ヒッポファミリークラブ 『フーリエの冒険』

加藤弘一

 60年代のアメリカに NEW MATH(新しい数学)という運動があった。

 数学は単純な算術から代数が生まれ、群論へすすみ、集合論へ抽象化されるという道筋を通って発展してきた。だが、原理的にいえば、集合論を基礎に群論が成立し、群論の特殊な場合として代数学があり、算術はさらにその一部に過ぎない。

 それなら、いっそ、はじめから集合論を教え、群論 → 代数学 → 算術と体系的に教えていったらどうか? 足算・引算なんかでもたもたするより、はるかに現代的で、能率的ではないか? というわけで、NEW MATHこと数学教育の現代化が国をあげて行われることになった。

 結果は? 惨憺たる失敗だった。膨大な予算と人材を投入したにもかかわらず、NEW MATHは効果がなかったばかり、大量の数学ぎらいを作り出してしまったのである。日本に科学技術で遅れをとったのは、NEW MATHのせいだとやつあたりする数学者もいるほどだ。

 このあたりの事情はプリンストン高級研究所時代、「長女がNEW MATHの教育実験の級に入れられるという不運」にみまわれた世界的な数学者、小平邦彦の本にくわしいが(『怠け数学者の記』岩波書店)、そもそもいきなり抽象の極みの集合論を教えることが、大人の一人よがりであり、子供の心の発達を無視した誤りにだったのである(日本でもそれらしきことは一時行われたが、幸い、形だけのまねだったために、毒にも薬にもならなかった。「集合の勉強」とやらを体験した方も多いはずだ)。

 『フーリエの冒険』(ヒッポファミリークラブ3605円)の評判を聞いたとき、まず、思い出したのがNEW MATHの話だった。小学生や中年オバタリアンにもわかる高等数学の本? 素人が書いた? 眉に唾をつけてから読むにこしたことはない。

 だが、この予想はみごとに裏切られた。とにかく、すばらしい本なのだ。わかりやすさもさることながら(それにしても、わかりやすい!)、どのページにも感動がつまっている。いゃ、章によって出来不出来があるので、「どのページにも」とはいいにくいが、3/4以上のページには、間違いなく感動がある。

 正確にいえば、これは数学の本ではない。確かに、最初のページから最後のページまで数学の話が書いてあるけれども、最終目的地はあくまで「ことばの謎」であって、数学は手段にすぎない。その点がつねに押えられているので、議論の見通しがすこぶるよく、不毛な抽象の森に迷い込まずにすむのである。

 考えてみれば不思議な話である。体系的に習ったのでもないのに、子供はなぜことばを習得できるのか? 知らず知らずのうちに聞こえてくる雑多な人の雑多なことば、オシロスコープで見ると、千差万別な波形を描くことばを、子供はどうやって聞きわけるようになるのか?

 音声をことばとして判別できるならば、そこにはなんらかの秩序がかくれていなければならない。しかも、幼い子供が自然に習得するのだから、簡単な秩序であるはずだ。では、それはどのような秩序なのか?

 こうして、音声にひそむかくれた秩序を求め、冒険がはじまる。フーリエの冒険と呼ばれるのは、音声という波動を分析するのに最大の武器となるのが、ジョゼフ・フーリエの研究したフーリエ級数だからである。

 もちろん、級数である以上、数学的表現(数式)は不可欠で、事実、本書にはおびただしい数式が氾濫することになる。

 と書くと、かなりの方がしりごみしてしまうかも知れない。だが、この本で本当に感動的なのは、数式という抽象的表現の誕生現場に立ち会い、数式というものの意義、うつくしさ、すばらしさを追体験して、これもまた「ひとつのことば」なのだと発見していく部分なのである。本書がむずかしい内容をわかりやすく書いただけの啓蒙書ではないのは、実にこの点にある。

 ウ〜ン、困った! もっと誰にでも、はっきりわかるように波の特徴を表したい!
 それをできるのがフーリエなのだ。なめらか とか ギザギザ ではなく、誰にでも通じることばで表せる。それが数式のいいところである。(『フーリエの冒険』

 しかも、数式ということばは万国共通語だし、いくつかの約束にしたがえば、かくれた秩序のエッセンスを、簡潔に、ズバリ表現することが出来る。音声の蔭にひそむ「とても簡単でうつくしい秩序」を、そのままあぶり出すことが出来る。見えなかったものも見えてくる。ここには数式で表現することの悦びがあふれている。数学とはこんなにも面白いものだったのかと、読んでいて何度ため息をついたことか。

 冒険の詳細は同書を読んでいただくことにして、おもしろいのは、はじめは単純だったフーリエ級数が、ページを追うにしたがい、微分・積分・オイラーの定理といったアイテムを次々と獲得し、たくましく成長していくことである。この展開はフーリエ級数を相棒とするロール・プレイング・ゲームそのものだ。そして、大団円では、立派な勇者となったフーリエ級数もまた「ことば」としての限界をもつことが明らかになる。ゲームとしてもなかなか泣かせる結末である(時間の関係で試してみることは出来なかったが、実は、フロッピー2枚組のゲーム版もあるという。)。

 それにしても、こうした曲がりなりにも数学の本が、あの『人麿の暗号』をうみだしたのと同じ語学学校から誕生したのは興味深い(本としての出来はこちらの方が数等上だが)。

 知的好奇心と一口でくくってしまうのは簡単だが、何かを学びたいと本当に思ったとき、ここまで徹底的に、そしてたのしく出来るという実例を示してくれたことは、なにより心強い。そして、その意欲の旺盛さは、自由な場の確保ということのほかに、この学校独特の感性を全開にした、全身的な動きの中でのことばとのつきあいという方法論が大きく作用しているらしいこともつけ加えておきたい。

 ことばを聞く、話す、読む、書くというのは、歩いたり、笑ったり、歌ったり、食べたりすることと同様、全身的な行為なのである。そうした身体性とのつながりを断ち切り、ことばをあたかも符号の羅列のように思い込んで、その操作だけをマスターしようとするなら、われわれは不毛な抽象性の中でいたずらに神経をすり減らすしかあるまい。操作に熟達したところで、どうしてこんな無意味なことをやらなければならないのかという焦立ちが身体の芯にわだかまっていくだろう。

 『人麻呂の暗号』はどこまで妥当かはともかく、古典を全身的に受けとめる読みの現場へ引き戻す試みだったが、『フーリエの冒険』は、音声の秘密を追いながら、はからずも数式というもっとも抽象度の高いことばを、自分たちのことばとして甦らせることに成功している。その意味でも、これはすばらしい冒険なのである。

(May04 1989 『週刊宝石』)
Copyright 1996 Kato Koiti
本目次書評目次
ほら貝目次