――「契沖」は正假名遣に變換する日本語IMEとうかがつてゐますが、なにをもつて「正しい假名遣」といふのでせうか。
市川 御質問にお答へする前に、「正假名遣とは何をもつて『正しい假名遣』といふのか」といふ文言に就いて一言申上げる必要があると思ひます。と申しますのも、嘗て「正漢字」といふ言葉に對して、「何をもつて正しいとするのか」から始まつて「康煕字典に據ると言ふなら、その誤りも正しいとするのか」、「内閣が告示した『常用漢字』は正しくないといふのか」などの攻撃があつたからです。そのため現在では「康煕字典に掲げる字體其の者ではないが、康煕字典を典據として作られて來た明治以來の活字字體、謂はゆる康煕字典體」と云つた持つて廻つた非能率な言囘し(第二十一期國語審議會審議經過報告 平成十年六月)が強ひられてゐます。
しかし、名辭の生成にはその構成要素の原義が變化する「假借」の作用が働くことを無視し、加之「當用漢字」の「一字一訓」を杓子定規に適用して、「言葉狩」擬ひの論を立てるのは如何なものか。「正」の字が有れば「ただしい」以外の意味は無い筈だから、「正數(プラス)」、「正選手」、「正會員」、「正一位」、「檢事正」に「正」の字を使用するのはをかしいと言ふのが「正しい」態度でせうか。詰るところは、他の同音の漢字に書き換へよ、或いは假名書きせよといつた極論にまで至るでせう。さうなれば、「現代假名遣い」の「現代」とは何時のことか、土岐善麿氏の「現代」なら今とは違ふではないかといふことにもなり、國語が崩潰してしまふのではないでせうか。
さて正假名遣は、正式には歷史的假名遣ですが、この場合も、歷史的存在になつた假名遣などといふ意味ではないのは勿論で、歷史を通じて一貫する假名遣と理解すべきです。即ち、歷史的假名遣は日本人が古代から現代まで書き繼いで來たすべての文章を統一的に表記できる體系であるからです。柿本人麻呂から平野啓一郎まで、日本文學の遺産をすべて統一した表記で記錄できる、その素晴らしさ、貴重さは「現代假名遣い」やローマ字など他の表記法を凌駕するもので、これを表現するものとして「正假名遣」といふ愛稱を私は氣に入つてゐます。「正漢字」も同じ意味に遣へばよいと思ひます。
――現代日本語は音節が減つてゐますから、現代假名遣では古代日本語は記述できません。しかし、古代日本語と同じやうに現代日本語を記述する必要があるのでせうか。
市川 契沖は萬葉假名の研究に基づいて統一表記としての歷史的假名遣の理論的基礎を築き上げましたが、それは同時に民族の言葉としての國語の聨續性を自覺させるものでもあつたと思ひます。現代の我々もその聨續性を受け繼いでゐる以上、歷史を通じての統一表記を習得、實踐して次代に傳へるのは當然ではないでせうか。
假名遣を「かなずかい」と表記するのと、「かなづかひ」と表記するのとでは、どちらが論理的でせうか。現代日本人は「ず」と「づ」の發音を區別できませんが、假名のつかひ方ですから、「づ」とするのが日本語の本態にかなつてゐます。ワ行五段活用も、どうして自發形だけが「遣おう」とア行になるのでせうか。
「現代假名遣い」ではウ音便の表記が
などと複雜に變化しますが、歷史的假名遣では單純に「ありがたい」→「ありがとう」
「うつくしい」→「うつくしゅう」
「ありがたい」→「ありがたう」
「うつくしい」→「うつくしう」
と語尾變化の部分が「う」に變るだけです。
かうした音便規則は應用範圍が廣いので、語彙の理解にも役立ちます。「神々しい」の假名遣は「神々(かみがみ)しい」のウ音便と判りますから、單純に「み」を「う」に替へて、「かうがうしい」が得られます。さうすれば「神戸」「神津」も「かうべ」「かうつ」とどんどん廣がつて行きます。
「正假名遣」は日本語の本態にかなつてゐるが故に、論理的であり、コンピュータにも載せやすいのです。私のやうな國語の專門家でもなく、ましてコンピューターの專門家でもない者でも、「契冲」を開發できたのが、何よりの證據です。
――契沖の假名遣は楫取魚名の「古言梯」で體系化されたと言はれてゐますが、「正假名遣」はなにを據り所にしてゐるのですか。
市川 契沖以後も歷史的假名遣の完成へ向けての研究が進み、これは戰後も續いてゐます。さうした研究を集大成して、より完全な假名遣として普及して行かうといふのが、國語問題協議會の統一見解です。學問的にも故山田忠雄先生の最新の訂補を頂いた「假名遣ちかみち」を國語問題協議會から覆刻刊行するに當つては、弊社が制作を擔當しましたので、「契冲」も當然これに準據してゐます。但し、例へば「用ゐる」に就いて、「もちひる」と打鍵して「用ひる」も得られるやうにはしてゐます。
