新しい『ファーブル昆虫記』(集英社全八巻各1300円)が書店に並んでいるのを見て、思わず立ちどまった。
水色を基調にした瀟洒な装丁は、一目で安野光雅の手になるものとわかり、帯には「ひと刺しでえものをしとめる」とか「生きているたのしさをセミはうたう」とある。しかも、あの『虫の宇宙誌』の奥本大三郎の訳ではないか。これはどうしても買わないわけにはいかない。
中を読んでみて、ちょっとがっかりした。全八巻、最後はファーブルの伝記という構成からいって、全訳ではあるまいと踏んではいたがが、抄訳でさえなかった。著者名がファーブルではなく奥本自身になり、本文の主語も「わたし」ではなく「ファーブル先生」と三人称であることから明らかなように、このシリーズはファーブルの原著を思いきって現代風に、自由に書きなおしたもので、吉川英治作の『三国志』や、陳瞬臣作の『西游記』にあたるものだったのだ(奥書きによると、奥本による完訳も別のところで進められているそうだが)。
いささか残念ではあるが、ファーブルの文章が、現代日本の読者、とくに子供に気やすく読めるようなものでないことも確かである。
たとえば、フンコロガシが糞の玉を奪いあう場面を、ちょっと古めかしいが、名訳の誉れ高い山田吉彦と林達夫の訳で引いてみよう。
団子は下の方をゆすぶられ、転がり、掠奪者のくそむしを道づれにする。彼は何とか上に乗っていようと懸命に肢をせわしなく動かす。支えの団子が転がってずり落ちるので、高みに行こうと彼は忙しい体操をやるのだ。だがこれはいつもうまくゆくとは限らない。滑べって地面に落ちると勝負は五分になる。そして争いはなぐり合いになる。盗む奴と盗まれる奴とは胸と胸を突き合わせて肉弾戦になる。肢は組み合わさり、ほぐれ、関節はもつれ、かぶと道具は打ち合ってやすりのような鋭い音を立てて軋んでいる。
この克明な描写に続いて、次のような見立てが出てくる。
「財産とは盗品である」という乱暴なパラドックスをこの虫の習性の中に流行させた虫仲間のプルードンは、一体どいつだ。また「力は権利の上をゆく」という非文明的な言葉をくそむしの間で尊ばせるようにしたのは、どの外交官か。
わたしは大学に入ってから、このファーブルの原著を読み、小学生の頃、夢中になって読んだ『昆虫記』の印象との違いに面食らってしまった。これでは、ゾラもびっくりの自然主義小説ではないか、と。
実際、ファーブルの原著には「追いはぎ」「かっぱらい」「詐欺師」「生贄」「人さらい」等々といった、文部省推薦らしからぬ言葉が出てきて、昆虫の世界はパリの暗黒街のような弱肉強食の巷に見立てられている。
だが、ちょっと引いて考えれば、それほど不思議なことではない。スカラベ(聖タマコガネ)をはじめとする甲虫たちは、動物の糞を奪いあって食糧にしているのだし、ジガバチやアナバチといった蜂は、他の昆虫を麻酔で動けなくし、生きながらの屍にして、幼虫の餌にしているのだ(餌にされた昆虫は、最期の最期まで生きている)。ゾラの小説では、さまざまな悪党が悪事と愚かしさの限りをつくすが、ファーブルが描きだした昆虫の生態に較べれば、まだまだかわいいものなのである。
ファーブルの魅力は、人間的価値観からすれば悪虐無道としか言いようのないディティールを追いかけることで、生命の不思議さへと突きぬけた徹底性にある。ゾラの描く救いようのない人間や、チベットのマンダラに描かれた悪鬼が、一種、抽象的な美しさと威厳をたたえているように、ファーブルの昆虫たちも生命そのものの美しさと威厳をそなえているのである。
そのことに気がついた時、小学生の頃のわたしの感動は間違っていなかったと得心した。子供向けの翻訳であっても、左翼教師のふりまくヒューマニズムだとか平和主義だとかの出鱈目に毒されていない子供たちには、直感的にそのことがわかっているのだ。
さて、今回の奥本版は文部省推薦の線をねらったとおぼしい作りだが、ヒューマニズム的思い入れを持ちこんでいない点で、ファーブルの魅力をよく保っている。
先に引いたフンコロガシが糞の玉を奪いあう場面は、奥本版ではこうなる。
地上にいるほうは、それならば、とばかり玉の下のほうに手を出して、玉ごところがします。どろぼうのほうはあわてて肢をいそがしくうごかし、うまく重心をずらして玉乗りの曲芸をやりますが、とうとう玉から落ちてしまいました。
さあ、こうなったら、どっちがもちぬしでどっちがどろぼうだか、区別がつきません。地上での組み討ちです。前肢でなぐりあい、胸と胸でぶつかりあいます。肢と肢は組み合わさり、それこそくんずほぐれつの一騎打ちです。カシャカシャと、よろい、かぶとのこすれあう音がします。
自然主義小説を童話に書き換えたみたいで戸惑うけれども、童話的な残酷さはちゃんと残っていて、勘のいい子供ならファーブルの世界を見抜くだろう。
奥本の今回の試みは、文章を童話風にかきかえただけではない。構成も大きく変えている。
ファーブルの原著全10巻は、30年近くにわたって書きつがれたもので、同じ虫の話があちこちに分かれて出てくるし、その間には補足もあれば訂正もある。次々と奇抜な実験を考案し、昆虫の生態に一歩一歩迫っていくファーブルの研究の軌跡を、巻を追ってたどるのは『ファーブル昆虫記』を読む楽しみの大きな部分をしめるが、奥本は仲間の虫を一ヶ所に集めることによって、ファーブルの時代にはなかった視点を持ちこむことに成功した。生態学的視点である。
糞を餌にする同族とはいえ、さまざまな得意技をもったさまざまな甲虫が、それぞれの縄張をもって棲みわけている。奥本は『昆虫記』を圧縮し、組みたてなおすにあたり、仲間同士の棲みわけや、他の生物との持ちつ持たれつの関係が浮かびあがるように配慮したらしく、まだ三巻までしか出ていないとはいえ、岩波少年文庫などの抄訳版とは異なった方針が打ちだされている。
奥本の今回のシリーズは、ファーブルの仕事を今日の読者に近づきやすくすることに意を注いだ立派な仕事だと思うが、原著とは別物である。一日も早く彼の手になる完訳が読みたいものだ。