演劇ファイル  Sep - Dec 1999

1989年 8月までの舞台へ
1990年 1月からの舞台へ
加藤弘一

*[01* 題 名<] 夜明けの星たち
*[02* 劇 団<] マールイ劇場
*[03* 場 所<] セゾン劇場
*[04* 演 出<] ドージン,レフ
*[05* 戯 曲<] ガーリン,アレクサンドル
*[06  上演日<] 1989-09-02
*[09* 出 演<]アキーモワ,ナターリヤ
*[10*    <]シェスタコーワ,タチヤーナ
*[11*    <]セレズニョーワ,イリーナ
*[12*    <]フィリモーノワ,ガリーナ
*[13*    <]オシプチュク,ウラジーミル
*[14*    <]グリダーソワ,マリーナ
 モスクワ・オリンピックのために郊外の元精神病院に追いやられた娼婦たちの話。天井が高く、奥行の深いセゾンの舞台に、低い中天井とコンクリート打ち放しの背景壁を作り、間口だけはそのままなので、ひどく圧迫感のある細長い空間が出来上がる。しかし、背景壁の後ろは何もない暗い空間になっていて、照明のグラディエーションでよけい深みが出ている。中央の扉の向こうには、つねにこの空間が広がっており、場面によっては背景壁を跳ね上げてしまって、この空間をむきだしにするし、裸でからみあう男女を扉の所に立たせ、背後からライトを当てるという演出もやっている。ラストの聖火が通るシーンでは、娼婦たちは中天井の上に上って、客席の方に向かって手を振る。荒涼としているに違いないが、この空間感覚は面白い。
 ヒーローを出さないものの、古いというか、古典的な「問題劇」で、台詞も現実告発調だし、女たちが男たちにつぎつぎと乱暴されるという重苦しい筋だが、どこか楽観しているというか、すごく単細胞なのだ。これが社会主義国の演劇なのかな……と肌の違いを感じた。そういえば、「イルクーツク物語」にも通じる明るさがある。若い娼婦のマリア(小柄だが、いい体をしている)を中心に裸や下着姿を出して頑張っているが、その出し方がダサイというか、ソ連ではさぞかし冒険だったでしょうという感じなのだ。しかし、冒険とはいっても、社会主義リアリズムの範囲内での冒険なのだが。芝居そのものはリアリズム劇として水準が高い。
 2時間20分を一気にやるのはすごいスタミナだ。「兄弟姉妹」は6時間の大作だそうだが。
 レニングラードの劇団の来日公演。
*[01* 題 名<] 欲望という名の電車
*[02* 劇 団<] 
*[03* 場 所<] サンモール
*[04* 演 出<] 村田大
*[05* 戯 曲<] ウィリアムズ,テネシー
*[05* 翻 訳<] 小田島雄二
*[06  上演日<] 1989-09-19
*[09* 出 演<]岸田今日子
*[10*    <]立石凉子
*[11*    <]樋口隆則
*[12*    <]北見敏之
*[13*    <]伊藤幸子
*[14*    <]青山伊津美
 喜劇的側面を掘り起こした「欲望という名の電車」だ。ブランチ対スタンリーを主軸にする演出しか見ていなかったが、この舞台は周囲の人物を丁寧に描き、対話劇的な面白さを引出している。ステラの立石(あっけらかんとして可愛い)、ミッチェルの北見がすばらしい。スタンリーをやった新人の樋口は小ぶりだが、これはこれでいい。
 ブランチの切り返しの台詞がこんなに鋭く決り、笑いをうむとは。「あの男の前では何十万年という時間が無駄に通り過ぎたのよ」とか、「類人猿の仲間が遊びにやって来る」なんていう台詞は今日はじめて聞いた気がする。従来は独白や傍白の部分にばかり力が入って、丁々発止の台詞劇の面がお留守になっていたのではないか。もちろん、岸田の怪しげな台詞回しの功績だが、北見もすばらしい。朴訥な善人というだけではなく、中年男の滑稽感、哀感がにじみ出ているのだ。