なほ國語問題協議會は昭和三十四年設立、現在の會長は宇野精一先生、副會長に石井勳、林巨樹兩先生、事務局長に新井寛先生を戴き、私も理事を仰せつかつてをります。會の連絡先は
です。〒171-0031 東京都豐島區目白三‐十七‐二 目白ローゼ・ハイム四〇三
國語問題協議會 電話 03-5983-4439 電送 03-5983-4504
――「契沖」は管理工學研究所の「松茸」をもとにしたと聞いてをりますが。
市川 Windows版の「松茸」がもとになつてゐますが、これは管理工學研究所の御好意によるものです。辭書はこちらで開發しました。
――Dos版の「松茸」は活用テーブルが bunpo.dicとして外に出てゐたので、bunpo.dicを書き換えることで、歷史的假名遣の變換が可能でした。十年近く前、歷史的假名遣用に變更した bunpo.dicをパソコン通信で入手しましたが、「松茸」の癖が好きではなかつたので、ほとんど使ひませんでした。當時の「松茸」と「契沖」はどこが違ふのでせうか。
市川 では、實物を御覽いだだきませう。
NEC9821NXに電源が入れられ、Windows95が起動する。一太郎を立ちあげると、「契沖」のアイコンがあらはれる。市川氏が例文を入力するにつれ、黄色い文字で變換前の文字列が表示される。Dos時代の管理工學研究所のソフトはみな黄色い文字を使つてゐたが、Windowsになつても黄色い文字で通してゐるとは、さすが中村正三郎氏を生んだKKKである。
變換キーを押し、文節の切り直しと候補の選擇をへて、しかるべき文字列が確定する。かつての松茸よりは利口になつてゐるやうである。使ひこんだわけではないので、當て推量になるが、ATOKや VJE Delta、WXにはおよばないものの、Windows98に強制インストールされる MS-IMEと同等のレベルには達してゐるかもしれない。
――漢語はすべて正字で登錄してあるのですか。
市川 この辭書ではさうです。しかし、常用漢字版辭書もあります。切替へませう。
辭書切替ウィンドウでフォルダを變更する。同じ例文を入力すると、通用字體の候補しか一覽されない。
――常用漢字や教育漢字の範圍で變換する機能なら、他の日本語IMEももつてゐます。あまり意味がないですね。
市川 「常用漢字や教育漢字の範圍で變換」と言ふ場合、二つの意味があります。一つは「がっこう」が「学校」と字體が常用漢字となることですが、もう一つは「こうさてん」に對して、「交さ点」、「交差点」の變換なら普通ですが、「交叉点」(正漢字版なら「交叉點」)も簡單に得られるのが「契冲」です。ところでこちらはどうですか。
再び辭書を切替へる。「あおい」と入力すると、一度「あふひ」になり、次に「葵」、「青井」と變換候補が出てくる。
――なんと。歷史的假名遣に自信のない人でも使へるモードがあるのですか。
市川 さうです。「學習版」と云ひます。現代假名遣で入力しても、正假名遣が表示されてから變換されます。このモードを使へば、自づと正假名遣を身に付けることが出來ます。
――モード切替は辭書の切替で實現してゐるのですか。
市川 はい。「契沖」には次の四つの辭書をつけてゐます。
以前は、この四つは別の製品だつたのですが、御客樣の負擔が大きくなるので、現在は一枚のCD-ROMに四つの辭書を同梱して販賣してゐます。
――ユーザーはどんな方が多いですか。
市川 登錄葉書を御覽にいれませう。意外に若い方が多いのです。
――さうですね。四十代の方が一番多く、次が二十代の方でせうか。
市川 お年を召した方はパソコンを使はれないので、買つていただけないのが殘念です。
――職業は高校の國語教師が多いやうですね。教材を作るのに使つてゐるのでせうか。
市川 全國高等學校國語教育研究聯合會(全國聯)に贊助廣告を出してゐます。
――字音假名遣はどうなんですか。漢字の讀み假名を字音假名遣といひますが、パソコンで入力する場合は、假名漢字變換しますから、手書よりも用ひる頻度がはるかに高いと思ひます。
市川 次の版の「契沖」で實現する豫定ですが、まだ語彙の増補も殘つてをり、字音假名遣はやつと「あ」から始めて「か」までしか出來てゐません。
――「正漢字フォント」も開發されてゐるさうですが、どんなものなんですか。78JISのフォントにすると、當用漢字以外の漢字は一點之繞が二點之繞になるといふやうに、「いはゆる康煕字典體」で表示されますが、それとは違ふのでせうか。
