志賀直哉しがなおや

加藤弘一

生涯

 小説家。1883年2月20日、宮城県石巻町で志賀直温、銀の次男として生まれる。直温は慶應義塾に学び、第一銀行石巻支店に勤務していたが、翌々年、退職し、一家は東京の旧相馬藩邸内に暮らす祖父母のもとに移る。直哉は夭折した兄に代わって跡取とみなされ、祖母に溺愛されて育つ。

 志賀家は相馬藩で代々普請奉行をつとめた家格で、祖父の直道、父の直温ともに戊申戦争で官軍と戦っている。維新後、祖父は没落した相馬家の立てなおしのために家令を引きうけ、古河市兵衛とはかって銅山経営に乗りだし、成功させるが、自分は清貧を通した。当主の没後、お家騒動に巻きこまれ、毒殺の嫌疑で逮捕されるが、75日後に釈放される。いわゆる「相馬事件」で、新派の芝居になるほどのスキャンダルだった。

 実業界に転じた父は総武鉄道、帝国生命保険などの大企業の取締役をつとめ、志賀を学習院初等科に入学させた。中等科に進む直前、母の死にあうが、その年のうちに父は再婚する。翌年、有島壬生馬(生馬)らと回覧雑誌をつくり、創作をはじめる。麻布三河台の大きな邸に移るが、四年進級時に最初の落第をする。

 1900年、書生に連れられて内村鑑三宅を訪れ、門下にはいる。この頃、足尾鉱毒事件がおこり、学習院の回覧雑誌の仲間と現地訪問をくわだてるが、祖父が足尾銅山に関係したことから父に反対され、不和の原因となる。翌年、ふたたび落第。

 1906年、祖父、79歳で死去。学習院高等科を終えて、東京帝国大学文科大学英文学科に進む。女中に夢中になり、結婚を約束したため、父との関係が険悪になる。1908年、「網走まで」を「帝国文學」に投稿するも不採用。性欲の問題から、内村門下を離れる。国文科に転科するが、あいかわらず授業には出ない。

 1910年、武者小路実篤、里見有島武郎、柳宗悦らと「白樺」を創刊。「網走まで」、「剃刀」を発表。東京帝大を退学する。1912年、「大津順吉」を「中央公論」に発表。はじめて原稿料をえて、尾道に移る。翌年、第一短編集「留女」を刊行するが、里見と散歩中に山手線にはねられて重傷を負う。退院後、城崎温泉で静養。松江、京都と転々とした末に、武者小路実篤の従妹の勘解由小路康子と結婚。鎌倉、赤城山をへて、千葉県我孫子に家を建てて住む。

 この間、創作がとだえたが、1917年、「城の崎にて」で三年ぶりに復帰。「大津順吉」を刊行後、父と和解し、すぐに「和解」を書く。1919年、『暗夜行路』の一部となる「憐れな男」を発表。翌年、翌々年と書きつぎ、1922年、前篇を上梓する。1927年にとだえていた後編の連載を再開するが、すぐに休載。最終部分は10年後の1937年に発表。同年、全編が刊行されるが、これを期に創作の時代は終わり、長い余生がはじまる。

 1946年、敗戦の混乱の中、日本語を廃止し、フランス語を国語にせよという暴論をはく。翌年、再建がなった日本ペンクラブの会長に就任。1949年、文化勲章受賞。

 1971年10月21日、老衰で死去。88歳だった。

作品

Copyright 1999 Kato Koiti
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