保坂和志氏と語る

加藤弘一

ベトナム後の感性

──保坂さんの小説を読んでいると、とにかく楽しい。こんなに楽しくていいのだろうかというくらい、楽しくなります。そこで批評家としては、なぜ楽しいのだろうと考えました。もちろん、モデルになった人たちが楽しいということもあるのでしょうが、モデルを持ちだすと批評ではなくなりますから(笑)、ぼくなりに理屈を考えて、二つ思いつきました。
 一つは中村雅俊主演の『俺たちの旅』という70年代にヒットしたTVドラマです。三人の男女が鎌倉の極楽寺に家を借りて、共同生活するという話なんですが、あのノンシャランな雰囲気は、保坂さんの『プレーンソング』にはじまるシリーズ(主人公の中村橋のアパートに友人が次々と転がりこんできて、居候する)につながっているのではないかと思いました。
 もう一つは、吉田健一の小説です。なにをするでもなく、ただ時間が流れていくという感覚に、保坂さんの小説の楽しさに通じるものがあるのではないかと思ったんです。
 まず、『俺たちの旅』ですが、ご覧になっていましたか?

保坂 ぼくはあのシリーズは見ていないんですよ。

──あらら(笑)。

保坂 あの頃はあまりTVを見ていなかったし、育ったのが鎌倉なものですから、地元が映るとかえって関心がなくなるというところがありました。
 ただ、先週、BSでウッドストックの翌年の『ワイト島ロック・フェスティバル』のフィルムとか、NHKの『映像の世紀』でベトナム戦争の頃をやっているのを見まして、自分の感覚は完全にベトナム戦争以降のものだなと思いました。ヒッピーとかコミューンとか、60年代後半にいろいろ起こったものを経たあとの人間だなと再確認しました。


 

ヒッピー・サラリーマン

──当時は日本にもヒッピーがいましたし、コミューンも離島や僻地にずいぶん作られましたが、保坂さんの小説は『俺たちの旅』という迂路なしで、直接、その時代につながっていたわけですね。
 ただ、ヒッピーになるのはまったくの世捨人になることでしたし、コミューンもずいぶん周囲と摩擦を起こしたと思うんです。オウムの出家やサティアンほどではないにしても。ところが、保坂さんの登場人物はそういった摩擦なしに、ごく平和的なかたちで社会の隙間に棲息していると思います。主人公はサラリーマンとして、会社勤めをつづけていますし。

保坂 サラリーマンというのは、やってみると、──やりようにもよるんですが──、まったく自分の内面を冒されずにすむんですよ。

──なるほど。

保坂 芥川賞の選評なんかでも、特によいと言ってくださったのは黒井千次さんと日野啓三さんなんですけど、お二方ともサラリーマン経験があるんですよ。ところが、ぼくの小説に対して、「こんなサラリーマンがいるか」というようなことをおっしゃる方は、おおむねサラリーマンとして働いた経験のない人です。

──やってない人にはわからない(笑)。

保坂 サラリーマンというのは、実際に働いてみるとびっくりというくらい、暇な部分があるんです。企業論理とか、出世とかにどっぷりとはまらない限りは、けっこう楽なんですよ。マスコミやドキュメンタリーで絶えずクローズアップされているのは、企業戦士とか、企業にマインドコントロールされている人たちで、そうしていない限りは、べつの部分が無傷で残るんです。

──無傷というか……、ああいうのはうらやましいなと思いました。超能力サラリーマンというのがいましたが、ヒッピー・サラリーマンでしょうか。


 

猫の棲む町

──ところで、『プレーンソング』のシリーズは中村橋が舞台ですが、本当にいらっしゃったんですか?

