三好達治みよしたつじ

加藤弘一

生涯

 詩人、批評家。1900年8月23日、大阪市東区南久宝寺町に生まれる。父政吉は印刷所を経営。府立中学に入学するが、家業が傾き、二年の時に学費のいらない陸軍幼年学校に移る。東京の中央幼年学校をへて、北朝鮮で士官候補生として勤務した後、陸軍士官学校に入学するが、中途退学。

 三高文科に転じ、丸山薫、梶井基次郎、桑原武夫、吉川幸次郎と知りあう。東大仏文科に進んで、淀野隆三、堀辰雄、小林秀雄を知る。梶井、中谷孝雄らの「青空」に参加、「雪」などの清新な詩編を発表し、萩原朔太郎から認められる。萩原を師として終生敬愛し、没後は室生犀星、伊藤信吉とともに全集を編纂した。

 生計のためにファーブル昆虫記、メリメなどを次々と翻訳するが(十年で原稿用紙二万枚におよんだ)、ボードレールの『巴里の憂鬱』とジャムの『夜の詩』は名訳として名高く、現在も入手可能。

 1930年、『測量船』を刊行。前衛性と伝統性を融合させた詩風で絶賛されるが、健康を害し、ジャム風の四行詩に傾く(1932年の『南〓集 』)。1934年、丸山薫、堀辰雄らと「四季」を創刊。「四季」派の旗手として、1930年代の詩壇を牽引する。

 1937年、「改造」特派員として、戦火のくすぶる上海を訪れる。詩風は軽妙体から荘重体に向かい、その成果は『艸千里』、『一點鐘』として結実するが、同時代の評価は高くなかった。1942年、戦争詩を集めた『捷報いたる』を刊行。

 1952年、『駱駝の瘤にまたがって』を刊行。1962年、古典的風格をたたえた『百たびののちに』で健在を示した。

 1964年4月5日、心筋梗塞で急逝する。63歳だった。

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