ある哲学者が「ミネルバの鳥は夕暮れに飛び立つ」と書いたことがある。学芸の女神ミネルバのお気に入りといえばフクロウだが、ここではフクロウで寓意される哲学のことを指しているのである。ある時代を総括するような哲学は、その時代の終ろうとする時にあらわれるというのだ。
70年代後半から80年代前半にかけて、SF的といわれる小説が「純文学」作家によって、次々と書かれたことがある。それは山奥の架空の村の歴史を描いた小説だったり、日本に独立戦争を挑む東北の村の小説だったり、闇に蠢く秘密結社や台湾独立運動の物語だったりした。
本当はSFとは何の関係もなかったのだが、それまでの小説が個人の心理に立ち入ったり、現実の社会の題材を微視的に描いたりしものばかりだったので、大仕掛なフィクションで巨視的に国家や権力の問題を描こうとした作品は、とりあえず、SF的と呼ぶしかなかったわけである。
なぜ、あの時点で、急に大仕掛な小説が書かれるようになったのだろうか? ラテン・アメリカ小説の紹介が進んだとか、カート・ヴォネガットがアメリカで流行したとか、いろいろ理由はつけられるだろうが、今にして思えば、あれは昭和という時代が終焉のきざしを見せた一〇年間だったのである。意識的に時代の締めくくりをつけようとしたわけではないだろうが、作家の直観は終焉の気配を何がしか感じとっていたに違いない。作家たちは、意識すると否とにかかわらず、小説の新しい形態を選ばなければならなかったのだ。
そして、本当に昭和が終った後で、あの一〇年間の小説を総括する批評があらわれた。蓮實重彥『小説から遠く離れて』(日本文芸社1300円)である。
蓮實がここで取り上げているのは、村上春樹『羊をめぐる冒険』、井上ひさし『吉里吉里人』、大江健三郎『同時代ゲーム』、村上龍『コインロッカー・ベィビーズ』、石川淳『狂風記』といったSF的と呼ばれた小説だが、さらに丸谷才一、中上健次をも一網打尽にしている。
蓮實のことであるから、時代と小説の関係などということを大上段にふりかぶって問うような野暮なことはしない。彼は細心に、そしてすこしばかり気だるそうな手つきで、俎上にのせた小説に包丁を入れていく。民俗学者が民話を分析していくように、小説を説話にもどし、パターンを分類していく。
すると、興味深い事実が透けて見えてくる。あの時点の大仕掛な小説は、そろいもそろって、双子が宝さがしをするという共通の話型で書かれていたのである。しかも、その宝さがしは、申し合わせたように、黒幕的権力者から依頼されたもので、王位継承とか、少数者の共同体に係わるものなのだ。
取り上げられている作品を読んだことのない人は、話がうますぎる、態のいいこじつけではないかと思うかもしれない。しかし、一通り読んだ人間として受け合うが、蓮實の分析はまったく正しい。こじつけではないかと疑いたくなるような事態が、あの一〇年間には確かに存在していたらしい。
これは発見には違いないが、子供っぽく大喜びするようなはしたないことは蓮實はしない。構造分析とか、神話の論理とかを信じるほど、彼はウブではない。しかし、補助線として使うなら、結構役にはたつ。では、補助線によって、どんな光景が見えたのか。
われわれは、それが剽窃ではないにもかかわらず、類似や模倣や反復ばかりがきわだってしまうという現状に、かつてない興奮を覚えずにはいられない。それは、この三人の作家に限られたわけではない現代日本の長編作家たちが、しかるべき特定の作品をモデルとして書き始めた結果、ある種の類似に陥ったのではなく、まさしく模倣すべきモデルを欠いていたが故に、必然的な類似を生きつつあることへの慎み深い共感だといいかえてもよい。彼らは、そうする必然性を感じぬままに、視界には浮上していない不可視の物語の解読を試み、その結果、はからずも同じ一つの物語を語り始めている。そうすることで実現する文学的な光景の平板さは、それじたいとして、すぐれて文学的なものだ。
この退屈そうな口調は、蓮實としてはかなりの賛辞である。注意深く言及が避けられているが、「文学的な平板さ」の裏には、時代の秘密がひかえているからだ。「不可視の物語」とは時代の物語なのである。
では、それはどんな物語か? 「小説の無根拠な生成」「分身と激励」と題された二つの章は、蓮實が小説を論じた文章としては異例なくらい熱がこもっていて、映画を論ずる時と同じくらい率直である。彼によれば、黒幕と対決する双子という時代の共通テーマは、父親に反抗する息子のテーマであるが、しかし、そこに描き出される三角形は、近代小説が依拠してきた父親=母親=息子というエディプス的な逆三角形を倒立させたものだという。当然、父母の性的な結合に息子が嫉妬し、わりこむという市民社会的な物語ではなく、双子の兄弟ないし兄妹が、同性愛的・近親相姦的結合によって励ましあい、団結し、父親と戦うという物語が成立することになる。これはどう考えても、前近代的、うっかりすると古代的な物語である。あの十年間の小説は何かに憑かれたように、このような物語をなぞっていたのである。それはなぜなのか?
しかし、蓮實はここで身をひるがえし、ふたたび「文学的な平板さ」の恍惚の中へもどってしまう。小説から一度は離れるものの、時代そのものを問うことは、彼の趣味にあわないらしいのだ。
もっとも、不思議な暗合というか、時代の必然というか、『小説から遠く離れて』と呼応するような本が時を同じくして出ている。栗本慎一朗と田原総一朗の対談『闘論・二千年の埋葬』(文藝春秋)である。
「闘論」などとは銘打っているが、栗本と田原は対決するどころか、まるで蓮實が分析した双子たちのように励ましあい、時には同性愛的親密ささえ漂わせて、時代の深層を抉るつきつめた分析を展開している。
縄文文明の高さと弥生文明の野蛮さは最近の発見でもはや動かせないが、この両文明が並立する二重国家として出発したために、日本は天皇制を必要としたという説や、昭和天皇は二千年の歴史を埋葬する決断をしたなどというくだりにいたっては、超能力を語った部分以上に眉唾に思うかもしれない。しかし、このような本が出たということ自体に、時代の変わり目を見る思いがする。ひょっとしたら、終ったのは昭和だけではないのかもしれないのである。