保坂 ええ、いました。居候をたくさんかかえたとか、あんな生活はしてないですけど(笑)。

──実は、ぼくも小説に描かれている前後に、あの辺にいたんです。中村南というところでしたが。

保坂 そうですか。あれ、ぼくもそうかな。中村橋の駅から中杉通りを南下していく途中でしたから。

──味噌の蔵元があって、その先にイナゲヤというスーパーがありましたよね。ぼくはそのあたりだったんですが。

保坂 そこまで行かないです。もっと手前です。えーと。中村橋をわたって、中杉通りにいって、左を三分ほどいくと中華料理屋があって、そこを曲がって五、六分いくと一軒トンカツ屋があって、右にファミリーマートがあるんですけど……。

──あの辺は中華料理屋とファミリーマートがたくさんあるので(笑)。

保坂 一個目のファミリーマートより手前です。そうだ、練馬区中村です。

──ははあ。大体わかりました。五、六分でいける距離ですよ。反対方向に五、六分いくと、笙野頼子さんのいらっしゃったマンションです。どうもぼくは保坂さんと笙野さんの中間に住んでいたらしい。

保坂 (笑)

──あのあたり、マンガ家とか、イラストレーターとか、役者の卵とか、なにをやってるんだかわからないような人が多かったですよね。ぼくは猫の生態は知りませんが、ノラ猫に餌をやるために、朝晩、二時間もかけて巡回する三人組がいたとしても、あそこだったら不思議はないと思いました。


 

『東京の昔』

──吉田健一はどうですか?

保坂 吉田健一の『瓦礫の中』と『東京の昔』はよく読んでいて、特に『東京の昔』の方はああいう風に書こうと思った直接の原因になっているんです。最初の頃は、書きながら、何度か読んだかもしれないです。

──なるほど。時間の流れていく充実感とか、保坂さんの小説と通じるものがあると思いました。

保坂 それで、吉田健一は、かなり高いレベルで話の通じる人物しか出さないんですよ。庶民も出てきますが、大学は出ていなくても才覚のある人とか、全部とりえのある人しか出さないです。何段変速とかにできる自転車を開発しちゃう自転車屋さんとか、仏文でプルーストかなんかをやっているらしい人とか。

──そうですね。『東京の昔』で主人公を案内する人は、才覚のある庶民です。
 小説はあらゆるタイプを描かなければいけないという考え方がありますが、吉田健一の場合は、自分が感心を持てない人というか、自分の嫌いなタイプは出していませんね。

保坂 ええ。そういう風にしても、小説がつくれるということで、『東京の昔』を読んで自信をもったんですね。

──保坂さんは宇宙論に関心をお持ちですが、時間論はどうですか? 吉田健一は最後は時間論にいきましたが。

保坂 評論で『時間』というのがありますね。吉田健一の評論に関して言うと、ちょっと達観しすぎているという感じがあるんで、普通に読む分にはいいですけど、それを頼りに考えるという風にはならないです。折にふれて引用するほど、おぼえてはいないですし。


 

女哲学者たち

──主人公が電話でちょくちょく相談するゆみ子という人物は、女哲学者という印象を受けるんですが、彼女は吉田健一的達観まで達しているんじゃないですか?

保坂 あれははっきりした構造をもっていまして、語り手が内面に向かって問題解決をもとめるのに対して、ゆみ子はいつも、外部の要因によってことが起きているんだということを指摘するんです。彼女は内面的に深めれば問題が解決するとは考えていなくて、必ずあんたが見そびれている要素が外部にあるんだよって言ってるんですね。

──なるほど。でも、それは立派に哲学ですよ。アランが赤ん坊が泣いていたら、コンプレックスがどうのこうのと考えるのではなく、オムツにピンが刺さっていないかどうか調べてみろと言っていますが、ゆみ子は、アラン的な意味で、哲学者だと思います。
 芥川賞をおとりになった「この人の閾(いき)」には、ゆみ子にあたる人物が、電話を通してではなく、はっきり出てきますね。

保坂 実は、「この人の閾(いき)」の真紀さんという女性は、はじめて実在の人物を念頭に置いて書いているんです。

──ゆみ子はモデルはいなかったんですか?

保坂 適当につぎはぎしているんですけど、はっきりしたモデルはいません。つぎはぎに使っている人物は、「この人の閾(いき)」とは別なんです。ただ、あれは、ぼくの好きなものの考え方をする女性の系譜ではあるんですよね。

──系譜というと、たくさんいるんですか?

保坂 (笑)

──ゆみ子や真紀さん以外にも、保坂さんの小説には印象的な人物が何人も登場しますが、島田のモデルはいるんですか?

保坂 あれははっきりいます。

──やはり「やっ」と言うんですか?