市川 78JISのフォントは、NECのパソコンには、つい最近まで、「FA明朝」と云ふ名前で標準ではひつてゐましたが、「歷」は「歴」のままでした。「檜」と「桧」が入れ替ると云ふ問題もありますので、さういふ難點のないフォントを作らうと考へたのです。JISの包攝規準によれば、「木」は「禾」でよいわけですから、「歴」の代りに「歷」にしたフォントを作つてもなんら差し支へないはずです。
現在は UNIXで使ふ「宣長」と云ふ組版用しかありませんが、今昔文字鏡のエーアイ・ネットさんのお力をお借りして、Windowsで使へるものを開發中です。UNIX版を見ていただきませう。
SONYの News上で組版ソフトを立ちあげる。畫面に表示されたのは JIS X 0208でおなじみの通用字體の文章だが、「宣長」處理をすると、すべて舊字體に變つた。「歴」が「歷」になつてゐるし、常用漢字も舊字體に代つてゐる。筆畫が多いので、全體に版面が黒つぽい。
――包攝規準から言へば、これでもJIS適合ですが、隨分過激なものをお作りになりましたね。
市川 同一の漢字に複數の字形が存在する、謂はゆる異體字による文字の二重化乃至多重化は從來もあつたが大勢に影響はありませんでした。然るに「當用漢字字體表」によつて、日常用ゐる文字にまで文字の二重化が廣がつてしまつたことに、今日の問題の根深さがあると思つてゐます。JISでは、字形が大きく異る文字は別コード、瑣末な違ひは同一コードで包攝と、苦しい對應を餘儀なくされてゐます。「過激」と仰言いますが、正漢字フォントは正にJISの内包する問題の解決を志向するものでありますし、またこれを可能にしたウィンドウズのフォントコントロールシステムにも感謝すべきでせう。
私どもは自費出版のお手傳ひをすることが多いので、パソコンのテキスト・ファイルを正漢字に變換する仕組がどうしても必要なのです。
――版下作成用ですか。すると、JIS X 0208を CTSコードの擴張部分に入つてゐる正字に變換するといふことですね。
市川 さうです。表示は内藏フォントですが、出力は寫研の CTSコードで出します。畫面と出來上がりが微妙に違ふのが難點ですが。
――ゲラと出來上がりが違ふといふことですか。
市川 いや、字形に就いては全く問題ありません。プリンターで印字したものと、線の太さとか、撥ねや拂ひの形が少し寫植と違ふといふ意味です。
――最終的に印刷物にするのであれば、これも一法かとは思ひますが、Windows版をお作りになられるとなると、いささか事情が違ふと思ひます。電子の状態のままでやりとりされるテキストを、包攝規準を逆手にとつて、書いた人間が意圖したのではない字體で表示するのはいかがなものでせうか。
市川 私は包攝規準は日本の融通無礙な文化が生んだ生活の智慧ではないかと考へてゐます。通用字體の嫌ひな人は、正漢字フォントを標準にしておけば、すべて正漢字で表示されるので、嫌な思ひをしないで濟みます。正漢字に關心のない人は、MS明朝にしておけば、頭を抱へない濟みます。フォントを別にすることで、平和的に共存できるのです。
――しかし、人名の字體が入れ替つては困りますし、字體も思想の表現となる場合があるといふ觀點からは、讀者側で勝手にまつたく違ふ字體のフォントに入換るのでは、思想がきちんと傳はらない懸念もあるかと思ひます。
ところで、今昔文字鏡の場合、寫研の擴張漢字とは比べ物にならないくらゐ多數の異體字をもつてゐます。そのうちのどの字體をもつて「正漢字」といふのですか。
市川 まあ包攝といつても、別の字ではないのですから、一般的には「思想が傳はらない」ことはないでせうが、包攝された漢字同士を比較するやうな場合が困るのです。「歴史の歴は歴と書いた方がよい」(正しくは「歷史の歴は歷と書いた方がよい」)では意味が確定しませんよね。ただ電子情報としては、將來フォント情報が自動的に附加されるでせうし、檢索操作などを考へるとJISの包攝には積極的に評價してもよい面もあると思つてゐます。
なほ現在開發中の「正漢字フォント」は、「今昔文字鏡」の中から、主として「大漢和辭典」に準據して、私が選びました。その意味で市川版「正漢字フォント」を世に問ふと言ふのは少々僭越なのですが。
――申申閣は印刷が本業とうかがつてをります。物書きをやつてゐる以上、印刷所のお世話になつてゐるんですが、間に編集者と校正者がはひるので、印刷のことは知つてゐるやうで知らないといふのが、文筆に携はる者の實情だと思ひます。
最近、「日本語の文字と組版を考える会」の皆さんが文字コード問題について、積極的に發言されてゐますが、物書きの間では、彼らの主張が印刷業界を代表してゐるのだと受けとつてゐる人が多いのです。實際はどうなんでせうか?
