「朝まで生テレビ」が回数を重ねている。「稔りのない議論」とか、「対話することの出来ない言葉の貧しさ」とかさんざんに言われているが、確かに、あそこで交わされている「議論」は不毛そのもの、話なんて噛み合ったためしがないのも事実だ。
だが、はじめから稔りなど期待せずに見るなら、動物園か何かみたいで、なかなか面白いのである。いつもとはいわないが、「ライオンと虎、どっちが強いか」式の興味をかきたててくれる回もあった。自然状態ではありえないそうした組み合せを実現させただけでも、番組は成功したといっていいが、忘れてはならないのものに、田原総一郎の巧みな司会がある。
田原は出演者をけしかけ、なだめ、からかいながら、巧妙に「議論」をさばいていく。あの司会ぶりは、ほとんど、猛獣使いの手妻といっていい。
今回、最初に紹介する『パソコン・ウオーズ』(日本ソフト・バンク1400円)は、現在も継続中の連載対談の一年分を一冊にまとめたものであり、猛獣使いとしての腕をパソコン界でふるった記録である。
田原には8年前に、黎明期のパソコン業界をあつかった『コンピュータ・ウォーズ』(現・文春文庫)がある。それはまだパソコンが海のものとも山のものともわからなかった時点でのルポルタージュであり、「ベンチャー・ビジネス」の名の下に、野心的な若者や敗者復活戦をめざすビジネス・マンがうごめいていた時代だった。
この最初の「ウォーズ」がNEC9801の勝利で決着がついたことは周知のとおりだが、現在、発達した半導体技術とソフト技術を背景として、第二の「ウォーズ」が戦われている。最初の戦いの焦点が「いかにして人間が機械にあわせるか?」であったのに対し、今回の戦いの焦点は「いかにして機械を人間にあわせるか?」である。その一点をめぐって、今、各メーカー、各ソフト・ハウスは知恵をしぼっている。
かつてほど攻撃性を全面に出してはいないが、敗れ去った会社の責任者に、「お宅の機械はなぜ負けたのですか?」と切り込むスリルはあいかわらずである。田原の最近の本は当り外れが激しいが、この本は当りに属する。
もちろん、連載をまとめたものだけに、上梓するにあたっては相当な手直しが行われている。一年一昔といわれるパソコン業界のこと、この加筆は必要なものではあるが、雑誌掲載時の臨場感が割引されてしまった部分もあるし、動物園が動物図鑑に代ってしまったような寂しさがないではない(もう少し対話的要素を残してもよかったのではないだろうか)。
だが、動物図鑑になったおかげで、見通しがすこぶるよくなったことも事実だ。われわれはこの本によって、パソコン界に棲息する猛獣、珍獣、怪獣の習性を的確に知ることが出来る。体長や頭数、棲息分布、得意技はどんどん変ってきたし、これからも変っていくだろうが、基本的な習性はなかなか変るものではない。田原が与えてくれる指針は、おそらく、長期にわたって有効なはずなのである。
田原が猛獣使いなら、ルポルタージュのもう一方の第一人者、猪瀬直樹はホルマリン漬けの標本を調べる博物学者の手つきで、過去の埋もれた事件や、見過ごしにされてきたエピソードを腑分けし、社会の変貌の軌跡をあとづけて見せる。
猪瀬の取材と構成の緻密さは名著『ミカドの肖像』で実証済みだが、その続編というべき今回の『土地の神話』(小学館1400円)では、関東大震災後の東京が数々の奇怪な曲折を経て、いかにして今日の東京になったかを浮かびあがらせ、さながら、もう一つの『帝都物語』の観がある。
いや、その奇怪さ、おどろおどろしさ、おぞましさは、映画の『帝都物語』をしのいでいるかもしれない。猪瀬は闇から闇に葬られたある疑獄事件を、標本室のガラクタの山から引っ張りだし、丹念に埃をはらい、ホルマリンから引きあげて、解剖台にのせる。そして、海彼では強固な思想(田園都市構想)であったものが、この国に招来されて道楽息子の趣味に矮小化し、さらには生臭い事業家の手にわたされて、単なる不動産業へ変質していったプロセスを復元して見せる。田園調布ブランドと東急グループの誕生である。あの疑獄事件から生まれた東京とは、現在の東京そのものだったというわけだ。ちょうど、子ネズミの標本と見えたものが、実は人間の胎児だったりするように。
しかし、猪瀬は過去の不正やスキャンダルを単にあばきたて、告発しようとしているのではない。『ミカドの肖像』で、明治天皇の「御真影」はインチキだとか、西武グループは皇族の土地をだまし取ることによって今日の大をなした、などという書き方をしなかったように、今度の本でも、東急グループは東工大の大岡山移転の汚職の中から生まれたなどという挑発的な書き方はしていない(そう受けとる読者もいるだろうが)。その代りに、御真影や軽井沢、田園調布の奇怪な成立事情を事実にもとづいて丁寧に後づける。
しかも、この丁寧さは、好物を前に舌なめずりするような情熱に裏打ちされているだけに、読んでいてすこぶる面白い。いや、それは情熱というよりは愛情といった方がいいかもしれない。新聞に金のばらまきを行った汚職役人にも、都市計画がかかえるダーティ・ワークとしての必然性を認めるように、猪瀬の視線は、フンコロガシに熱っぽい共感をよせるファーブルのように、対象に愛情を持っているのではないかと思わせることがよくあるのだ。そこには対象とする生物のいびつな器官の一つ一つ、異様な生態のすみずみまで余すところなく観察しつくそうとする、博物学者の冷たい興奮と複眼的な視点がある。
彼に正義派的な平板さを超えた展望の広がりを可能にしたのは、この博物学者的な愛情と複眼性であろう。
猪瀬の博物学者的資質がいかんなく発揮されたものに、『ミカドの肖像』、『天皇の影法師』という天皇制の秘密を解明した仕事がある。左翼的な天皇制批判の紋切り型の限界をこえ、とらえどころのない天皇制の秘密にせまった研究として、この二冊は画期的な達成であり、ルポルタージュの面白さを堪能させてくれる。
皇国史観にとって、網野善彦の中世研究(岩波ブックレット『日本文化と天皇制』にそのエッセンスがある)が打撃であったように、近代天皇制の権威を復活させようと画策する人々にとっては、おそらく猪瀬のような仕事こそ一番始末に悪いだろう。田原総一郎の猛獣使い的パフォーマンスとは対照的な、博物学的ルポルタージュというものを、猪瀬は確立したのである。
そういえば、昭和の名とともに逝った人は、クラゲの分類を専門とする博物学者だった。くねくねして捕らえどころのないものとつきあうには、自から博物学者になるしかないのであろうか。