ラジオをつけ放しにしていたら、「時間を破いてきて、とじたみたいな本」という言葉が飛出して来た。
声の主は、小泉今日子。本の題名は、『人生らしいね』。十九歳から二一歳までの彼女を真空パックしたという本で、見開き左にスナップ写真、右に折々の言葉が載っている。
写真はどれも素人くさいし、変な顔に写っているのだって、けっこうある。言葉の方も会話のはしばしを切取って来て、貼りつけたという感じだ。そして、それだけに、舞台裏のざわめきがページの間から立ちのぼって来る。確かに、これは「時間を破いてきて、とじたみたいな本」である。
だが、この本はアイドルの「肉声」とか、「真の姿」とかを売物にした本とは違う。
胸に秘めていたものを、あなただけにこっそり教えてあげます式のなれなれしさや告白癖とは異質の折目正しさ、一種の形式感覚が感じられるからだ。いくつか言葉をひろってみる。
テレビって、見てる方の人もこっちに映ったらすごいけどね。
そりゃ笑えるかもね。テレビ見てる人のかっこって、いろいろだろうし。
大げんかしながら見てる人とかいるかもね。
テレビの中がベッドみたい。思わず現住所もテレビじゃないかと疑ってもみたくなるぜ。もしも違うものに生まれたら、きっと日用品だったね。ほうきとか、おなべとか、せっけんとかね。
まちがってもルビーとか、アボガドなんかじゃなかったね。高級品じゃない、コイズミ、ずっとお茶の間の友。桜のことなんて考えたりしないけど、きれいでちょっとかわいそうだね。咲いたとき、めだちすぎるからかな。
花の咲いていない桜の木ってぶあいそうでしょ。
だれも見ないもんね。私って小泉今日子を小泉今日子が見ておもしろがっちゃっているからなんでもできるんだよ、きっと。
わかってくれる人はちゃあんといるからね。それ以外の人を巻き添えにするのは私いやなの。
らしいってホメられたり、らしいってイヤがられたり、らしくないって決められたりしても、ほんはあたしし、ひとつじゃないし。
ちょっと私がおもしろいよ。はじめっから夢をもってここに来たんじゃないから、ここに来てこうなった私がいる。
商品化されたコイズミを本当のコイズミがシニカルにおもしろがっている、というのでは、もちろん、ない。商品化されたさまざまなコイズミのほかに、商品じゃないコイズミも確かにいるけれども、それもまたたくさんのコイズミの中の一つのコイズミで、どこかに本当のコイズミがいるのではない、ということだ。だから、あっちのコイズミから、こっちのコイズミへ、ヒョイと移ってしまう。TVのコイズミからTVの外のコイズミへ。また、その逆へ。ちょうど、反転図形のように。おそらく、「本当」のコイズミというなら、すべてのコイズミが同じように「本当」なのだ。ここには、少なくとも、「本当」を逃げ口上にするものかという凛々しさがある。
それはまさに凛々しさであって、ショーマンシップとか、芸人根性とかとは異質である。そういえば、編者の吉見祐子(アドバイザー的立場にいる音楽評論家)は、後書きで、「紳士的」という表現を使っていた。
どの言葉も整った姿をしているのは、プロの手が入っているからでもあろうが、言葉が言葉のかたちをとる大元のところに「紳士」の強さ、あるいは自分を外側から見つめ続けることの出来る強靱な体力があるからに違いない。だからこそ、当たり前といえば当たり前な、しかし少女の皮膚感覚を売りにした奇抜な「語録」やアイドル本とは一味も二味も違った本が出来上がったのだと思う。
こんな言葉もある。
あのころの表参道、いまでも覚えている。
あのときの気持ちを覚えている。
いまはもう、そういう気持ちは違ってしまっているけど。
みんなで厚木の駅に朝集って、原宿へいったころ。
日曜日の行事だった。
なにか熱いものを見てるのっておもしろかったし。
自分がその中に入らなくても熱気って伝わってくるでしょ。だから、コンサート見に来てくれる人たちの気持ちとかよくわかるし、思いっきりやりたいって、そう思うよ。
彼女は六六年の生まれだから、「あのころの表参道」とは、ローラーや竹の子が幅をきかせていた時代の表参道だろう。『原宿物語』というルボルタージュによると、竹の子の灯を絶やすまいとこだわっている少年少女がいまだにいて、先輩からゆずられたテープで、竹の子全盛当時の音楽をガンガンかけて踊っているそうだ。
もっとも彼らははっきり小数派で、今はお金を払って「熱いもの」を買いにいく時代になった。一面からいえば、商業化がそこまで来たということだが、別の見方をすれば、全体のレベルが上がって、それなりの元手をかけなければ、おもしろいものが出来なくなったということでもある。小泉今日子はこういう時代のアイドルである。
おそらく、一番の誤りは、小泉を素朴派、本音派と考え、松田聖子的なブリッ子と比較することだろう。
松田聖子はその傍若無人な少女趣味や計算高さ、蓮っ葉さ、ガハハ笑いまですべてひっくるめて、十八世紀そのもので、『バリー・リンドン』に女詐欺師か娼婦の役で出てもおかしくないかもしれない。ロココ・ファンは怒るだろうが、ロココはそんな高尚な時代ではなかった。
「本当」のものにこだわる人にとっては、彼女のすべてはウソなのだが、しかし、レースのヒラヒラや当意即妙の涙、そしてお芝居と知りつつ楽しむ胸のときめきのような一瞬の細部、束の間の悦びにうっとりわれを忘れる淫らさが彼女の声にはあって、末梢のきらめき、一瞬の輝き中に、このアイドルの生命は燃えている。
どこか遠い彼方にある真実ではなく、今ここの事実を真実と認めることの出来る軽やかな身のこなしを知っている点で、小泉今日子も松田聖子と同時代的である。そして、こういうアイドルを持てたというだけでも、今の日本の文明は案外本物なのかも知れない。少なくとも、わたしは、こういう時代にめぐりあえたことをうれしく思う。