい、明星に執筆するようになる。

 この時期、報知新聞社の政治記者として活躍する。自由黨の星享と意気投合し、1901年、機関誌民聲新報の編集長となり、政界進出も考えるが、星の暗殺にあい、退職を余儀なくされる。同年、『武蔵野』刊行。

 1903年、東洋畫報を創刊。同誌は近事畫報と改題するが、翌年の日露戦争勃発とともに戦時畫報と改題、一躍部数を伸ばす。好調にのって、新古文林婦人畫報など、新雑誌を次々に創刊するが、戦争終結とともに経営不振におちいる。獨社を起こし、雑誌を引き継ぐが、1907年、破産する。心労と窮迫の中で肺結核が悪化する一方、自然主義文学の隆盛で、獨步の文名があがる。

 1908年6月23日、死去。37歳だった。

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