栗本慎一朗 『幻想としての文明』
柄谷行人岩井克人 『終りなき世界』

加藤弘一

 20世紀最後の10年間のはじまりにあたって予言的な本を二冊紹介しよう。

 予言的といっても、ノストラダムスでもなければ、バシャールでもない。栗本慎一朗、柄谷行人、岩井克人という今日の知の代表者が語った90年代の展望である。

 どちらも、80年代をしめくくる象徴的な事件だった社会主義の崩壊を思考の出発点にしているが、破綻したのはソ連型社会主義で真の社会主義には希望があるなどと姑息なことはいわないし、単純な資本主義勝利論もとらない。そうではなく、社会主義が資本主義よりも「原理的」に進んだ体制だと認めた上で、その「原理」そのものの誤りを大本から考え直そうとしている。つまり、新たな原理を提出しようとしているわけで、その意味でも両者は予言的な本である。

 最初に取り上げるのは、栗本慎一朗の『幻想としての文明』(講談社1200円)である。

 この本は「太陽による予言」として、週刊誌やテレビでセンセーショナルな取り上げられ方をしたので、マスコミ教授の書いた荒唐無稽な説というような印象をお持ちの方も少なくないかもしれない。しかし中味は決して際物ではない。。

 株にくわしい人なら、景気循環には3.7 年のキッチン・サイクル、11年のジュグラー・サイクル、22年のクズネッツ・サイクル、55年のコンドラチェフの波という周期があることは御存知だろう。コンドラチェフの波については定説がないが、最初の3つについては、それぞれ在庫循環、設備投資循環、建設循環と説明されている。

 このうち11年のジュグラー・サイクルについては太陽黒点の変動の周期と結びつける「非科学的」な説が発表されたことがあった。

 太陽黒点説はウェゲナーの大陸移動説に似ている。この説を唱えたジェボンズは太陽活動の活発化によって気温が上昇し、農産物の収穫が増え、経済活動が活発化するという説明を行ったが、黒点の増加は先進国のある中緯度地方では、気温低下をまねくことがあきらかになるにおよんで、無根拠な空論とされてしまった。状況証拠だけでは、偶然の一致にすぎないというわけである。

 だが、太陽観測が精密化した結果、偶然の一致ではすまされない事実が次々と明らかになった。太陽黒点の変動は11年だけではなく、22年、55年の周期もあることがわかったからだ。どちらも11年の倍数であり、しかもキッチン・サイクルの3.7 年は11年の1/3 で、エルニーニョ現象の周期にほぼ相当する。

 とりわけ、日本の吉村宏和の発見した55年周期は重要である。栗本の整理にしたがえば、1789−1848年の第一次産業革命時代、1848−1896年の第二次産業革命時代、1896−1945年の帝国主義再編時代、1945年から今日にいたる情報革命時代と近代の歴史がすっぽりおさまってしまうからである。

 もっとも、これだけだったらまだ状況証拠にすぎない。大陸移動説であれば、海洋底に残留地磁気の縞模様が発見された段階で、マントル対流説のような決定的な決め手とはいえない。

 栗本は太陽活動の変動と人間をつなぐメカニズムとして、生物磁気学をもちだす。伝書鳩が地磁気を頼りに飛んでいることはしられているが、近年の研究によると、生物にあたえる磁気の影響は広範なもので、人間の生理にも分裂病の発症数に影響するなど、数々の発見がなされている(『生物は磁気を感じるか』ブルーバックスにくわしい)。残念ながら、散発的な研究にとどまっているので、現時点では決め手とはいえないが、オカルト趣味と切って捨てるべきではないだろう。

 もっとも、太陽黒点説は栗本理論の眼目ではない。栗本の立場は、社会が独自の生理とリズムをもった生命体とする経済人類学に依拠していて、社会主義が目的とする「理想」に基づいた社会改造は、ソ連型社会主義であれ、ナチス型社会主義であれ、南米型社会主義であれ、無謀な美容整形のように、かならず社会の生理を破壊し、取り返しのつかない惨禍を持たらすとする。ペレストロイカなどは、若い頃の美容整形に無惨に失敗した老女を再手術するようなものだろう。

 では、腕のよい医者による手術ならよいのだろうか? そうではない。栗本は、成功したとされてきたケインズ流の漸進的な改革が、実は成功ではなかったという事実を明らかにした近年の研究を援用しながら、「社会による民衆の救済」説の出発点であるヘーゲルとキリスト教に遡り、人間主義的「理想」に基づく社会改造が不可能性である所以を説いている。まだ練りあげられたものとはいえないが、直観的にはうなづかせるだけのものになっていると思う。

 さて、柄谷行人と数理経済学者の岩井克人の対談『終りなき世界』も冒頭に明治と昭和の平行現象という、予言めいた説が述べられている。

 この説は、先に出た柄谷の『終焉をめぐって』でくわしく展開されているが、実際、明治22年の旧憲法公布と昭和21年の新憲法、明治37年の日露戦争と昭和39年の東京オリンピック、明治44年の不平等条約改正と昭和44年の沖縄返還、明治45年の乃木大将殉死と昭和45年の三島由紀夫自決等々、偶然の一致とは思えないみごとな対応関係を見せている。

 この明治と昭和の平行現象は、太陽黒点説で説明できるかもしれない。というのは明治元年は1868年、昭和元年は1926年で、57年の間隔を隔てているからだ。明治と昭和は、55年の吉村サイクルに対して、ほぼ同一の位相をとっていたのである。

 柄谷の直観は栗本の太陽黒点説とはまったく別個に、しかも先だって提出されているだけに興味深い。二人は背景とする伝統をまったく異にするが、一昔前の知識人だったら無視してしまうような「偶然の一致」や微細な対応に鋭く反応するという点でともに時代の体現者なのである。

 コメ問題についての発言やドイツの有利性を指摘した部分もあざやかだが、本書の圧巻は資本主義を根本的にとらえなおそうとした中ほどの部分だろう。従来、日本経済の特殊性を論じる議論は西欧に比べてどの程度遅れているかを中心に展開されたが、岩井は株式会社論を軸にイギリス型資本主義、アメリカ型資本主義、日本型資本主義を対等のものとして論じる青写真をしめし、柄谷はそれを受けて国別の資本主義を解体していく力としての世界資本主義論を提唱する。

 資本主義を「内なる遠隔地貿易」とする二人の議論は旧来の労働価値説しかしらない人には目のまわるような代物かもしれない。だが、異人によって市場社会が成立したとする栗本の経済人類学理論とともに、資本主義の怪物性を解明するもっとも先端的な知見なのである。

(Jan24 1991 『週刊宝石』)
Copyright 1996 Kato Koiti
本目次書評目次
ほら貝目次