藤村由加 『人麻呂の暗号』

加藤弘一

 わたしの通った学校の日本文学科には、昔から「国文学の三悪人」という言葉があった。

 どこまで本当か知らないが、丸谷才一、中村真一郎、加藤周一の三人の名前を出しただけで減点、肯定的に引用しようものなら、どんなにいいレポートを書いても、Dしかつかないという噂だった。梅原猛が『水底の歌』で柿本人麻呂刑死説を唱えるや、「三悪人」は「四悪人」になったそうである。

 「悪人」あつかいされているのは、おわかりのように、業界の枠をこえた視点で日本の古典を論じている人たちだ。丸谷の忠臣蔵論のように、初めからすれ違いになるしかない議論も無くはないけれども(あれは実証的な文学研究が踏みこんではいけないレベルの話だった)、「悪人」の創見によって、どれだけ古典本来の魅力が発掘され、見直されるようになったかは、今さらいうまでもないし、最近の若い研究者の仕事には、表だっては書かれてはいないけれども、「四悪人」の影響によって方向を定められたものも少なくないと聞く。

 しかし、この問題には「よそ者に畑を荒されたくない」という、専門家の縄張り意識だけとはいえない部分も含まれている。日本の古典文学だけを、「国文学」と呼ぶことに端的に示されているように(そう言えば日本史は長らく「国史」と呼ばれていた)、近代日本のデリケートな部分に直結しているからだ。

 岸田秀は近代日本人の自我は「黒船ショックによって傷つき、分裂した」といっているが、彼我の圧倒的な差を見せつけられた時、優れた西洋文明を模倣し、二流の西洋人(「名誉白人」)目指して、ひた走りに走る一方で、かたくなな排外主義的心情が生ずるのは、最近のイランを見ても明らかなように、普遍的な現象だからだ。

 そうした心情が、万葉集の「ますらおぶり」という誤読をみちびき、「明き直き清き」古代という幻想をはぐくんだ。古代日本に天皇中心の単一民族国家があったというのは、国家神道の儀礼同様、幕末の国学者がでっち上げた創作にすぎない。

 多分、柿本人麻呂の歌は、近代日本の歪みの影響を一番こうむった作品だった。どんな風に歪められたかは梅原の『水底の歌』『歌の復籍』にくわしいが、要は、「実証的研究」の名の下に、中世伝承が否定され、近代日本人の願望が読み込まれていったということである。

 このほど刊行された藤村由加氏の『人麻呂の暗号』(新潮社1200円)は、韓国語、中国語という光源によって、人麻呂の歌のもう一つの顔を明るみに出そうとする試みである。内容の一部は、以前、NHK特集で放映されているので、万葉仮名で表記された人麻呂の歌が韓国語としても読めるという説があることは多くの方が御記憶かと思う。その冒険がようやく本としてまとめられたわけである。

 一読しておもしろいと思ったのは、謎解きの向こうに著者たちが見ているアジア像である。

 人麻呂の歌だけに見られる万葉仮名の独特的な表記法を古代韓国語で読み解くという議論の当否はわからないが、かつて東アジアに存在したかもしれない多言語が交流する世界という仮説は想像力を刺激し、精神を刺激してくれる。

 クルティウスは『ヨーロッパ文学とラテン中世』で、シェイクスピアやダンテ、ゲーテ、という各国近代文学の始祖が決して孤立した存在でも、ゼロから出発したのでもなく、ラテン語という共通の言葉と教養の中から出てきた、インターナショナルな存在だということを、目の醒めるような筆致で描き出したが、古代の東アジアにも、漢字を媒介とした文化圏があったのである。戦前の教育を受けた人でも迷う旧仮名遣が、韓国語の発音に今でも保存されているという指摘はきわめて興味深い。

 この、かつてありえたかもしれないアジア交流圏は、地下水脈として、今も活発に活動している。冒頭に日韓フェリーでの体験が書かれているが、この愉快な書き出しは著者たちの構想の大きさを示している。インターナショナルな文化環境を書物の上で復元しただけでなく、現在のものとして実践したことは立派だと思う。

 おもしろいことはおもしろいが、ただ、この本には手放しで賞賛するのをためらわせるような部分もないではない。

 「藤村由加」とは四人の女性の共同ペンネームだそうだが、遊び心は結構だし、こうした研究が知的サロンというか、少女探偵団の楽しさの中から出てきたことを語ってくれた点でも評価したいと思う。クルティウスの仕事だって、サロン文化を抜きにしては考えられないのだ。

 しかし、少女探偵団の明智小五郎にあたる女性を「アガサ」と呼びかけるについては、何とも異和感をおぼえる。敬愛する気持ちは大事だろうが、つい、宝塚ファンが男役スターにあびせる嬌声を連想して、背中がムズムズしてくるのである。

 同じ知的サロンの産物とはいっても、クルティウスの浩澣で優雅な研究を育んだサロンと、この著者たちの属する語学学校は、パリ・オペラ座と宝塚大劇場くらい違うだろう。

 NHK特集で取り上げられたことを伏せたのも理解できない。取材で古代朝鮮歌謡の伝承者に人麻呂の歌を唄ってもらったら、ちゃんと韻律にかなっていたという場面(TV局のやらせでなかったとしたら、あれは大変な発見ではないだろうか)をなぜ書かなかったのか理解に苦しむ。

 もう一つ、人麻呂刑死説や赤人の鎮魂の旅について語るのなら、梅原の仕事について触れるのがルールのはずだ。まさか万葉集に興味を持っていて、梅原の議論を知らないはずはないと思うが、仮に、梅原の説をまったく知らない時点で思いついたのであっても、プライオリティが梅原にある以上、一言ことわっておくのが礼儀というものだ。著者たちは「アガサ」のカリスマに心酔するあまり、梅原というもう一つのカリスマに対して、拒絶反応を示しているような印象さえ受けるのである。ルールの問題だけではなく、人麻呂を論じる上でも、梅原説とのつき合わせは興味深いはずだ。

 梅原に対する万葉学者からの唯一と言ってもいい反論は、「梅原説は中世伝承に現れた人麻呂像の解明であって、現実の人麻呂がどうだったかについては判断を保留する」とする中西進の意見である。

 人麻呂の独特な万葉仮名表記に古代韓国語が隠れているという本書の指摘は、意味するところが大きい。それだけに、遊び心は遊び心として、もう少し書き方を考えて欲しかったと思う。

(Mar30 1989 『週刊宝石』)
Copyright 1996 Kato Koiti
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