以前、遊園地で仮面ライダー・ショーを見たことがある。
わたしは仮面ライダー世代ではなく、バッタのようなコスチュームに特別な思い入れもないが、あの番組は面白かったし、格闘シーンもよくできていたと思うが、それだけに、見るのではなかったと後悔した。カンカン照りの日差しの下でスペクターと戦うポーズを取る仮面ライダーは、ただただ見すぼらしく、滑稽で、もの悲しい代物でしかなかったから。
同じような幻滅を『覚悟!』という本で覚えた(弓立社1200円)。本書は「朝まで生テレビ」でおなじみの二人の論客、西部邁氏と石川好氏の対談であるが、「生テレビ」の迫力はこれっぽっちもないし、特に隠れ西部ファンであったわたしは、見てはいけないものを見てしまったような後味の悪さを覚えた。
よく、西部氏の発言はわかりにくいと言われるが、わたしはそうは思わない。
氏の言っていることはすこぶる常識的なことであり、論理も整然としている。個人を最高の価値としたために、大衆社会はあらゆる権威の失墜まねき、頽廃とニヒリズムを蔓延させたという批判を否定できる人はいないだろう。しかも、単に批判するだけでなく、伝統への回帰によってニヒリズムから脱却できるとする処方箋もすこぶる明快なものに思われた。
とりわけ、生テレビでの悪役ぶりは堂にいっていた。この人の出ない「生テレビ」の退屈さを考えれば、誰しも氏の価値は認めざるをえないはずだ。わたしは、この人の本領は、黒木香嬢と同じように、対談にあるのだと考えることにしていた。
だが、どうやらそうではなかったようだ。わたしは西部氏の新保守主義について、大きな誤解を犯していたらしいのだ。
この本で何より驚きだったのは、西部氏が新天皇の朝見の儀を日本の伝統を体現した神(新天皇)と、国民の総意を体現した神(竹下前首相!)との間で行われた「神々の儀式」と規定し、その上で神々しさが足りなかったと批判していることである。
これは天皇と臣民を同列においたにひとしく(少なくとも、両者に程度の差はあっても、質の差はない)、事実上の天皇神格の否定である。
それだけではない、南北朝期に天皇家の血統がとぎれているとする説に対しても、西部氏は皇統を「フクション」と呼び、万世一系の血筋の継承という理念を相対化してしまっているのだ。
「たまたま平民、たまたま天皇」という言葉があるけれども、西部氏はそうした近代社会のニヒリズムを前提とした上で、天皇の権威があたかも存在するかのようにふるまおうと主張していたのだ。つまり、西部氏の天皇主義は、何も信じるものがないから、とりあえず天皇でも信じるかというデモシカ天皇主義なのである。
南北朝のことはともかく、一九五九年、今から三十年前、美智子皇后が平民社会から皇族になられた。そこでも血の問題が起こったわけですね。ぼくはあのころ大学の自治会室にいたら、名前は忘れたけれどもある右翼集団から手紙がとどいた、平民の血を入れていいのか、連帯して共に立とうと(笑)。物理的生物的にいえばそうですね。ただぼくは、それもあまりこだわらないことにしている。美智子皇后が出自として平民であろうが、フィクションだから、皇室に入ったとたん、あの方は摩訶不思議なルートを経て皇族に属する宿命をもっておられたのだと思いなすことにしたわけです。
ここには素朴な天皇崇拝の心情に対する冷笑がある。ありていにいえば、西部氏の説くところは常識的な進歩派知識人と変わるところがなく、氏もまた、右翼の蒙昧ぶりを笑っている一人なのだ。
進歩派知識人のニヒリズムを糾弾する西部氏自身の中核に、このようなニヒリズムが巣くっているとなると、氏の説く「伝統」はどうなるのだろうか?
氏は現在生きている人間の考えることはたよりなく、間違えやすいから、国民の総意というなら、死者をふくめた全国民の総意でなければならないという論法で語ってきた。過去の人々のつくりなした知恵が伝統だというわけである。
この考え方自体はすこぶるわかりやすいし、また説得力があるとわたしは感じる。
だが、その一方で、西部氏は伝統はすでに失われてしまったとも語っているのである。伝統は失われたが、あるものとしてふるまっていこうというのだ。
そうだとしたら、西部氏が尊重しようとする「死者」とは何なのだろう? いったい、誰がその「死者」の意を汲むのか? 「死者」の言葉はどこに残っているのか?
西部氏は「死者」の代弁者のようにふるまっているが、いったい誰が氏を代弁者に選んだのか? 「死者」の総体といったところで、結局、それは西部氏個人の頭の中での存在ではないのか。
ちょっと歴史をふりかえればわかることだが、実は、さまざまな死者がいる。軍神とされた死者もいれば、非国民とされた死者もいる。何がなんだかわからずに、空襲の中で死んだ死者もいる。もうすこし時間をさかのぼれば、尊皇攘夷のために死んだ死者、朝敵として死んだ死者もいる。
そうしたさまざまな死者の言葉を一括りに出来る「伝統」があるのかどうか疑問だし、もしあるとしても、それは少なくとも西部氏の頭の中にあるような「伝統」ではあるまい。
わかりやすい例は靖国神社である。あの神社は国のために死んだ人を祭る場所ということにされているが、正確にいえば、天皇家のために死んだ人のための神社であって、朝敵とされた会津の白虎隊の少年たちや、徳川方として北陸戦争、函館戦争で死んだ人たちは含まれていない。西南戦争の西郷方の死者たちも、もちろん、除外されている。
そうした生々しい歴史を直視した上で、なおかつ靖国神社は国民の統合に必要だという議論ならわかるが、死人に口なしをいいことに、勝手に死者の代弁者のような顔をする西部氏のやり方は、結局、進歩派知識人の無責任の轍を踏むものではないのだろうか。
最後になったが、こんな水増しだらけの本よりもはるかに中身のこい、面白い本が出ている。『長崎市長への七三〇〇通の手紙』である。出版の是非をめぐって、NHKの番組でも評判になったいわくつきの本だが、市長への手紙をまったくありのままに収録したこの本の出版は、市長発言に批判的な人々にとってもよかったのではないかというのが印象である。
さまざまな意見が寄せられているが、何といっても右翼的な意見がすごい。ところどころにはさまれた肉筆の写真も迫力がある。これも日本だと知るために、一度は手にとって欲しいと思う本である。