保坂 島田のモデルはですね、小説として表記不可能なほどの聴きとりにくい早口なんです。実物はものすごく頭のいい人間なんですけどね。ぼくは島田のモデルとはそれほど親しくないんですよ。一人共通の友達がいて、その友達を介して彼と会っていたというだけなんです。友達から、あいつはワイシャツのまま寝るとか、そういう話を聞いていて、おもしろくて、とりあえず出してみたという感じからはじまったんですけどね。

──島田はすごく印象的な人物ですよ。『ノルウェイの森』の突撃隊に匹敵するというか、越えている部分もある。島田って、あれだけ切れているのに、人生に前向きで、絶対に自殺なんかしそうにないですからね。やはり、映画関係の人なんですか?

保坂 経歴はほとんどあそこで使っちゃったとおりで、九州で医学部にいて、北大で映画サークルにはいって、今はコンピュータ関連です。

──九州の大学から北海道の大学に移ったなんていう人が本当にいるんですか。すると、社長がヤクザだというのも?

保坂 それだけは違います(笑)。


 

戦争と平和

──保坂さんも、小説の中の語り手も、映画関係の人脈に囲まれていますが、保坂さん御自身はどんな作品が好きなんですか? 作中には、具体的な作品名は出てこなかったと思いますが。

保坂 いや、『ホテル・ニューハンプシャー』を出しています。あの映画は封切りが八六年秋なんですが、実は『プレーンソング』と『草の上の朝食』は八六年が舞台になっているんですよね。ダイナガリバーとかっていう競馬の馬の名前は八六年当時のものです。

──そうなっていたんですか。ぼくは競馬のことはまったくわからないので。

保坂 『プレーンソング』では、競馬場で石上さんと二人でいるときにチェルノブイリの話題を出しますから、舞台ははっきり八六年です。それがあるから、『草の上の朝食』も八六年にしたんですけどね。
 橋本治の『桃尻娘』は一五年くらいにわたって書いてますけど、そのつどの時代に変えちゃっているんですよね。七八年に桃尻の女の子が一八歳として、彼女が二〇歳の時の話を書いても、発表が八五年だと、舞台が八五年に移っちゃうんですよね。橋本さんははっきり年代を書くのではなく、風俗で書いているんですけど、そういうやり方なんですね。
 で、ぼくはちょっと迷ったんだけど、八六年のバブルのちょっと手前、バブル最盛期へ向かう上昇ラインに乗っていた時代、みんなが大手をふってプータローをやっていた時代が一番好きなので(笑)。

──あの時代の中村橋界隈というと、まさにそんな感じでしたね。保坂さんはクロノロジーをきっちり考える人だったんですね。

保坂 実は、その次に書いた「夢のあと」という短編は、六月四日の日曜日に鎌倉に行くという設定になっています。発表したのは九〇年ですが、カレンダーを見ればわかるように、その年ではないんですよね。六月四日が日曜になるのは前年です。で、八九年の六月四日というのは、朝刊の一面が天安門事件の大見出しなんです。

──えっ。

保坂 芥川賞をとっちゃったんで、急いで出すことになっちゃったんですが、本当は後書でそれを書くつもりだったんですけどね。

──のどかなセンチメンタル・ジャーニーと思っていたら、天安門事件を借景にしていたんですか。作品の意味がまったく変わってきてしまいますね。保坂さんは世の中の動きは気にしない人かと思っていました。

保坂 戦争と平和を一番気にしているんですよ(笑)。「この人の閾(いき)」の「閾」という言葉を知ったのも、ナチの時代に収容所に入れられたパウル・ツェランの『閾(しきい)から閾(しきい)へ』という詩集があったからですし。


 

平和に耐える思想

──保坂さんが戦争と平和を気にしているという話は、ぼくだけでなく、ほとんどの人にとって意外なんじゃないかと思います。しかし、そういう隠し味が効いているからこそ、作品が立ちあがってくるのかもしれません。

保坂 ああいう小説なので、社会で起きていることとか、科学の理論だとかをじかに言及すると、ものすごく青臭くなってしまうんです。一番抽象化して、ぼんやり卑近な話題にするのがぼくの性にあうんですけど。

──うーむ。そうだったんですか。同時代のせいか、まったく気がつきませんでした。きっと、一〇年、二〇年たって読むと、ここには違う時代のことが書いてあるとわかるんでしょうね。

