気の身体と器官なき身体
       ──ドゥルーズガタリ 『千のプラトー』

加藤弘一

 道教の修行体系には、セックスを通じて異性と気を交流させ、生命力を一挙に増大させる神秘的行法があるといわれている。伝奇小説や漫画にしばしば登場する房中術である。

 性と宗教というとりあわせが目を引くのか、ヨーロッパの中国学者は、マスペロをはじめてして、好んで房中術をとりあげる傾向があるようだ。ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』にも、こんな一節がある。

 九八二年から九八四年にかけて、中国の道教典籍の浩澣な抄録が日本で編まれた。そこには女性エネルギーと男性エネルギーの強度の循環をつくりだす次第が記されている。女性は本能的ないし生得的な力(陰)の役割をうけもち、男性はこの力を盗みとって、力は男性に移動するが、今度は男性から移動した力(陽)がより大きな生得的な力に変ずる。パワーが増大するのだ。この循環と増強には、男性が射精しないことが必要になる。重要なのは内的不足としての欲望を経験することでも、快楽を先伸ばしして外化可能なある種の剰余価値を生みだすことでもない。そうではなく、逆に強大な器官なき身体、タオ、本源の場──そこでは欲望にはなにも欠けるものがなく、それゆえもはや外的ないし超越的な基準に係わることもない──をつくりだすことだ。(6「いかにして器官なき身体を獲得するか」

 ここで言う九八二年から九八四年にかけて編纂された道教典籍の集成とは、丹波康頼が編纂して朝廷に献じた『医心方』のことである。ドゥルーズ=ガタリは道教の性的神秘主義に器官なき身体の実例を見ているのである(『医心方』房内篇には実際には How to Sex的な実用本位の記述しかないが)。

 房中術などということが可能なのかどうかはともかく、武術や気功療法の分野には、他者とエネルギーを循環させ、増大させていく行法が確かに存在する。

 わたし自身、ある武術の稽古に通っているが、指導員と手の甲を合わせてエネルギーを交流させていくと、周囲の空気がどんどん濃密になっていき、体調のいい日には、フライパンで熱せられたポップコーンのように、バンッとはじけるのである。長く続けている人になると、手を近づけただけではじける場合も少なくない。肉の身体が接触する前に、「気」の身体ではじき飛ばされたということになるだろうか。わたしにはそこまでの現象はおこらないが、肉体の外側にも自分が広がっていて、他者や植物と直接つながっているのではないかというリアルな感覚にとらえられる一瞬はある。

 ある種の宗教家や神秘家、霊能者は、人間の身体の周囲には「気」ないし「オーラ」と呼ばれるエネルギー場がひろがっており、このエネルギー場が人体を賦活し、生命力を与えていると一様に語っている。カスタネーダ流に言えば、人間とは、本来、オーラの「光の束」だというわけだ。

 我田引水を承知で書くのだが、わたしはドゥルーズ=ガタリの言う「器官なき身体」は、気の身体と重なるところが大きい概念ではないかと考えている。

 器官なき身体は『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』をつらぬくキーワードで、最終的には資本の運動や宇宙論的な大地にまで拡大される巨大な概念だが、アルトーの言葉に由来することからも明らかなように、核心には生命が極限まで高揚した瞬間の身体感覚がある。いや、「器官なき身体」という語に、そうした身体感覚をこめているからこそ、経済や宇宙論、集団論を縦横に横断する議論が一つの展望を形成するのだと言ってもよい。

 だが、ドゥルーズ=ガタリはカスタネーダやロレンス、ミラー、ビートニク詩人らが説く変容した意識状態の体験を手がかりに、器官なき身体そのものに触れようとする刹那、すかさず迂回をおこなう。まるで器官なき身体は到達不能の極限であるかのように。実はこのこうした迂回と引き伸ばしの連続こそ、二冊で千二百頁をこえる大著の一番の読みどころである。ドゥルーズ=ガタリの試みは、器官なき身体を称揚することにではなく、それがどのようなメカニズムで日常性に変形されていくかを丹念にときほぐすことにあるのだ。

 こうした試みの構図は、ドゥルーズ=ガタリが批判の標的としているラカン流の精神分析と通じるところがあると思う。

 あからさまに体制順応的な「正統派」の精神分析は論外として、ラカンと、ラカンによって再発見されたフロイトは、シュレーバーの分裂症体験を手がかりに一度は深淵をのぞきこみ、日常性が親と子という支配関係によって作られた二次的なものにすぎないことをあきらかにした。しかし、フロイトもラカンも、親と子という密室の支配関係以外に、権力の関係を見ようとはしなかった。子供部屋が決して密室ではなく、実際は社会の矛盾や力関係が瀰漫しているというのに、子供の自己は父親・母親との関係だけで作られるのだとしか考えなかった(ラカンの父親・母親は機能として抽象されてはいるが)。

 『アンチ・オイディプス』の議論はこの点の告発に主眼があったが、『千のプラトー』では、さらに一歩をすすめ、実際にどのような権力の力学がはたらいて器官なき身体が切りきざまれ、歪曲され、日常性へと変造されるのかを丹念に追及している(器官なき身体の可能性を全開するには、迂路でもこの道しかあるまい。器官なき身体をいたずらに称揚することは、ファシズムにも道を開きかねないのだから)。

 ドゥルーズ=ガタリの試みをたどっていると、神秘家や霊能者の言説のいかがわしさは精神分析のいかがわしさに似ていることに思いあたる。彼らは気の身体が躍動する日常性をこえた世界の扉を開きはするが、すぐに「霊的向上」や「愛」、「調和」といった人間的価値観でより強固なバリケードを築き、体制順応の閉域をつくりあげてしまうのである。その意味で、日本では、単なる読物として以上には受けとられていない精神分析に対してよりも、道徳を説く神秘家や霊能者に対する批判の方が急務かもしれない。

(Dec 1994 「群像」)
Copyright 1996 Kato Koiti
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