市川 加藤先生は文藝家協會の電子メディア委員會の委員をなさつてをられますが、文藝家協會は日本の作家を代表してゐるのでせうか?
――本當に代表してゐるかどうかは疑問ですが、詩人、劇作家、批評家、作家の多くは文藝家協會か、日本ペンクラブに所屬してゐますので、マスコミや官廳關係では、文藝家協會とペンクラブの決議は、それなりの重みをもつて受けとられてゐるやうです。
市川 さうですか。作家の方々の團體は文藝家協會とペンクラブの二つだけといふことですね。しかし、印刷業界には各種の團體があり、東京では行政が把握してゐるだけで十三團體あります。大手だけの團體もあれば、中堅だけの團體、小規模な會社だけの團體もあります。どこの團體にも加盟してゐない會社も多いのです。地域ごとの團體もあれば、全國規模の團體もあつて、さまざまな立場から、さまざまなことを主張してゐます。
東京都の代表産業が印刷業だと云ふことは御存知でせうか。全國で三萬數千社ある中で、東京には一萬社あります。家族だけとか、從業員十名以下と云ふ零細なところが大部分ですが、就業人口や生産額を見ると、全産業に印刷業の占める割合が非常に高いのです。
私が所屬してゐる JAGRA(日本グラフィックサービス工業會)には一千九百社が加盟してをり、その内、東京では六百社が加盟してをりますが、印刷業界全體から言へば小さな團體です。「日本語の文字と組版を考える会」は業界團體といふより、自主的な研究會とも考へられます。なほ「日本語と組版を考へる會」といふ研究會もあります。同じ研究會かどうかは確認してをりません。
――印刷業界の總意はわからないといふことですね。しかし、「日本語の文字と組版を考える会」の主張に對し、印刷業界からそれは違ふといふ聲が上がらないといふことは、業界の聲を代辯してゐるといふことではありませんか?
市川 誤解があるやうですね。私どもJAGRAでも、何年か前、文字コード問題を研究する委員會を作つたことがあります。輕印刷はもともとは謄寫版印刷からはじまりましたから、その頃は字がなくて困るといふことはありませんでした。しかし、和文タイプが入り、寫植機が入り、コンピュータが入つてくると、字がないと云ふことが問題になつてきました。
JIS補助漢字があれば十分かと云ふと、そんなことはない。二萬字とか三萬字とか、數ではなく、どんな字でも印刷出來なければ、印刷したことにはならない。よく何千字あればどんな文書でも九十九・何パーセントはカバーできるといつた議論がありますが、印刷では一字でも空白にする譯には行かない、つまり百パーセントが求められると云ふことになりました。
しかし、JISに對してもの申すと云ふのは畏れ多いことですし、フォントの權利關係が複雜と云ふこともあつて、組織決定には至らず、議論は中途で終はつてしまひました。
――異體字にコードポイントを割り當てるべきだといふ考へ方に對し、組版をやつてをられる方々は、コードポイントは例示字體だけにあたへ、包攝される異體字は書體のバリエーションのように組版技術で出せばよいと主張されています。下請で組版專業にやつてをられる皆さんにとつては、組版の比重が下がることは、仕事の量と單價に直結するわけですから、感情的になるのも仕方のないことでせう。うちも組版關係者からの嫌がらせFAXのために、三日間、電話が使へなくなるといふことがありました。
市川 組版・印刷に携はる者として、そんな卑劣な嫌がらせをする同業者が居るとは信じられません。印刷業に吹き込む技術革新の風に不利益を被る會社がある一方で、業態を擴大してゐる會社もあります。印刷業界と云つても、利害はさまざまなのです。
――さういふことですか。しかし、外部に向かつて發言されないことには、部外者にはわかりません。聲の大きな人たちの發言がすべてだといふ受けとり方が生まれるのも、やむをえないかと思ひます。
字はあればあるほどいいといふことですが、GT明朝や今昔文字鏡のやうな大文字セットについては、どうお考えですか?