保坂 ぼくは、ある程度色濃くある時代を書いていないと、意味がないような気がしているんです。最初から時代を越えた普遍性というのは、ないと思っています。

──なるほど。吉田健一の『東京の昔』でいうと、戦前の東京の足元から冷えがあがってくる感じとか、『瓦礫の中』でいうと、戦後の復興期であるとか、時代の匂いがにおってきます。小説の普遍性というのは、特定の時代を描ききったところに出てくるものですね。

保坂 『プレーンソング』は八八年と八九年に前半・後半をわけて書いているんですが、八〇年代にはいってから、みんな平和ぼけしたことを不満がるようになったんです。もう一度、戦争が起きなければ、人間がしゃんとしないとか、文学が立ち直らないとか、中上健二なんかもそういうことを言っていたんですね。

──そういう流れは今でもあります。あるというか、主流になっているかもしれません。エンターテイメントでは、日本が大東亜戦争に勝っていたらという架空戦記ものが流行していますし、村上春樹、村上龍も戦争の興奮を待望するような作品をあいついで書いています。オウムのハルマゲドンも、戦争願望のあらわれという見方がありますね。

保坂 ぼくはそれがずっと嫌でした。ぼくはカルチャーセンターで講座企画をしていたんですが、「平和に耐える思想」ということばかり言いつづけていました。『プレーンソング』からはじまる話は、一応、全部、平和に耐える思想というつもりではあるんですよね。

──社会学者の宮台真司氏が、オウム信者のハルマゲドン願望を批判して、「終わりのない日常を生きよ」ということを言っていますが、それと通じるわけですか?

保坂 いや、大分ちがいます。この間も、別の人に同じことを言われたんですが、宮台真司はインテリの立場ですから、「終わりのない日常を生きる」というのは、はたに対するメッセージなんです。啓蒙というか、命令というか、宮台真司自身はメッセージを受けとる側ではなくて、その外にいるんですよ。命題というのは、メッセージとして発するのと自分に向けて言うのとはでは、意味がまったく違ってしまいますから。
 ぼくは、中学の頃からそうなんですが、強制収容所とか聞くと、収容される側でしかものを考えられないんです。だから、「平和に耐える」というのは、自分に向かって言っているんです。平和な状態の中で、意味を作りださなければ、戦争を待望するような人間になってしまうと、自分に向かって言っているんですよ。
 湾岸戦争の時、それまでノンシャランに雑文書きやっていた人たちが、急に平和に目覚めて、立ちあがったことがありましたが、ぼくはああいうのはきな臭くて嫌いなんです。

──きな臭いというのはわかります。彼らは口では平和を唱えていても、戦争にわくわくしていたというか、すごくうれしそうでしたものね。平和にあきあきしていたんでしょう。

保坂 実は、戦争が好きなんですよ。でも、ぼくは嫌いだし、戦争になったら、自分が戦場に連れていかれるとしか考えないから。

──反戦運動をやる人たちが、一番、好戦的だというのは、戦後史のパラドックスですね(笑)。


 

新作について

──最後になりましたが、新しい長編を書き上げられたそうですね。さしつかえなかったら、どんな作品から教えてください。

保坂 友達に見せたら、『プレーンソング』、『草の上の朝食』の続編になりえていると言ってもらえました。場所も人物も、設定はまったく違ってますけど、内容的にひきついでいると。で、具体的にどんな話かというと、鎌倉の稲村が崎に住んで、毎日散歩ばっかりしてる父子家庭と、その隣の便利屋さんの兄妹の話で、『ソフィーの世界』よりずっと哲学的! と自分で言っています。

──それは楽しみです。今日は暮れのお忙しいところ、ありがとうございました。

新しい長編

 「群像」1996年5月号に『季節の記憶』として発表。同年9月、講談社より刊行される。1997年、谷崎賞受賞。なにも行動しない父子をめぐって、賛否両論がおこる。

 この作品の背景については、湘南ネット134で公開されている「保阪和志氏と歩く『季節の記憶』」を参照。

(Dec22 1995)
Copyright 1995 Hosaka Kazusi
Kato Koiti
作家と語る ほら貝目次