安部公房『天使』解説・拾遺

加藤弘一

 書簡で存在のみ知られていた安部公房の未発表作品「天使」が「新潮」2012年12月号に掲載された。「解説」を担当させていただいたが、書ききれなかった材料の一部を「拾遺」としてここに掲載する。(Nov10 2012)

補説

南満医学堂

 南満医学堂は1911年(明治44年)に日華双方の協定により満鉄が設立した医学校で、多民族の子弟の教育にあたった。奉天新市街中心部の20万坪の広大なキャンパスに校舎と附属病院を擁し、他に7千坪の寮、3万4500坪の伝染病院があった(下の地図で水色で示した)。卒業式には張作霖ら中国の高官が列席するのを常とした。1922年(大正11年)大学に昇格し満洲医科大学と改称。満洲の風土病の研究で成果をあげる一方、1926年(大正15年)には東亜医学研究所を設置して漢方医学の典籍の調査と漢薬の科学的研究をおこなった。

 安部公房の父安部浅吉は1916年(大正5年)に入学しているが、その年に鷗外の弟子である木下杢太郎(本名太田正雄)が皮膚科の教授として赴任した。安部浅吉は木下の教えを受けたと思われる。

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安部公房と奉天

 安部公房は1歳で父母にともなわれて満洲にわたり、奉天市南区葵町の満鉄社宅にはいった。この航空写真の中段右端にみえる「満鉄社員社宅」がそれだと思われるが、『満洲奉天日本人史』巻末折込の地図を見ると「汚水處分所」となっている(緑色で示した部分)。汚水処理場を埋め立てて社宅を作ったということだろうか。昭和になるとこの界隈はデパートができて繁華街になっている。

 小学校は千代田小学校、中学は奉天第二中学校に通った(いずれも緑色で示す)。

 安部公房の父親の浅吉は1942年(昭和17年)、満洲医大を退いて奉天市大和区紅葉町に「安部内科医院」を開業した。おおよそで示したあたりだろうと思われる。

瀋陽市日本人居留民会

 1945年8月9日ソ連は満洲国に侵攻し、19日に先遣隊が、20日には本隊が奉天に入城している。ソ連は衛星国家を樹立するために軍の主力を東欧諸国にはりつけており、対日参戦にあたっては監獄から若い囚人をかきあつめ軍事教練もろくにしないまま占領地に送りこんだ。軍規などあってなきがごとしで白昼公然と女性をレイプしたり、民家におしいって掠奪をほしいままにしたのは数々の手記に書かれているとおりである。

 混乱の中で多くの邦人が殺されたが、その一方郊外や鉄道沿線各地、さらには奥地に住む日本人が陸続として奉天市内に避難してきた。避難民は着の身着のままで、途中掠奪にあって身ぐるみはがされ麻袋を服代わりにかぶって逃げてくる者もすくなくなかった。

 8月23日治安維持と避難邦人救護のために満洲医科大学の守中清学長を会長に瀋陽市日本人居留民会が結成され、ただちにソ連軍司令部に邦人保護を申し入れた。居留民会は正式の交渉団体として認められたが、中国人の取締は一定の効果をみたもののソ連兵の暴虐は撤退までつづいた。

 居留民会では奉天省からの200万円と日系企業からの醵出金を避難民救済と治安維持にあてた。中国側に接収された学校や公共建築物を借り上げて難民収容所とし、衣服は元からの住民が提供した。しかし急激なインフレで資金は底をつき、元からの住民も収入の道を断たれて困窮した。

 現在の日本の感覚では伝染病の病原体は外部から侵入してくるものだが、中国大陸の奥地では伝染病が常在し毎年のようにチブスやペスト、コレラ、赤痢が小規模な流行を繰りかえしていた。満洲医科大学では流行にそなえて奉天の市域の境界近くに広大な伝染病専門病棟を設けていた(地図の下端)。

 奉天市内では1922年(大正11年)のペストを最後に悪疫の流行をみなかったが、満洲帝国瓦解後、避難民の流入と栄養失調、衛生状態の悪化で疫病が繰りかえし市を襲うことになった。1945年10月に発疹チブス、1946年2月に肺ペスト、6月にコレラが襲来し、それぞれ数十人から百数十人の犠牲者が出たが、その8割は邦人避難民だった。邦人の年間死亡率は平時の10倍(1000人あたり130人)におよんだ。

 この程度の被害ですんだのは旧満洲医科大学を中心とする医師と医学生が治療と防疫活動にあたったからだった。3人の医師と1人の医学生が殉職したが、そのうちの一人が安部公房の父の安部浅吉だった。

