リンダ・ロンシュタットに「マイ・フェバリット・ソングス」というアルバムがある。「わたしのお気に入りの曲」という表題通り、ネルソン・リドル・オーケストラをバックに、ジャズの名曲を気持ちよさそうに歌ったレコードである。
出たばかりの頃は、あのアナハイムの歌姫の「お気に入りの曲」がこんなスタンダード・ナンバーばかりだったなんてとか、反抗的な若者もやがては年をとり、大人になるという成熟の物語を地でいくみたいだとか、ずいぶん当惑をおぼえたものだった。
しかし、中年になっても不思議に生活感のない、とろけるような美声で歌われたスタンダードの世界は、間違いなくリンダ・ロンシュタットのもので、続篇や続々篇もふくめて、いつのまにか、一番よくかける CDになった。
村上龍は『恋はいつも未知なもの』(朝日新聞社1200円)と、『コックサッカーブルース』(小学館1300円)をあいついで出したけれども、『恋はいつも未知なもの』の方は、数ページも読まないうちに、村上版「マイ・フェバリット・ソングス」だと思った。
村上の小説にはもはやロックの喧噪は響かないし、主人公もヒッピーでもなければ、捨て子でもなく、若いファシストでもない。彼らは虚業といっていいような業界ではあるが、それなりに経験をつみ、社会的な地位と経済力を築いた男たちで、カシミアのスーツを着こなし、聞きわけのいい愛人を持ってもいる。
特に幻のジャズ・バーを訪れた男たちからの聞き書きという体裁をとった『恋はいつも未知なもの』は、イタロ・カルヴィーノがタロット・カードやマルコ・ポーロ伝説でやったことを、ジャズでやったといえばわかりが早いかもしれないが、40篇のエピソードのそれぞれにスタンダード・ナンバーの歌詞が引用されており、「マイ・フェバリット・ソングス」とも重なっている。
彼らは反抗的な青年時代を若げのいたりと懐かしむような、年齢なりの成熟に達したのだろうか? そうであり、そうではない。
若さとか純粋さとかを絶対のものだと思いこむような幼稚さから卒業しているという意味では成熟しているが、同時に、その成熟に疑いをいだいてもいるからだ。成熟するとは、社会の秩序を受けいれ、自分もその一部になることだが、その秩序は本当に頼むにたるものなのだろうか。彼らはそれを疑っている。
幻のジャズ・バーの扉を開いた男たちの生活を直接揺さぶったのは、多くは恋の痛手だが、それはきっかけにすぎない。恋の挫折を契機に、彼らは「自分の人生がひょっとしたら間違っていたのかもしれない」という身のすくむような不安に直面する。それは、失われた青春を懐かしむとか、もっと別の有意義な人生があったのではないかと空想するとかいった類のセンチメンタルな述懐ではない。どんな人生であれ、すべては無意味ではないかという疑いであり、不安である。幻のバーの扉は、そういうどうしようもない寂しさ、落胆を知ってしまった者だけに開かれるのである。
『恋はいつも未知なもの』は、その不安をちらと横目でながめるだけで、スタンダードの密室的な心地よさの中に溶けこませてしまうという。その意味で、上質のエンターテイメント以上でも以下でもないと言えるかもしれない。
これに対して、『コックサッカーブルース』は、まぎれもなく文学であり、わたしの見るところ、『限りなく透明に近いブルー』や『コインロッカー・ベイビーズとならぶ傑作である。
この小説は、ハードボイルドのクェスト・ストーリーの体裁をとっており、おそらく、村上春樹の『羊をめぐる冒険』のパロディとして書かれている。『羊』の主人公は、ひょんなことから陰謀にまきこまれ、にわか探偵となって羊さがしをする破目に陥ったが、こちらの主人公も社会の裏側を支配する勢力の命令で、小市民的生活から引きずり出され、わけのわからない探索行に追いやられ、ついには同じように霊の存在にまでぶつかってしまうのだ。
彼が追いかけるものは、ヒロミという、SMクラブに籍をおいていた、筋金入りの変態娘である。当然、この小説には「羊」のような瀟洒な静謐はなく、登場するのも、各界の変態有名人や、頭のおかしな精神科医といった奇妙奇天裂な人種で、しばしば鞭や糞便の飛びかう乱行が演じられる。
村上龍が、なぜ、『羊』のパロディとしか思えない形で、この小説を書いたのかはわからない。案外、深い考えはなかったのかもしれない。しかし、この選択が結果的に大きな飛躍を可能にし、両村上の方向の違いをくっきり浮き彫りにしたのは事実である。
村上春樹の主人公は、いずれも自分自身の内的な世界に自閉しょうという傾きを持っている。彼の一連の作品に底流するのは、自閉状態から脱して社会とのつながりを回復しなければならない、社会的な自己を確立しなければならないという強迫観念にほかならない。
一方、村上龍の『コックサッカーブルース』を方向づけているのは、自己をいかにしたら脱せられるか、無にできるかという観念である。彼はその観念を「神秘主義」と呼んでいる。
ある変態は、主人公にこんな風に講釈する。
「自己が消えると簡単に言うがこれは実は大変なことなんだ、ボク達は実はそのために生きていると思う、いいかね? 今、神秘主義は誤解されている、UFOとか心霊現象とか、要するに科学で説明できないことを神秘主義だとするアホが大勢いるせいで誤解されているわけだ」
そして、自己を消すための一つの手段がSMプレイだと言うのである。事実、村上の描くSMの場面は、猥褻感をはるかに越えた地点で、読み手をどきどきさせる。常識はすべて間違いで、世界が本当にぐにゃぐにゃになっていくような崩壊感覚があるのだ。
別の変態はこうも言っている。
「ただのエッチな女の子というのは、欲望を肯定しているわけだが、それは頭が足りないという単純な理由なんだよ、……ところが、自分の中の何らかの力を使って自制心を取り除き、欲望を肯定している人間は、必ず何かで武装している」
自己を消すとは、自分を縛ってもいれば、支えてもいる秩序感覚を壊すことだというのである。しかし、なぜ、秩序を否定し、社会公認の自分から脱しなければならないのか。
インテリの変態たちはそれなりの理屈をつけるが、そんな理屈よりも説得的なのは、次々と相貌を変えてあらわれるヒロミという変態娘の存在感である。この小説が成功している最大の理由は、凶暴で幼児的な聖女を描くことに成功しているからなのだ。