市川 JAGRAは、毎年、お臺場の國際見本市會場でフェアを開催してをりますが、GT明朝のプロジェクト・リーダーの田村毅先生に御講演をお願ひしたことはあります。
――JAGRAは組織としてGT明朝を支援してゐると言はれてゐますが。
市川 さういふ決定はしてをりません。田村先生に御講演いただくと云ふ決定はいたしましたが、GT明朝の支持とは別の問題です。第一、GT明朝はまだ出てきてをりませんから、支持すべきものなのか、批判すべきものなのかもわかりません。
――さうだつたのですか。「日本語の文字と組版を考える会」のGT明朝批判については、いかがですか?
市川 印刷に携はる者として、總論についてはうなづける部分があります。しかし、GT明朝の實物が出てきてゐないので、各論については何とも申し上げられません。とにかく、情報がないので。
――GT明朝はぼくもよくわかりません。JCS委員會は、特に義務づけられてゐなくとも、97JISから公開レビューといふ形で試案を公開してゐます。今昔文字鏡は會費無料で誰でも會員になれますし、進捗状況は入會しなくてもWWWでわかります。ところが、GT明朝はJISと同じ範圍のソースから外字データを收集してゐることが明らかにされてゐるだけです。
ソフトウェア開發で機密を守らうとするのは理解できますが、漢字を蒐集するのを祕密にするのは不可解です。
市川 どうなつてゐるのでせうか。
――『今昔文字鏡』をBTRONに載せるといふ話もあるやうです。
市川 その話は私も聞きました。坂村先生御自身が『文字鏡』研究會の古家さんに、ぜひ載せませうと仰つたさうです。
――最近、作家の肉筆原稿が法外な値段で取引されるなど、原稿が神格化されてゐる傾向があるやうです。その點についてはいかがですか。
市川 原稿に値段がついてゐる點についてはよくわかりませんが、原稿の神格化は憂ふべき傾向と思つてゐます。「手書き原稿にはこんな誤字や假名遣の間違があつたぞ、其の通りに印刷してないのは怪しからん」といふことになりかねません。僭越かも知れませんが、私たちは少なくとも印刷された作品は、比率はともかく、著者と印刷者との共同制作と思つて受注してゐます。
昔はあの先生の原稿は、專らどこどこの印刷所の誰それが組むのだと云ふ話がよくありました。原稿では略字になつてゐても、この場合は正字に直す、別の場合は直さないと云ふことを職人がよくわきまへてゐたのです。
――あ、さういふ鹽梅は印刷所の方でやつてゐたのですか。ぼくは出版社の校正部がやつてゐるのだとばかり思つてゐました。
市川 初校の段階では校正部の手ははひつてをりません。
――さうでした。
市川 誤字脱字衍字があつたら、印刷屋の恥と云ふ意識があるのです。
――はあ。
市川 さうです。誤字があつたら、讀者の皆さんは印刷屋が間違へたと思ふでせう。偉い作家先生や、出版社の立派な編集者が間違へるなどと考へる人はゐません。
――さういふ時代もありましたが、最近は違ふやうな……。ワープロの變換ミスと思はれる同音異義語の間違ひが目につきますが、フロッピー入稿やメール入稿の場合は、執筆の段階で間違へてゐます。
市川 同音異義語には氣をつけなければいけませんが、直しすぎるのも問題です。「校正必携」の惡影響でせうか、この頃は措辭の搖れを理解しないのか、文字遣が過度に畫一化された味氣ない出版物が増えてゐます。以前のやうな表外字に對する異常なまでの拒否反應は和らいだものの、その一方でワープロでの一括置換が便利に使へるので、「いふ」、「言ふ」、「云ふ」、「曰ふ」などが混つてゐると、どれかに統一してしまはうとする、特にマニュアルなどではその傾向がありますね。
――さうですね。文字の統一に神經質になつてゐる編集者が時々ゐますね。あれは困ります。
本日はご多忙のところ、ありがたうございました。