堀田善衞の『定家明月記私抄』が完結した。正編では新古今集撰進を頂点とする前半生が語られたが、続編では四七歳から八十歳まての後半生をたどる。丸谷才一の『後鳥羽院』をお読みの読者になら、正編は定家と後鳥羽院のライバル関係を扱った第二部「へにける年」、続編は承久の変をめぐる第三部「宮廷文化と政治と文学と」に重なるといえば、わかりがはやいだろう。時代と人物が重なるだけでなく、定家と後鳥羽院の対立の意味に着いて、また承久の変の解釈について、堀田は丸谷の説くところをほぼ踏襲しているからだ。ただし、叙述の角度は正反対といっていいほど異なる。丸谷の著作が承久の変という政治事件までを文学の相でとらえるのに対し、堀田の評伝はすべてを動乱の時代を生きた一人の生活者の相でとらえていくからだ。
もちろん、これは大著『ゴヤ』の方法でもある。堀田は、十八世紀人でありながら、ヨーロッパの辺境スペインで生まれたがために、中世の残照の中で生きることになったゴヤを腑分けしたのと同じメスで、最初の中世詩人定家を解剖していくのである。
その手際は特に続編において鮮やかだ。正編の定家は、多分に書生臭さの抜けない、世をすねたところのある芸術家で、パトロンであり、最大のライバルでもあった後鳥羽院につっかかっていったが、父俊成を失い、家長として御子左家の存亡を荷うことになった続編では、愚痴っぽさと被害妄想気質はそのままながら、したたかな生活者へと変貌している。
とりわけ、承久の変前後の進退には、目をみはるものがある。いくら鎌倉方に近い九条家に仕えていたとはいえ、反幕気運の高まる中、嫡男の妻に関東の大豪族宇都宮頼綱の娘をむかえるのだから、これは明白な政治的行動である。
明月記には承久の変前後の記述は欠けている。堀田は他の史料によって、定家の動静を追っているが、定家自身の日記が再開されるには、変の四年後の嘉祿元年を待たなければならない。時に定家六四歳である。
一天皇三上皇が消えた後の京はどうなっているのか? ただただ混乱である。放火強盗強訴が相次ぎ、貴族の従者の多くは野盗に身を投じ、残った者も裏では何をやっているかわかったものではない。鎌倉方の派遣した六波羅探題にしても、京の治安を守るどころか、濠で囲った本拠に立てこもり、自衛するのが精一杯だった。
そうした百鬼夜行のただ中にあって、明月記を再開した定家は、下世話な噂をせっせと書きつづりはじめる。
たとえば、ある殿上人の嗣子が当の父親の家に強盗に入ったところを取りおさえられている。他家に嫁いでいる妹と通じていることが発覚し、父に叱責されたためである。
それには続報があって、怒った父親は、公の裁きを待たずに兄妹を殺し、裸に剥いた死体を六条大路にさらし物にした。見かねた通行人が木の枝を折って、妹の陰部を隠してやった云々という話が伝わって来る。定家は二度にわたって続報を書きつけている。けっこうスキャンダルが好きだったのである。このあたりの事情を、堀田は「これがおそらく、この人の耄碌防止剤になっている」と評する。
定家は噂話にばかりかまけていたわけではない。この時期はまた、俊成と二代で確立した御子左家の権威を子々孫々に伝えるべく、歌論書や手引書、古典の校合本を精力的に作成した時期でもある。源氏物語や土佐日記の善本が今日に伝わったのは、子孫に証本を残そうとした定家の執念のおかげなのである。
定家のこうした面は、卓抜な定家論でもある丸谷の『後鳥羽院』では触れられていない。それは、この時代の定家がすでに歌人としての生命を終えているからでもあろうが(王朝和歌だけでなく、定家の作歌もまた、新古今を絶頂として衰退期に入った)、文芸批評は作品をよりよく読むために書かれるとする丸谷の正統的な批評観によるところが大きいだろう。そして、丸谷の立場をさらに徹底させ、定家という固有名詞さえ消しさったところで書かれているのが安東次男の『藤原定家』である。そこにはただ歌だけがある。
堀田は丸谷や安東のような意味で批評を書こうとしたのではない。彼が爼上にのせたのは、定家その人、あるいは定家に代表される乱世を生きた知識人なのである。
その姿勢を端的に示すのは、『明月記私抄』の連載を中断して執筆された『路上の人』という長編小説の存在である。
この小説は異端派の運動を、中世から近世への転換を背景にした、民衆の反抗ととらえる歴史認識を共有してる点で、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』と通ずるものがある。
しかし、異端派を評価しているとはいっても、『薔薇の名前』があくまで修道院の壁の内部から描くのに対し、『路上の人』は動乱を直接にあつかう点が異なる。この小説の主人公の『路上の人』とは、街道で怪しげな生業いをいとなむ流浪のアウトローであり、サルバトーレの同類なのである。エーコは異端に走らざるをえないこうした貧者(平信徒)の群を、排除という記号学の視点から小説にとりこんだが、堀田は中世キリスト教会の腐敗をまっすぐ主題とし、蜂起を余儀なくされていく人々の姿を劇的に描きだしている。
ある種の見方をすれば、エーコも丸谷も安東も文字の人であり、書庫の頽廃に淫しているのに対し、堀田は民衆の反乱に共感する知識人であり、行動するヒューマニストということになるだろうし、堀田自身もそう考えているふしがある(そういえば、彼は政治問題に熱心な第一次戦後派の作家ということになっているらしい)。
だが、わたしはそのような見方に疑問をおぼえる。知識人の堕落を糺し、社会のあるべき姿を説く議論は堀田の文章のいたるところで見ることが出来る。その限りで、堀田の作品はヒューマニスティックであり、倫理的であるといわなければならない。
だが、その論法でいくなら、サドの小説だってヒューマニスティックであり、倫理的なのである。サドの小説はどれも善が栄え、悪が滅びるという勧善懲悪小説の体裁を整えているのである。
しかし、誰もサドをそう読まないのは、どんなに訓戒的な結末がつこうと、悪事や残虐行為を語る口調があまりにもうれしそうで、熱っぽい悦びにあふれているからである。
わたしは堀田の文章にも同じような悦楽を感じる。なるほど、中世の頽廃は事あるごとに告発されているが、それを語る口調は喜々としており、陶酔的でさえある。いや、そもそも日本とヨーロッパとを問わず、これだけ中世に淫すること自体、好きでなければできないことだ。第一次戦後派としては、紅旗征戎吾がことにあらずを地でいくパスカービルのウィリアムのような男は知識人の風上にも置けないだろうが、わたしの見るところ、それはどう考えても近親憎悪なのである。