ポール・ヴァレリーをヨーロッパ最高のインテリと呼ぶことに反対する人はいないと思うが、彼は第一次大戦直後の講演でヨーロッパの優位はテクノロジーの独占の結果にすぎず、独占がくずれたら地理上の一小地域(アジア大陸から突き出した一つの岬)の地位に転落するだろうと語っている。
ヨーロッパの精神的価値を代表していた詩人は科学技術を回避したところに「精神独自の価値」がそびえ立つなどという感傷には目をふさがれていなかった。彼は最高のインテリであると同時に、いや最高のインテリだからこそ、最高のリアリストでありえた。
柄谷行人が一連の仕事の出発点としたマルクスもまたリアリストとしてのマルクスである。マルクスという名前に熱い思いいれをもっている人は、ここで読みほぐされていくマルクスの作品の姿に当惑を通りこして裏切られたと感ずるだろう。マルクスの名で知られている教説の数々が、マルクス自身の論理を適用することによって、単なる感傷であったことがあきらかにされていくからだ。
マルクスの学説の中心は剰余価値説にあるとされている。人間の労働力が商品として市場に登場しているという古典派経済学の分析をうけて、マルクスは労働力が買値以上の価値を生み出すことのできる特別な商品である所以を説き、資本家はこの特別な商品を普通の商品同様に買いたたくことによって労働力が生み出す余分な価値(剰余価値)を労働者からこっそり奪いとっていると主張した。労働力の神秘性という光源に照らすなら、古典派経済学は資本家の自己正当化の論理としてあらわれざるをえない。『資本論』を書いたマルクスの意図は古典派経済学の批判にあったといっていい。
だが、『マルクス、その可能性の中心』の柄谷は『資本論』のもう一つの中心、価値形態論に注目する。剰余価値説では労働力の神秘性が重視されたが、価値形態論では商品そのものが神秘をおびたものとしてあらわれる。
商品は、一見したところでは自明で平凡な物のように見える。が、分析してみると、それは形而上学的な繊細さと神学的な意地悪さとにみちたきわめて奇怪なものであることがわかる。(『資本論』)
ふつう、われわれは個々の商品にはそれぞれの価値がそなわり、その価値にしたがって売買されるのだと考えている。労働価値説を提唱したリカードなら、商品の価値を決めるのはそれを生産するのに要した労働力の量で、その量の評価が価格だというだろう。マルクスもその点についてはリカードに同意している。商品には人間的労働という「共通の本質」が内在しているというわけである。しかし、価値形態論のマルクスはそうした見方をしりぞける。そのような「同一性は貨幣によって出現」させられたからである。
いったい、一着の上着と20エレのリンネル布がどうして等価だといえるのだろうか? それは、5マルクという価格を取り払ってみれば、10メートルと10リットルが等しいというようなものではないだろうか? 剰余価値説のマルクスのように、一着の上着を作るのに要した労働量と20エレのリンネル布を織るのに要した労働量が等しいといったところで、事態は変わらない。人間的労働という「共通の本質」は、普遍的尺度としての貨幣の言い換えにすぎないからだ。そもそも、貨幣というものが存在しない社会では、人間的労働などという観念自体、通用しない。問題は、ある人間の労働と他の人間の労働が等価であるなどということがなぜいえるのか、ということである。
価値形態論のマルクスはこう答えている。
彼等はあいことなる生産物を交換において等価物として等置することにより、あいことなる労働を人間的労働として等置する。彼らは意識していないが、しかしそう行なうのである。(『資本論』)
言っていることは明解である。等価だから交換するのではなく、交換したから等価になったというわけだ。内在的価値や「共通の本質」としての人間的労働もまた交換の結果として見いだされたものであり、貨幣経済という制度を暗黙の前提にしていることはいうまでもない。
忘れてならないのは、交換は交換である限りにおいて相手の同意なしには成立せず、いかなる根拠も保証もないということだ。心をこめて作ったから必ず交換してもらえるなどという甘い話ではない。今日の市場経済はさまざまな経済外的規制によって、比較的安定した交換が保証されているかに見えるが、一皮めくれば力と偶然の支配するせめぎあいの場であることにかわりはない。商品の奇怪さの考察は商品が商品であることの危うさ、つまりは交換の危うさの認識にいきつく。交換は、そのつど、何を考えているかわからない相手を前にした「命がけの飛躍」であるほかはない。
柄谷はマルクス主義者の誤解してきたマルクスに対して、真のマルクスを擁護しているのだろうか? なるほど、剰余価値説のマルクスに対して価値形態論のマルクスを立て、後者によって前者の労働力神話を批判していることは確かだ。だが、両者を同じ次元に並べることができるかどうかは議論の余地がある。剰余価値説は古典派、特にリカードの労働価値説に対抗する学説として、それ自体ひとつの経済学説であり、またそうであってこそ資本主義批判として意味を持つが、交換の危うさの認識としてつきつめられた価値形態論は経済学そのものの根拠を問う批判であり、人間が負わされた基本的条件の省察へと深められていく。交換の問題から、殺人という罪と禁固十年という罰はなぜ等価かという問いへ向かうのは必然なのである。
こうした経済学の根拠への問いは労働力神話にもとづく資本主義批判を無効にする一方、交換を儀礼として考察する立場を可能にし、各民俗社会に見られる経済行為に芸能としての多様性を見ていく経済人類学の視界を開くものだろう。
しかし、柄谷は『資本論』に固執する。『資本論』という作品は分裂を抱えこんでいるが、その一方の項である価値形態論は同時になぜ分裂が避けられないかを解明する突破口となるからだ。交換という語が言語学や人類学、法学、現象学、数学基礎論にいたるまで、発見的な隠喩として横断的に使われるのは人間の条件としての分裂を追求するためなのである。
今回文庫化された『マルクス、その可能性の中心』はこの分裂を青年の自己発見として語っている点、まだ甘いといえば甘いが、同時にわかりやすくもあるだろう。「マルクス自身の負うた傷」、「幻影を破られて、現実に自分がなんであり、なににすぎないかを思い知った人間の得る自己認識」という表現は柄谷の最初の動機が何だったかをよく示している。
自己発見を自己発見として語るのは危険である。幻想が破られたという告白は、今の自分は現実を知っていると暗に誇示することにつながるからだ。
柄谷の仕事が希有の緊張を維持してきたのは自己を語ることを禁じ、形式化に向かったことによると考えられる。柄谷の追う分裂は厳密に構築された体系がその極限で崩壊する瞬間にしか垣間見えず、それゆえ柄谷の文章はつねに無へ向かっての跳躍とならざるをえないのだ。