 こうした混乱の中でも初等・中等学校は寺院や倉庫、民家を仮教室として10月8日から授業を再開し、平時と同じように教育をおこない中国人を驚かせたという。

葫蘆島

 敗戦後、日本政府は大陸の状況がわからないこともあって150万人もの満洲の日本人を帰国させるのは不可能とし、現地残留の方針を打ちだした。しかし外地の日本人は住居も職も財産も失い、生命の安全も保証されていなかった。満洲各地の日本人居留民会を代表して按山製鉄所の丸山邦雄らが内地にもどり満洲の邦人がおかれた悲惨な状況を政府要人とGHQに説いてまわりようやく引揚が決定した。

 問題は港だった。大連は日本人引揚に反対していたソ連の支配地域にあったために使えず(1946年12月からは使用が許可された)、第一次と第二次の引揚には国府軍支配下の葫蘆島が使われた。葫蘆島港から帰国した邦人は105万人におよんだ。

 船の手当ても難題だった。日本の輸送船と客船はわずかしか残っていなかったのでアメリカ軍が提供した200隻のLST(上陸用舟艇)がもっぱら使われた。LSTは平底で外洋航行には向かず、速力が遅い上に揺れがひどかったといわれている。

 葫蘆島から佐世保までは最短4日で着いたが、検疫のために旧海軍兵舎に一週間程度とどめられた。船内で伝染病が発生した場合は佐世保入港が許されず洋上検疫になった。佐世保港を目前にしながら一ヶ月以上とめおかれることも稀ではなかった。

『没我の地平』の執筆時期

 詩集『没我の地平』は高谷治宅で執筆され、それを高谷がノートに清書したと考えられてきたが、何編かは『天使』の執筆時期と重なる可能性が出てきた。

 そう推測できるのは白樺のモチーフが『天使』末尾の詩と共通しているからだ。渡満以前の東京で書いた詩編では楊柳(満洲を連想させる)のモチーフが登場したが、『天使』と『没我の地平』では楊柳が白樺に交代するのである。

安部公房最初期作品の原稿状況

執筆地ジャンル題名推定執筆年月日用紙用紙銘柄方向枚数備考
東京小説題未定(霊媒の話より)1943年3月7日原稿用紙 200字T.S 10・20縦書248
<秋でした>1943年10月6日青罫紙 28行縦書3高谷宛書簡
或る星の降る夜1943年11月26日青罫紙 27行縦書1高谷宛書簡
旅よ1943年11月26日青罫紙 27行横書1高谷宛書簡
旅出1943年12月6日朱罫紙 24行 半裁表裏縦書8中埜肇宛書簡
神話1943年12月17日青罫紙 26行 表裏縦書1高谷宛書簡
君が窓辺に1944年2月3日原稿用紙 横書三四会雑貨部製縦書1高谷宛書簡
もだえ1944年2月3日原稿用紙 横書三四会雑貨部製縦書1高谷宛書簡
夜の通路1944年2月3日原稿用紙 横書三四会雑貨部製縦書1高谷宛書簡
ひとり語1944年4月10日(高谷による手書きの写し)高谷宛書簡
ユァキントゥス1944年6月6日青罫紙 27行縦書2高谷宛書簡
エッセイ詩と詩人(意識と無意識)1944年6月8日ノートA5 24行 358頁学用ノート配給株式会社製縦書38横書ノートに縦書、左右数行空白
嵐の後1944年6月21日ノートA5 24行 358頁学用ノート配給株式会社製縦書2
嘆き1944年6月23日(高谷による手書きの写し)高谷宛書簡
<静かに>1944年6月24日罫紙 24行縦書4高谷宛書簡
<暁は白銀色に>1944年6月24日ノートA5 24行 358頁学用ノート配給株式会社製縦書1高谷宛書簡
観る男1944年7月28日罫紙 32行縦書1高谷宛書簡
<誠に愛を>1944年10月11日横罫紙 32行布施高等女学校用箋縦書1高谷宛書簡
<僕のふれたのは>1944年10月21日横罫紙 32行布施高等女学校用箋縦書1高谷宛書簡
<友来てぞ>1944年10月23日(高谷による手書きの写し)高谷宛書簡
エッセイ<没落の書>1944年11月21日ノートB5 28行ITOYO製縦書12横書ノートに縦書、左右数行空白
奉天小説老村長の死(オカチ村物語(一))1945年4月4日原稿用紙 400字 朱罫無印10.20縦書25紺色布張紐綴じ書類ファイル綴じ
引揚小説天使1946年秋ノートA5 24行 断片縦書19
東京詩集没我の地平1946年冬ノートB5 28行ITOYO製縦書35高谷による清書原稿
小説第一の手紙〜第四の手紙1947年1月2日ノートB5 27行 断片横書18中途途絶
エッセイ<様々な光を巡って>1947年1月27日ノートB5 28行横書7
1947年2月20日ノートA5 26行 断片横書1
化石1947年2月20日ノートA5 26行 断片横書1
<厚いガラスや>1947年2月20日ノートA5 26行 断片横書1
小説白い蛾1947年5月5日ノートA5 26行 断片横書14

『安部公房全集』第1巻「作品ノート」にもとづく

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