フランク・ローズ 『エデンの西』
ジェフリー・ヤング 『スティーブ・ジョブズ』

加藤弘一

 アップル社の伝説的な創業者、スティーブ・ジョブズの伝記がまた一冊翻訳された。フランク・ローズの『エデンの西 アップル・コンピュータの野望と相剋』(サイマル出版会上下各1800円)である。

 昨年末には、ジェフリー・ヤングの『スティーブ・ジョブズ パーソナル・コンピュータを創った男』(JICC)が出ているし、ジョブズをアップル社から追放したジョン・スカリーの自伝も訳されているから(『スカリー 世界を動かす経営哲学』早川書房)、われわれは毀誉褒貶はなはだしいパソコン界の英雄の物語を、対立した複数の視点から読むことが出来るわけだ。

 ジョブズといっても、一般にはほとんどなじみがないだろう。そもそも、彼が作り出したパソコンの傑作、マッキントッシュ自体、日本ではマニアの占有物にとどまり、肝腎のオフィスにはほとんど普及していない。

 なぜマックは日本の実務現場に受け入れられないのだろうか。

 値段が高いことも一因だが(NECの9801なら50万円足らずで満足のいくシステムが組めるが、マックだと倍の金額が必要だ)、文房具のように個人が気楽に使えるマシンを必要とする土壌そのものが欠けているということもあるだろう。大半の職場ではワープロは清書用としてしか使われていない。パソコンはまだまだ会社村の中には根づいていないのだ。

 皮肉なことに、日本ではマックも一つの高級ブランドと化してしまっているが、コンピュータを空調ルームに鎮座まします御神体の座から日常の生活の場に引き下ろし、個人の相棒としようというのが、マック・プロジェクトの出発点だった。そして、それを妥協の余地なく推進したのが、ジョブズだったのだ。

 当然、軋轢が生まれた。ジョブズは決して行儀のいい若者ではなかった。彼は学校をドロップアウトしたヒッピー青年で、インドを放浪したこともあれば、菜食主義から果食主義に先鋭化し、果物だけ食べていれば風呂に入る必要はないと信じていた(周囲の人間は彼の体臭に辟易した)。しかも、最初の製品の成功で若くして巨万の富をえて、有頂天になっていた。これではトラブルが起こらない方が不思議である。

 熱に浮かされたような大人子供と、実直で厳格な実務家の対立というお決まりの葛藤は、第一幕では大人子供の勝利におわった。アップル社の初代社長、スコットは追放されたのである。絶対権力を握ったジョブズは、スコットの後釜として、ペプシ・コーラを世界一に押し上げたスカリーを迎えたが、間もなく、大人子供対実務家の対立がぶり返した。第二幕で追放されるのは、ジョブズの方だった。

 『スカリー』は実務家の目から見たアップル社のお家騒動が山場だったが、『エデンの西』は同じ時期をジョブズに同情的な立場から書いている。もちろん、ジョブズの経営者としての未熟さは明らかだったし、ジョブズ退陣後、スカリーによってアップル社の業績が持ち直した事実がある以上、白を黒と書くわけにはいかないが、著者は当時のアップル社の業務管理システムの不備(満足にコンピュータ化されていなかった!)や、巨人IBMに立ち向かう唯一の武器が広告活動だったことをあげて、ジョブズを弁護している。

 『エデンの西』のジョブズ擁護はある程度成功しているが、ジョブズの真価を捉えているかとなると疑問が残る。ローズが同情しているのはビジネスの素人として孤軍奮闘するジョブズ、世間知らずで無力で傲慢なジョブズであって、なぜ、それだけの男がカリスマとて有数の技術者集団を魅了し、君臨したのかは視野の外にあるらしい。そのことはジョブズのヒッピー時代の行動を、単なる奇行としか捉えていないことと無関係ではない。ジェームズ・ディーンの映画をもじって『エデンの西』と題した所以だろう。

 ジョブズのインド放浪や、麻薬、菜食、自然農法の農場での生活は、確かに、当時よく見られた反体制気取りの典型であって、保守的なジャーナリストから見れば、単なる「若げのいたり」にすぎないだろう。しかし、彼をヒッピー・ムーブメントに駆りたてた力が、同時にパソコンの伝道者としての原動力ともなったことは否定できない。

 ジョブズのそうした面の魅力については、ジェフリー・ヤングの『スティーブ・ジョブズ』が伝えている。

 こちらの本は、ジョブズのスキャンダルを暴いたとして、パソコン誌では評価が芳しくなかった本だが、わたしはこの本がジョブズに対して特別に厳しいとは思わない。

 なるほど、環境原因説で決めつけているような部分もあるし、養父母やアップルの古参社員に対する扱いとか、株をめぐる確執など、記述はかなり辛口であるが、アメリカ人の書く評伝としては、この程度のシビアさは珍らしいことではないし、何より文章が平明ですぐれており(翻訳の出来もよい)、60年代から70年代にかけての若者のカウンター・カルチャーやシリコン・バレーの熱っぽい雰囲気が、丹念な取材を元に描きだされている。

 従来、断片的に伝えられていた事実の意味が、この本によって、はっきりした例も少なくない。たとえば、ジョブズがオレゴン州のリード・カレッジを中退したところまでは知られていたが、日本では成績が悪かったので地方の学校へしか入れなかったようなニュアンスで伝えられていた。だが、実際はこの大学は授業料の高いリベラルな校風のお坊っちゃん学校で、ジョブズは決して裕福ではない養父母の愛情を試すために、無理を承知で選んだというのである。

 ジョブズは公式にはこの学校を半年で退学してしまうが、学生寮に勝手に居すわり、その後一年にわたって風呂に入らず、破れたシャツとズボンで、マリファナびたりの気ままな学園生活を送る。そういう風来坊を許していた土地柄と時代があったからこそ、まったくのゼロから世界的企業が生まれたともいえる。

 「全地球カタログ」に代表されるカウンター・カルチャーへの共感に満ちた記述を読むと、ヤングはそういうジョブズを育てたあの時代のアメリカに、誇りに近いものをもっているのではないかという思いを持つ。それだけに、自らをはぐくんでくれた時代と友に対して、裏切りに近いドライな態度変更をしてみせた実業家ジョブズに対しては点数が辛くなるのかもしれない。

 今日、パソコンはビジネスとして成立しているが、根本のところに個人が世界と直接つながるというカウンター・カルチャー的な志向があることを忘れてはならない。それを忘れたなら、われわれはパソコンに使われるだけになってしまうのだ。

 現在、ジョブズはNeXT社を起こし、画期的な環境を提案して、再起を図っている。技術的に新しいものはないが、それはマックも同様だった。第三幕がどんな展開になるか……ジョブズの伝記はこれからも書かれるだろう。

(1990 『週刊宝石』)
Copyright 1996 Kato Koiti
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