ユゴー 『レ・ミゼラブル』

加藤弘一

 「見てから読むか、読んでから見るか」という言葉があったが、『レ・ミゼラブル』の場合、読んでから見るということはまず無いのではあるまいか。

 何しろ長い。文庫本にして二千四百ページ。枕にするにしても高すぎる。パンを一個盗んだだけで19年間監獄に入れられた男の話だくらいのことは誰だって知っているし、文部省推薦のハンコがどこかに捺してありそうでもでもある。いったい何であんな辛気くさそうな話がミュージカルになったりTVドラマになったりするんだ──そう思うのが普通だろう。

 わたしだって舞台を見ていなかったら一生読まずに終わったと思う。だが、実際に読んで見るとめっぽうおもしろい。しかも読まれざる傑作によくあることだが、文部省推薦印とは裏腹の奇書でもあった。

 まずびっくりしたのはジャン・バルジャンがなかなか登場しないことだ。最初に語られるのはジャン・バルジャンに銀の燭台をあたえるミリエル司教の一代記だが、これが文庫版で百二十ページ、赤川次郎なら長編一冊分続く。この小説はいきなり長い長い脇道からはじまるのである。

 もちろんジャン・バルジャンが登場すると、腹をすかせた甥っ子のためにパンを盗んで……という御存知の展開になるが、主筋は何かといっては中断され、ユゴーが大好きだった中世都市の入組んだ街路よろしく、黒ビーズ玉の製法とかワーテルローのナポレオンの敗北の原因、修道院の歴史、パリの浮浪児の生態、下水政策はどうあるべきかといったいつ終わるとも知れぬ脇道にはいりこむのである。

 ユゴーの道草とはどのようなものか? ここでは小さな小路を紹介しておこう。フランス革命で大修道院はのきなみ没落したが、その後日談としてこんな話が書きつけられているのである。

 帝政になってからは、追いちらされて途方に暮れていたこいう哀れな修道女は、このベネディクト=ベルナール修道会の翼の下に身を寄せることを許されたのだった。……この避難者なかに、まるで自分の家へ帰って来たみたいに思っていた人がいた。サン=トール女子修道会の修道女で、その修道会のただ一人の生き残りだった。……この聖女は貧しくて、自分の修道会の立派な服、つまり紅色のスカラブリオ(衿飾り)をつけた白い服を着ることが出来なかったので、それをうやうやしく小さなマネキン人形に着せ、人に見せては喜んでいたが、死ぬときにそれを修道院に残した。一八二四年には、この修道会には、修道女が一人残っているだけだったが、いまでは人形が一つ残っているだけだ。 (『レ・ミゼラブル』

 『レ・ミゼラブル』とは「かわいそうな人たち」という意味だが舞台の方ではかわいそうな人が、私生児(コゼット)を残して死んでいく若い母ファンティーヌ(第一幕)と、片思いの相手の男の身代りに死ぬエポニーヌ(第二幕)の二人にしぼられ緊密な構成を作りあげているが、長大な原作の方ではユゴーが見聞きしたかわいそうな人の話が次から次へと際限なくつめこまれ、「かわいそうな人大全」とでもいうべき本になっているのである。

 ということは陰々滅々な小説なのだろうか?

 そうではない。かわいそうな人はたくさん出てくるし感傷癖も相当なものだが、ユゴーには神秘主義的とも言える生命哲学があって、どんなにかわいそうな話が語られていても、そこには個人の悲劇以上のものがあるのだ。暗く落ちこむもうにも落ちこめないような猛烈なエネルギーが吹き上げてくる。彼には社会集団全体が一つの生命体のように見えていたらしい。

 ワーテルローの会戦が恐龍どうしの格闘のように描かれ、下水道のあるべき姿について熱弁をふるった箇所がいみじくも「巨獣のはらわた」と題されているのは決して偶然ではない。ユゴーにとっておびただしい兵士を擁した野戦軍は一頭の肉食獣であり、無数の市民の生活するパリは内臓をゴロゴロいわせた草食獣なのである。そうであればかわいそうな人の悲劇はその人一人の孤立した苦しみではすまず、社会という生命体の病として、社会全体の苦悶として感受されることになり、悲劇を克服しょうという努力も巨獣の躍動という様相をおびてくる。一八三二年の共和派の反乱の場面など少数のはねあがりが立てこもった市街戦にすぎないのに、まるで世界戦争のようなスケールで描かれているのはそのためである。

 ユゴーの表現やジャン・バルジャンの活躍は近代小説を読みなれた眼から見ると、いかにも不自然で大袈裟である。ところがひとたび『レ・ミゼラブル』の文章の流れにのり、幻視家的なユゴーの眼を共有すると、そこには巨大な生命の推進力とでもいうべき力がのたうっているのが見えてくる。

 ミュージカル版『レ・ミゼラブル』を作った人たちはそのあたりのことがよくわかっていたのだと思う。あの舞台は主役級の人物でも出番のない時はその他大勢の一人として顔を出すという徹底した「群衆劇」だが、同時に台詞がすべて歌で、しかも同じメロディがさまざまに転調しながらさまざまな人物に唄いつがれていくというワグナー張りの造りになっている。

 社会集団が一つの巨獣だというユゴーのビジョンを舞台で表現するなら、こうするしかなかったはずだ。日本版の舞台は焦点となるファンティーヌとエポニーヌに岩崎宏美、島田歌穂という最高の配役を得る幸運に恵まれたが(他の配役では、実力的には問題なくとも、声が融けあわない)、二人の歌うアリアが同じメロディだと気がつく瞬間、そして最後のジャン・バルジャンの死の場面に彼女たちが亡霊となってあらわれ、たった数小節だが、岩崎の慰めの歌に島田が声をあわせる瞬間(あの舞台でもっとも美しい数秒間!)など、原作のもっている幻視的な特質が痛切にあらわれている。

 最後に翻訳について一言したい。

 各社の文庫や文学全集で多くの訳が出ており、それぞれに特色があるが、長い話だけにどうしても出来不出来がある。ある章に入って読みにくくなったと感じたら、別の訳に代えてみるのも手だろう。その中では講談社の全一冊の辻昶訳(現在は潮文学ライブラリーで入手可能)は文章が明快できびきびしており、ムラもなく読みやすい。大きな本なので電車の中で読めないのが難点だが、この訳はお勧めできる。新潮文庫の佐藤朔訳もすぐれている。

 反対にお勧めできないのは岩波文庫の豊島与志雄訳だ。初版の銅版画が多数収められているという長所はあるが(それだけなら鹿島茂が『レ・ミゼラブル百景』(文春文庫)というおもしろい本を出している)、訳語・訳文とも古く、何とも読みにくい(歴史用語くらいは改版の際に現行のものに改めるべきだったろう)。また岩波の悪しき教養主義で「人生の教科書」とあがめたてまつっているからだろうか、原文に多い語呂あわせや洒落をそうと気づかず訳しているので、前後の意味がつながらなかったりこじつけに陥ったりしている部分も目につく。この翻訳は歴史的使命を終えたと言っていいだろう。

(Aug12 1988 『週刊宝石』)
Copyright 1996 Kato Koiti
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