日野啓三 『どこにもないどこか』

加藤弘一

 日野啓三の『どこにもないどこか』に収められた六篇は、いずれもこの作家らし丹念に彫琢を凝らした短編だが、作品として丁寧に仕上げられていればいるほど、その丁寧さが作品の本質から乖離したもののように感じられてくるのだ。

 たとえば、「林でない林」はサイゴン特派員である主人公と、ゴム園を所有する裕福なフランス人植民者夫婦との再会の物語であるが、バラードのバーミリオン・サンズものの貴婦人を思わせるような夫人の肖像が端正に描かれていればいるほど、その夫人の肖像が作品と無関係なものに思えて来る。それは分厚い手袋ごしに物に触れているようなもどかしさであるが、しかし、そのもどかしさが短編にリァリティをあたえていることも否めない。日野は意匠を凝らすという回り道をすることで、そのもどかしさと戯れてもいるのである。

 急いでお断りしておくが、わたしは小林秀雄流の意匠理論を持ちだして、日野の文学趣味を批判しようというのではない。小林の理論にしたがうなら、作品の意匠とは別なところに、作家の「顔」なり、「宿命」なりが厳然と存在することになるが、日野の意匠の向こう側にあるのは、「顔」や「宿命」といった個的なものではありえないからである。

 ランボーを下敷にしたとおぼしい天才写真家の作品について、日野は登場人物にこのように語らせる。

 うまく言えなくてすまんが、実は余分の、仮の、偶然のものが消えて、本来の世界が現れたという気がした。名づけられるものが消えて、物そのもののような残骸と空虚、それだけなんだが、世界とは基本的にこういうものなのだ、と自然にわかった。

 もし、この「残骸と空虚」を「ザラザラした現実」と置き換えたなら、「ここはアビシニア」という短編は、小林秀雄のランボー論を絵解きしたにすぎないだろう。たった一冊写真集を出しただけでカメラを捨てた天才写真家の内面のドラマを探るというような、まとまりのよい短編に終ったことだろう。しかし、日野は小林の「宿命」観によりそう動きを見せながら、最後のところでためらいがちに立ちどまる。

 遠井君の写真は、そこに何が写っているかということより、何が写されてないかということ、彼がファインダーのフレームの外へ追い出したものの方が重要なのだ。新しいビルも自動車も並木もきれいな店も人波も工場も写っていない。東京は写っていない。オリンピックも写っていない。そんなものみな現実じゃない、と彼の写真は毅然と宣言している。わしはそう見た、そう聞こえた。

 廃墟は廃墟そのものとして意味があるわけではない。廃墟の風景は別の風景(繁栄した東京)の否定としてだけ意味があるというのだ。つまり、印画紙に定着された個々のものは否定としてのみ存在する。写真家が写したのは個々のものではなく、個々のものを包むように広がる欠落感であり、まさに「空虚」さそのものなのだ。

 「背後には何もないか」では、こう書かれている。

 これがおれの本当のあり方なのかもしれない、と男は繰り返し思う。おれはこの透き通って充実している無辺の空間であって、同時にその中を自由に漂う小さな点だ。

 「おれ」には朝鮮戦争直後のソウルで特派員として活躍したという、うなされたっていいくらいの重い過去がある。幼年時代の故郷の記憶も鮮やかだ。だが、そうした風景は、もはや「おれ」の根拠にはならない。東京の街が「何百枚か何千カットの、写真フィルムないしテレビ映像で組みあげられたイメージの城」にすぎないように、そうした記憶の中の風景も、トランプのカードと化して、アイデンティティを託すことなどかなわうわけがない。だから、「おれ」は「からっぽ」であることに、自己の根拠、アイデンティティを見い出している。

 「からっぽ」であること、「空虚」であることを「宿命」や「顔」と考えてはいけない。「宿命」にせよ、「顔」にせよ、それは個であることの根拠、個であることの意味づけであったが、「からっぽ」、「空虚」は個の否定以外の何ものでもないからだ。

 ここにはおなじみの自意識の球体もなければ、ザラザラした現実もない。いわんや、個であることからの逃避のドラマもない。ただ個のゆるやかな解体があるだけである。

 だが、個の解体の終点は「からっぽ」であることではない。個が解体し、人格が崩れ落ちていくとき、個の意識に映じていた現実もまた崩れ落ちて、別のものの到来を迎えるからだ。

 「岸辺にて」の主人公はこう語る。

 名声ある精神科医としての自分の権威、というような存在の土台そのものが、体ごと揺れる気がした。わたしは激しく当惑し底深い不安に浸され、同時にかつて覚えたことのない解放感のようなものも感じるのであった。

 アイデンティティを失うことが、なぜ、解放感につながるのか。彼の目の前には干上がって海底をさらした東京湾と、無様に土台をむきだしにした人工島がある。東京湾の中央を埋め立てた人工島はかつては新都心として繁栄を誇ったが、今は廃墟として寥々たる姿をさらしている。

 彼の医学者としての自信を最終的に打ち砕いたのは、この風景が彼の患者の少女の描く絵によって、あらかじめ予告されていたという事実である。

 いや、果たして予告していただけだろうか。彼の想念は「この子だけが現実を生きていたのではあるまいか」から、「この少女の狂った意識がこの現実をつくり出した」へと過激化し、ついには、無意識の同調という仮説にうながされて、自分もまた意識の深みで「この現実の出現に参加したのではないか」とまで考えるようになる。この現実は少女一個人の想念の産物ではなく、共同的な無意識の呼び起こしだというわけである。

 個を描くのが小説だとするなら、日野のこの新しい短編集は小説ではない。個の意識の溶解の後に到来する何ものかをまさぐろうとしているからだ。しかし、日野はまだ小説という形式に対して遠慮している。この遠慮を捨てたとき、日野の探求は新しい段階を迎えるだろう。

(Nov 1990 『群像』)
Copyright 1996 Kato Koiti
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