石川淳小伝

加藤弘一
湯島聖堂 大成殿
湯島聖堂大成殿

 1899年3月7日、東京府浅草に、銀行家斯波厚の次男として生まれる。本名はきよし。厚は代々の幕臣だった石川家から札差をいとなんでいた斯波家へ養子にはいった人で、次男の淳は石川家をつぐために、近くに住む祖父母のもとで育てられた。祖父省斎石川釻太郎は昌平黌から和学講談所に移り、法制史を研究した儒学者で、幼い淳に論語の素読を授けた。

 1914年、15歳になった淳は正式に石川家の養子となる。朱子学的にいえば、本姓に復したわけである。

 1916年、慶応義塾文科に入学するが、半年で退学。1917年、東京外国語学校(現在の東京外語大)仏語部に入学。卒業後、日本銀行に勤めるが、すぐに退職。おそらく、親のコネではいったものの、帝大出が幅をきかせる役所のような雰囲気に嫌気がさしたのではないか。以後、語学力をいかして海軍省の嘱託などをつづける。今でいうフリーター暮らしであろう。1923年には、高等遊民のたまり場である本郷菊富士ホテルにうつり、山内義雄のほか、アナーキストらとも交友をふかめる。アナトール・フランスの『赤い百合』の翻訳を刊行。

孔子像
孔子像

 1924年、福岡高等学校に仏語講師として赴任するが、翌年、学生の政治活動を煽動したとして退職を勧告され、東京にもどる。この後、木賃宿や友人宅を転々としながら、アンドレ・ジッドの『法王庁の抜穴』、『背徳者』、モリエールの『ドン・ジュアン』、『人間ぎらい』、『タルチュフ』などを訳出。

 1935年、処女作「佳人」を発表。1937年、「普賢」で芥川賞をうける。37歳という、当時としては遅い受賞だった。同年、短編集『普賢』と『山桜』を刊行するが、翌年、「マルスの歌」で発禁処分をうける。

 1940年、最初の長編『白描』を刊行。この作品にはすでにスターリニズムに対する批判が見られる。翌年、鷗外批評に画期的な転換をもたらした『森鷗外』を刊行するが、言論統制がつよまり、「江戸への留学」を余儀なくされ、古典の現代語訳や子供向けの伝記を書く。1944年、代々の墓所が爆撃禍に遭うと、「せいせいした」と語ったと伝えられる。

 1945年の日本の敗戦とともに創作を再開する。「黄金伝説」が占領軍の検閲にあい、同作を表題とした短編集に収録できなくなるものの、「焼跡のイエス」、「処女懐胎」など、焼け跡闇市の風俗に朱子学の形而上学をかさねた短編を次々と発表。このころから安部公房が師事するようになり、1951年には安部の『壁』に序をあたえる。

 1957年、「紫苑物語」で芸術選奨文部大臣賞。『新釈古事記』を連載する一方、「修羅」、「八幡縁起」を書いて、日本国家の起源に迫る。また、アナーキストと交遊した青年時代を回顧した長編『白頭吟』を刊行。

 1961年、筑摩書房から『石川淳全集』の刊行がはじまり、芸術院賞をうける。

 1964年、中期を代表する傑作『荒魂』を刊行後、安部公房らとソ連、ヨーロッパを旅行。この時の旅日記は後に『西游日録』としてまとめられる。このころから、丸谷才一が師事するようになる。

 1967年、川端康成、三島由紀夫、安部公房と連名で、「中国文化大革命に関し、学問芸術の自律性を擁護するアピール」を発表。幕末の江戸にアナーキズムの夢をくりひろげた長編『至福千年』を刊行。

 1969年12月から1971年11月まで、朝日新聞で文芸時評を連載。従来の時評は小説に枠を限定し、その中でできるだけ多くの作品に言及するスタイルだったが、石川の時評はこれと思った一篇を深く論じ、さらに批評や学問研究にまで枠をひろげるという画期的なものだった。

 1975年、丸谷才一の求めにより「四畳半襖の下張」裁判に弁護側証人として出廷。言論弾圧の不当を訴える。1978年には岩波版『鷗外選集』(全21巻)を編集。翌年から岩波版『石川淳選集』(全17巻)の刊行がはじまる。

 1980年、『江戸文学掌記』と、10年をかけた巨編『狂風記』を刊行。『狂風記』はSF的趣向をとりいれた波乱万丈の長編で、石川の作品としては異例のベストセラーとなり、若い読者を獲得する。『江戸文学掌記』は翌年、讀売文学賞を受賞。1986年には、87歳にして典雅な恋愛小説『天門』を刊行。

 1987年12月、最後の長編『蛇の歌』を連載中に、肺癌のために88歳で死去。

本姓に復する

 江戸期の武士社会では、家門を維持するために、母系の縁者だろうと、異姓でまったく血縁関係のない者だろうと、養子にして家督相続させるということを普通におこなっていたが、本来の儒教、特に朱子学の見地からいえば、異姓養子は人倫にもとる所行だった。実際、一部の朱子学者は、養子にはいって姓のかわった入門希望者には、本姓に復することをもとめたほどである(詳しくは、拙著『石川淳──コスモスの知慧』第三章を参照)。

 石川淳が祖父から朱子学を授けられていたとすれば、両親のもとから離され、祖父の家を継がせられる(本姓にもどされる)ということに、なにがしかの重さを感じていたと見た方がいい。

日本国家の起源

 笠井潔は1980年代の伝奇小説は縄文人の末裔である山人と、弥生人の末裔である平地農耕民の対決という図式で書かれたが、その大本となったのは五木寛之の『日ノ影村の一族』だとしている(栗本慎一郎編『「狂気」はここにはじまる』所載「「輸入」された天皇制・国民国家」)。卓見であるが、五木寛之の四半世紀まえに、石川淳の「八幡縁起」があることを見落している。

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