丸谷才一は世間一般では「小説家」として知られているが、わたしはこの人こそ近代日本を代表するもっとも重要な批評家ではないかと考えている。というのも、丸谷は日本文学史の要に位置しているのに、ずっと忘れられてきた後鳥羽院・藤原定家という対立を発掘した(『後鳥羽院』)だけでなく、この二人の関係を軸に日本の文学史全体にまったく新しい光をあてたからだ(『日本文学史早わかり』)。
日本は七百年間にわたって勅選和歌集という詞華集を国家事業として編纂してきたが、丸谷によれば、これは世界的にいって珍しいことらしい。正式な勅選和歌集の前には万葉集や懐風藻があったし、勅選和歌集が絶えた後には芭蕉七部集が出て、江戸の人々の文学的感受性を方向づけた。この国の文学は短詩形文学を中心に動いてきたのである。
『日本文学史早わかり』は小著ながら、創見にみちた歴史的な作品といっていいが、いくつか不満がないではなかった。一つには明治以降がふれられていないこと、もう一つは「指導的批評家」をはじめとして、従来の文学史には見られなかった斬新な概念がいくつも提唱されていたが、その背景が十分語られていなかったことである。
さて、今回の『不思議な文学史を生きる』は、対談のかたちをとっているが、まさにこの年来の不満にこたえるものとなっている。
第一の不満については、明治中期に登場する言文一致運動までを「芭蕉七部集の時代」の継続とし、それ以降を「正岡子規の時代」とする。
なぜ小林秀雄ではなく正岡子規なのだろうか?
丸谷はまず時期的な前後関係をあげる。言文一致という理想を形成したのは子規であって、小林は子規のつくった土俵の中で書いたにすぎないというわけだ。しかし、もっと重要なのは、小林は文学青年の感受性を指導したかもしれないが、一般の人々には影響をもたなかった。それに対して子規は近代俳句の創始者として、文学青年の何百倍もの数にのぼる市井の俳句愛好家に影響をあたえただけでなく、写生文の提唱によって、今日にいたる国語教育の根幹をすえた。近代日本は実は「正岡子規の時代」だったのである。
この骨格の太い論にしたがうなら、「私小説」という理想も、小林秀雄による近代批評の確立も、柄谷行人による「近代日本文学の起源」の探求も、子規に指導された時代の一エピソードにすぎなくなってしまう。文学のみならず、近代日本の文明を考える上でも、恐るべき洞察といわなければならない。
もう一つ、「指導的批評家」をはじめとする批評重視の考え方については、丸谷は自分はモダニズムから出発した作家だからだと語っている。モダニズムは吉田健一が指摘にしたように、伝統を意識するという批評家的な発想からはじまっている。伝統を根本的に見直すところからはじまった丸谷の文学的営みは、モダニズムの最良の果実だったわけである。