この1月23日、ソ連は100ルーブルと50ルーブル紙幣の流通停止を布告した。3日間の猶予期間に労働者は1000ルーブル、年金生活者は200ルーブルまで低額紙幣に交換できるが、それ以上の箪笥預金は文字どおり紙屑になってしまうというのだ。
この措置は闇市場にはびこるマフィアを一掃するためとされているが、預金封鎖が同時におこわれたことからいって、GNPの40%強にのぼる過剰ルーブルを圧縮するための荒療治であることは明白だ。本当はシャターリン案やIMF勧告のように、そしてポーランドで成功したように、賃金凍結と物価値上げを同時におこなわないと尻抜けになってしまうが、ゴルバチョフはそこまでは踏み切れなかった。これで圧縮できたのは過剰ルーブルの15%程度にすぎず、どの程度実効性があるか疑問とされている。
ソ連経済は過大な軍事費と不合理な計画経済、農業集団化の悲劇の後遺症によって長く低迷を続けていたが、それでも外国に緊急の食糧援助を乞わなければならないほど追いつめられてはいなかった。急激な経済崩壊は実はペレストロイカの経済政策の失敗にある。
ペレストロイカの一環としておこなわれた「経済加速政策」は物価を統制したまま、賃金を毎年10〜15%上げるという不可解なものだった。生産の裏づけのないルーブル過剰発行でルーブルの信用は地に落ち、流通は破壊的な混乱におちいった。ついに豊作にもかかわらず大都市が飢えという非常事態にいたった。経済担当者の無知が招いた人災であって、これではブレジネフ時代の方がましだという声が出るのは当然だろう。
ソ連の行方はどうなるのだろうか? 今回はソ連経済の病状を診断した本を二冊紹介しよう。
最初の本は森本忠夫『ソ連経済730日の幻想』(東洋経済新報社)である。
著者は訪ソ77回、数々の大きな商談をまとめた経済人で、ソ連についての著作も多く、マスコミにもたびたびコメントをよせている。実務家としての豊富な経験にもとづく具体的な指摘がこの著者の真骨頂だが、本書はあえて体験ではなく膨大な統計データとソ連内部の論評にもとづきながら、あの広大な国の経済の現状を描こうとしている。
データ中心といっても、実務家の著者だけあって、数字の羅列にならないようつねに過去や他国の数字と比較しながら示しているので、素人にも意味がずしりと伝わってくる。
おびただしい滞貨を生みだし流通をさまたげる元凶として鉄道の不備が槍玉にあげられているが、本書によると、1982年に電気機関車の価格が倍になり、電気料金が56%引き上げられたにもかかわらず、鉄道料金は産業政策によって41年間据えおかれたままだという。当然、財源不足から技術革新はおろか、老朽車両の更新さえままならない。枕木は朽ち、レールの1/3は耐用年数をすぎ、貨車の1/4は19世紀の遺物というべき滑べり軸受で走行しており、しばしば事故の原因になっている。窮状は鉄道員の待遇にもおよぶ。ソ連は日本よりも住宅事情が切迫しているが(広い国なのに一人あたり居住面積は日本の半分!)、特に収益の悪い鉄道部門でひどく、1/3が倒壊寸前の家に住んでおり、一人あたり居住面積は労働者平均のわずか1/4だという。
非現実的な運賃を是正することが必要だが、産業の基礎である交通だけにその影響は大きい。計画経済の生みだした価格体系の歪みはよく話題になるが、一言に歪みといってもこれだけ深刻な内容を含んでいるのである。
本書には「未完工物件」とよばれる工事途中で放置されている膨大な建物群や、ペレストロイカの申し子として期待されて登場しながら官僚への賄賂なしには経営できないコーペラティフ(私営の中小企業)の実態、すさまじい環境破壊など、ソ連経済の病理が分析されている。困ったことにこうした問題はすべてからみあっており、一つを解決しようとすれば、他方が悪化するという三すくみ、四すくみの関係になっている。
どうしてこんな不条理な社会ができてしまったのか。『ソ連経済の歴史的転換はなるか』(ブラキンスキー&シュヴィゴドー講談社現代新書)は小著ながらその問題に正面から答えようとしている。
この本の二人の著者はモスクワ大学でマルクス経済学を研究した後、日本に留学して近代経済学を学び、さらに日本企業で数年にわたる実務の研修をうけた若い経済学者である。本書は翻訳ではなく日本語で書きおろしたというが、文章は明解で読みやすく、諧謔味さえただよわせている。
日ソ両国に暮らした生活者の目を感じさせる具体的な比較論も興味深いが、本書の眼目はソ連経済の問題点をマルクス経済学にさかのぼって検証した部分にある。何を今さらと思う向きもあるかもしれないが、われわれには非常識としか見えないソ連の「常識」を理解するためにはこの回り道はぜひとも必要なのである。
物がないといいながら、ソ連企業は信じられないような資源の無駄使いをつづけてきたが、森本の本でも指摘しているように、これは無駄であれ何であれ、コストをかければそのまま代価がえられるという総生産高制の当然の帰結である。
無駄使いをすればするほど得をするという社会はなぜ生まれたのか? 著者たちによれば、その起源は労働だけが価値を生みだし、その投下量に応じて商品の価値が定まるとする労働価値説にある。
労働だけが価値を生みだすなら、労力をかければかけるほど商品は価値の大きなものになり、逆に労力がかからなければ、どんなに希少なものでも価値がすくないことになる。つまりどれだけ無駄使いをしようと、コストをかけた方が得をするわけである。
市場経済なら石油が足りなくなれば価格が上がるので、石油の増産や省エネ技術の開発がうながされるが、労働価値説にもとづく計画経済では石油生産の労力が一定なら価格は変わらず、増産や省エネ技術の開発にはつながらない。国家が政策的に価格を操作することはできるが、時間的なズレが不可避的に生じるので価格操作が逆効果になる危険性がつきまとう。
労働だけでなく、天然資源や土地、環境も有限であるという基本的視点が、前述のとおりマルクス経済学にはない。総生産量を増やすだけの「達成されたものからの計画化」はいずれ資源の希少性というネックにはまってしまう。市場経済なら、希少資源の価格が高騰し、産業構造を変化させることでそれに対応する。社会主義経済にはそのためのメカニズムがない。
幸か不幸かソ連は世界有数の資源国だったために70年間浪費を続けることができた。その結果、干上がりかけたアラル海に代表されるすさまじいまでの環境破壊が残った。
一見非常に抽象的で、現実の世界になんの関係もない価値理論も一歩まちがえることがこんな恐ろしい結果を招く。「経済学は役に立たない」という見方が最近日本ではやっているが、逆にこういうことがいえるのは、まちがった経済学を強引に実行に移そうとしたことのない日本国民のぜいたくである。
著者たちはこうした観点から革命以来のソ連の経済史を再検討し、ソ連型社会主義経済が形成されてきた道筋を明らかにする。農村からの暴力的な収奪と収容所の奴隷労働に支えられたスターリン時代の経済制度(あれだけ犠牲を払ったにもかかわらず、帝政最後の十年間やネップ期よりも成長率は低かった)をマルクス経済学を逸脱したものと批判する人がいるが、ソ連が存続できたのは農民からの収奪と強制収容所のおかげであって、ああいう無惨な形でマルクス経済学の誤りの尻ぬぐいをしていたわけである。ゴルバチョフ指導部が改革派の経済学者や西側の警告にもかかわらず、ルーブル過剰発行の破壊的影響力に無頓着だった背景にはマルクス経済学の誤りがある。マルクスの創始した似非科学は最後の最後までソ連の民衆を苦しめるのである。