浅田彰 『「歴史の終わり」と世紀末の世界』

加藤弘一

 このところ英字新聞やタイムやニューズ・ウィークを読んだり、CNNを個人で視聴する人が増えている。英語の勉強やステータス・シンボルのためという向きもあるだろうが、日本のマスコミの外報記事にあきたらないからという人も少なくないはずだ。

 永田町の談合政治を報道するなら日本のマスコミが得意とする裏話やセンチメンタリズムもけっこうだが、日本以外の国では、政治とは理念と理念のぶつかりあいなのだ。テレビ的な演出の重要性が増したとはいえ、政治家の最大の武器は今もって演説とスピーチなのである。

 しかし、冷戦の終わった現在、理念がどうのこうのなど古いという人もいるだろう。共産主義の敗北した今、西欧民主主義と自由経済が唯一の理念であることは明白となった。これからの政治は単なる利益調整の作業にすぎなくなるというわけだ。いわゆる『歴史の終わり』の説である。

 浅田彰の新著が最初に『歴史の終わり』の提唱者、フランシス・フクヤマとの対談を持ってきたのは、本当に西欧の理念が最終的な解答となるのか、もう一度考え直すためである。

 フクヤマの議論は、フランスのヘーゲル学者、コジェーヴの「世界は日本化する」という説を下敷にしている。一口にいうなら、もはや世界には新しい理念が生まれる余地はなく、後はただ日本のように、形骸化した形式主義を延々と繰り返し、おもしろおかしく生きていくだけだというのだ。それが本当なら、理念不在の日本の政治は世界の最先端をいっていることになり、全世界の政治家は談合屋になるしかないことになる。

 浅田は旧ユーゴスラビアの哲学者、ジジェクや、パレスチナ出身の批評家、サイードなど、周縁地域出身の知識人や、ボードリヤール、リオタールなど、アメリカの世界支配に対して距離を置きつづけるフランスの知識人との対話を通して、『歴史の終わり』の議論は西欧、特にアメリカの自己満足でしかなく、今こそ本当の歴史がはじまるのだと主張する。

 というのも、西欧の理念が勝利したとはいえ、全世界の人間が西欧や日本なみの生活をおくれるわけはないからだ(そんなことをしたら地球の生態系は破滅してしまう)。そうであれば、どこまでが西欧かという線引きの問題が発生し(それが旧ユーゴ紛争の本質である)、西欧の外に置き捨てられた第三世界はファンダメンタリズムに走って自暴自棄ににおちいるしかない。いや、西欧内部にも西欧的理念の恩恵に浴せぬ第三世界が発生することになる。事実、アメリカやヨーロッパは移民労働者という内なる第三世界をかかえて四苦八苦している。

 安易に解答をあたえてくれるわけではないが、西欧的理念の限界を考える上で示唆にとむ本である。

(May 1994 「ENGLISH network」)
Copyright 1996 Kato Koiti
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