ゲームの終り
       ──吉目木晴彦 『誇り高き人々』

加藤弘一

 能登路雅子の『ディズニーランドという聖地』によると、さまざまなアトラクションがくりひろげられるディズニー・ランドのメイン・ストリートは、ウォルト・ディズニーの故郷であるマーセリンの開拓時代の風景を下敷にしているということである。

 実際のマーセリンは、典型的な中西部鉄道都市だそうだが、もちろん、そのメイン・ストリートは塵一つない清潔な街路であるわけではないし、ミッキーマウスやドナルド・ダックが住んでいるわけでもない。気候は厳しく、街路は泥と埃で汚れ、人間関係は「ワインズバーグ・オハイオ」に描かれた田舎町そのままで、さまざまな因習でがんじがらめにされている。

 そうしたよくある田舎町の風景を、ウォルト・ディズニーは、持前の構想力によって、「素朴であたたかみのある理想的共同体」の象徴にに持ち上げ、遊園地の中心によみがえらせたが、能登路によると、これはディズニー・ランドの成功の本質にかかわるという。この人工楽園を訪れた来園者は、単なる娯楽をあたえられるだけでなく、ひととき、よきアメリカ市民という理想化された自分を体験することになるからである。

 つまり、来園者は、入口をくぐってメイン・ストリートを歩いているうちに、アメリカ人であるとないとにかかわらず、すべて「よきアメリカ市民」というコスチューム・プレイに参加するわけである。ディズニー・ランドがただの遊園地ではなく、アメリカ文明を誇りにする者、あこがれる者なら、一度は巡礼しなければならない「聖地」だというのは、その意味においてだ。

 唐突だが、わたしは吉目木晴彦の長編小説『誇り高き人々』を読みながら、ディズニー・ランドの不気味さを思い出した。

 ディズニー・ランドを「不気味」と形容すると、何を野暮なとあきれる人がいるかもしれない。なるほど、ディズニーの仕組んだルールをすんなり飲みこんだ人には、ディズニー・ランドは何度行っても飽きることのない、地上の楽園だろう。しかし、ゲームの局外者には、あれは微妙に不気味な場所なのだ。特に浦安のディズニーランドでは、東洋人だらけの中を練り歩く金髪碧眼のシンデレラのパレードにも、ことさら言いたてるほどではないし、言いたてる方が馬鹿になるのだが、何ともいごこちの悪いものを感じるのである。

 吉目木の小説は、周美という山陰地方の架空の町を舞台に、そこに住むさまざまな小市民の生活を描いたものだが、登場人物は多かれ少なかれ、ゲームの局外者であり、地方都市の風景に微妙ないごこちの悪さを感じている。

 たとえば、元の網元で地方の有力者という位置にある稲垣俊次郎は、戦時中、応召したものの、偶然の出来事から精神異常と誤診され、即日帰郷となったという過去を抱えている。

 彼はこの事件以後、「いつ召集されるかわからぬ者達、あるいはすでに戦地に送られた者達とでは、この世界がまるで別のものに見えてしまう」のではないかという疑いにさいなまれつづける。彼は「共有の意味」を失ってしまったのかもしれず、ひとかどの名士となった後も、自分は「除け者」だと思いつめて、さまざまな奇矯のふるまいにおよぶが、困ったことに、この「除け者」意識は、歴然たる差別とは異なり、当人以外にはまったく意識されない。第三者から見れば、彼は国会議員候補さえ挨拶に来る結構な身分なのであって、敬して遠ざけることはあっても、「除け者」にしているなどとは誰も考えてはいないだろう。そして、そのことが、さらに齟齬を大きくし、彼をいらだたせる。

 いごこちの悪さを奇矯な行動にあらわすのは稲垣だけだが(彼は社会的地位のおかげで、少々の奇行なら許される)、他の登場人物も、同じようないごこちの悪さを共通してかかえこんでいる。そして、さまざまな視角から、この微妙ないごこちの悪さを語ることで、彼らをからめとった共同体が、徐々にその姿を浮かびあがらせる。

 この小説には、在日韓国人らしいパチンコの景品買いの男や、ポーランドから亡命してきた神父のような文字どおりの異邦人も登場するが、語り口はあくまで緩叙法で通され、そのことが共同体の隠微な支配力をいっそう実感させることにもなる。

 このように書くと、吉目木の小説もまた、封建的な共同体の規範と、個人の対決を描いた日本近代小説の系譜につらなると受けとられそうだが、そうではない。この小説が感銘深く、すぐれているのは、共同体の支配もまた、ゲームに過ぎないという地点で書かれているからなのである。

 稲垣の誤診のエピソードもそうだが、この小説ではいたるところに勘違い、齟齬が生じ、ついには取るにたらぬ誤解から、銀行の取りつけ騒ぎまで起こってしまう。齟齬は「除け者」となった個人を犯すだけでなく、共同体内部にも縦横に亀裂をいれ、絶対の現実と見えたものも、結局はゲームのプレイに過ぎないことがあきらかになる。ディズニー・ランドを思わせるお伽噺的な感触は、共同体をゲームと見る地点においてはじめて生まれたものだろう。

 共同体を一つのゲームとして相対化する視点は、最初の作品集『ルイジアナ杭打ち』におさめられた二つの中編にもすでに入っていた。表題作は、少年の目から見たアメリカの共同体との遭遇体験であり、「ジパング」は日本の共同体を異国として体験した経験から帰結したものであって、日米の共同体はともにユーモアという距離をおいてながめられているからだ。

 だが、従来の吉目木がとってきた少年小説的な結構は、そうした視点を飲みこみやすくした反面、衝撃力を弱める結果ともなったことは否定できない。少年は多かれ少なかれ異邦人であって、少年の感じた共同体への違和感なら、誰しも共感するからである。

 今回の小説では、吉目木は少年という特別席を捨てて、あえてごく当り前の小市民を描くという一歩を踏み出した。その成果はきわめて豊かなものであるだけでなく、共同体の享受してきた繁栄というゲームの終りをも暗示した点で出色のものである。

(Jun 1991 『群像』)
Copyright 1996 Kato Koiti
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