大和和紀という漫画家に『あさきゆめみし』という作品がある。『源氏物語』の漫画化としてはもっとも成功しているといってよく、一部では「大和源氏」と呼ばれているほどである。
舌を巻いたのは、原作に忠実な点だ。冒頭の「桐壺」にあたる部分こそ潤色がくわえられているものの、あとは原作そのまま、実にきちんと漫画に移してあるのだ。しか、単に忠実というだけではなく、大和自身のオリジナルではないかと思うくらい自然で、彼女独特の強い線も潑剌と呼吸している。
驚くべきことに、いかにも少女漫画的なギャグがその通りの形で原文にあったりする。こみいった心理の綾も丁寧にたどられていて、あの場面はこういうことだったのかと教えられたこともすくなくない。もちろん、絵にしてしまったために、原文のもやもやとした複雑微妙な雰囲気が単純化してしまった点はあるけれども。
こんなことが出来たのは、大和和紀の力量といれこみようもさることながら、『源氏物語』には今日の少女漫画にも通じるような要素もたっぷりと含まれているからだろう。
読まず嫌いの人にはわかってもらえないかもしれないが、『源氏物語』は普通思われているよりは、よほどわれわれに近い小説なのである。千年前の貴族社会の話だとはいえ、登場する人物は身近にもいそうなタイプだし、人間関係の機微などもそのまま現代の漫画になってしまうくらい共通点があったりする。そういう親しみの持てる人間模様が、立派な風格で、平安朝の濃艶で豪奢な歴史絵巻の中に映し出されているのである。楽しいといえば、こんなに楽しいことはない。源氏フリークといっていいような人が少なくなかったり、田辺聖子の熱烈な源氏礼賛のエッセーが広く読まれたりしているのは、すこしも不思議ではないのである。
今回紹介する『光る源氏の物語』(中央公論社上1200円、下1300円)は、当代随一の源氏フリーク二人が、『源氏物語』の魅力を各巻に即して、筋を紹介しながら、部分訳もまじえ、こころゆくまで語り合った対談である。
源氏フリーク二人とは『日本文学史早わかり』という挑戦的な通史を試みた丸谷才一と、日本語古典文法について、あと30年は論議の的になりそうな斬新な体系を提唱した大野晋であるから、ただの対談ですむわけがない。
実際、まじめな国文学の先生が読んだら怒りだしそうな話題が次々とあらわれる。
たとえば、早く失われたとされる「かかやく日の宮」の巻についての驚くべき推定(大胆だが、ひじょうに説得力がある)。
あるいは、丸谷と大野は源氏と女たちが出会う場面の一々について、交渉があったかなかったかの議論。いゃ、男女の交渉だけでなく、源氏と家来の男色関係にまで、追及はおよぶ。
そんなことが重要なことなのだろうか? 紫式部がせっかく曖昧にぼかして書いたことを、はっきり明るみにだしたとて、意味があるのだろうか?
しかし、肉体関係があるかどうかの詮索は、こんな読みを生む。
私は「箒木」の後半と「空蝉」を通じて、これは非常にいい部分だと思う。それは単に空蝉の肖像がよく出来ているだけではなくて、そのそばに小君への男色事件をおいたために、喜劇的なものと悲劇的なものとの取り合わせがたいへん上手にいっている。……男色を小道具に使って女に言い寄る男というのを置いたために、この色模様がなんだかひどく面白くなってきた。単に人生論的に面白いだけではなくて、さっきの出世の道具としての男色といったものが入ってくることによって、社会論的にも非常に味が濃くなってくる。
問題の小君は源氏が失脚すると掌を返したように離れるが、都に返り咲くや御機嫌取りにやってくるという打算的な青年に成長する。源氏は彼の浅薄さを承知の上で家人にまたとりたてるが、そういう青年が源氏と肉体関係があったかどうかは小説の奥行きを左右する重要な要件だし、源氏の政治家としての凄味にもかかわってくる。
もっとも、いくら意味のある議論だからといって、やったかやらなかったかを研究書や評論の文体で大真面目に議論するわけにはなかなかいくまい。対談だからこそ光をあてることの出来た話題といってよい。
もう一つ、対談の気安さで取り上げることの出来た話題に、紫式部の小説家としての力量がある。現代の小説家と文法学者は、文章・小説技術の両面にわたって、ここは上手い、ここは下手と、具体的に歯に衣着せぬ率直さであげつらっているのである。
神をもおそれぬ傲慢さと見る向きもあるだろうが、読者としてはこんなにありがたいことはない。議論として面白いだけではなく、やはりあそこは退屈して当然だったのかと安心できるからである。胃潰瘍をおこす紫式部という推測も楽しい。
それだけではない。技量の進歩を論議することで、成立論の問題がこれまで以上にはっきりしてくるのである。
近世国学の気風から抜けきらない学者は頭から否定しているらしいが、『源氏物語』の成立をめぐって、「若紫」系と「玉鬘」系をわける考え方がある。「源氏」のストーリーに首尾一貫しないところが散見するのは周知のことだが、この説は、源氏誕生の「桐壺」から栄華をきわめる「藤裏葉」までの年代記的な部分が最初に書かれ、つぎに空蝉、夕顔、末摘花、玉鬘の四人の女性をめぐるエピソードがはめこまれために、不整合が生まれたとする。大野はこの説の有力な推進者の一人だが(岩波古典叢書『源氏物語』)、技術的な問題を具体的に見ていくことで、この立場がもはや動かしがたいものであることは誰の目にも明らかなはずだ。
国文学者が成立論を嫌う気持ちもわからないではない。「もののあはれ」の粋ともいうべき作品が、大野たちの議論に従うと、理屈(漢意)をこねまわして作られた作品になってしまうからである。彼らにすれば、『源氏物語』は真心がほとばしって、おのずと形をとった作品であってほしいのだろう。
しかし、丸谷たちの対談には、「もののあはれ」とは「エロティックなもののありがたさ」だという、注目すべき指摘がある。日本はもともと母系社会の文化を持っていたが、儒教や仏教が入ってくることで、母系社会の原理が裏側に追いやられてしまった。だから、「儒教でも仏教でも、女があってはじめて男が生きられるというようには女の位置を認めていない。ところが『源氏物語』には、男がどんな女によって生きるものかということを語っている面がある」というわけである。
『源氏物語』の今日性というなら、「もののあはれ」、「色好み」の復権が一番大きいような気がする。