 ただし、その分、独白の部分、特に対話から独白に移っていく部分が弱い。あでやかな夢が立ち現れて来るかわりに、台詞がペタッと床に貼りついてしまうのだ。真相を知ったミッチェルがブランチをなじり、悲惨な現実を突きつけいてく場面はすごいのだが、直前のデートの場面でのアランの死の告白に力がないので、良さが半減したように思う。たまたま岸田の調子が悪かったというより、対話劇的側面を強調しすぎたためではないか。あんまりブランチがみごとに切り返すので、彼女の印象がしたたかな女になってしまい、傷つきやすさとか、脆さとかが薄れてしまったのだ。スタンリーに強姦される場面で(こんな演出、ありか?)、彼女の声がしわがれた声に変るのも、したたかなブランチという印象を強める。ポーランド人という台詞がなくなっていたり、ラジオがテレビになったりと、相当台本をいじった形跡がある。音楽を少なくして、ジェット機の効果音をすごい音響設備で入れたのは成功している。間口の小さな劇場だが、舞台の奥行があるので、狭苦しくならず、二間のアパートのゴタゴタした感じをよく出している。
 花売りの老婆に南美江が出るという「ごちそう」は今日はなかった。残念。
*[01* 題 名<] 幕末純情伝
*[02* 劇 団<] つかこうへい事務所
*[03* 場 所<] パルコ劇場
*[04* 演 出<] つかこうへい
*[05* 戯 曲<] つかこうへい
*[06  上演日<] 1989-09-20
*[09* 出 演<]平栗あつみ
*[10*    <]平岡徳馬
*[11*    <]石井愃一
*[12*    <]春田純一
*[13*    <]塩見三省
*[14*    <]高野嗣郎
 60分+110分の長丁場だが、最後までボルテージが高く、満腹状態。歌謡ショー仕立てでチャンバラをやり、沖田総司が女で、勝海舟の義理の妹、しかも土方と竜馬で三角関係だったというぐじゃぐじゃの筋だが、総司は女で捨て子で(何と皇女和宮の娘)、牢咳病みで母親殺しというスティグマを負っているところがポイントだ。百姓は結核がうつらないという土方の言葉に感激して彼女は新撰組に入るが、小作人の食いつめ者上がりの隊士たちにいいように利用されるという、いびりのパターンになるが、今回は仲間意識といびりの関係がうまくつぼにはまって、えぐい笑いがたっぷり。衣裳はほとんどトレーナーで通し、カラオケ・マイクをベルトにつるしてチャンバラをやる。スモークとギンギラギンの照明は豪華だが、舞台装置はまったくないというパターンをパルコ劇場でも通し、あの空間を小劇場に変えてしまっている。
 竜馬役の西岡がすばらしい。赤いビキニで出て来たりもするが、口跡が抜群によく、早口の土佐弁でも完全に聞取れ、明るさと品がある。彼が出て来るだけで、空気が華やかになり、舞台のレベルが二段階くらい上がる。いびりが陰険にならなかったのは、この竜馬のおかげともいえる。
 隊士役の木下浩之も口跡がいいが、あの朗々とした声をいかがわしさを生みだす方向で使っている。明日の日本云々という理想論を茶化すのには一番効果的だ。石井愃一の桂小五郎は手堅い。若い役者たちのぶれの大きな芝居をピシッとまとめている。
 勝海舟をやった春田は JACのメンバーだというが、アクションの上手さといかがわしい二枚目ぶりもさることながら、母親を殺したと総司をいびる場面など、完全につか芝居の役者になっていた。オーディションで選ばれた鈴木聖子は目立つ場を与えられたけれども、存在感は薄い。レベッカの「フレンズ」は良かったが。岩倉具実の若林ケンは「別れの朝」を臭く歌う。
 総司役の平栗あつみは受けの芝居はすごくいい。長台詞でミエを切る竜馬や小五郎を見上げる時の横顔が美しい。太腿チラチラでも清潔感がある。あつみちゃんコールに愛敬をふりまくのもかわいい。しかし、自分が主になる芝居は物足りない。もっとも、それでもいいように作ってあるわけだが。
 パルコ劇場初の二ヶ月ロングラン。立ち見がかなり。
*[01* 題 名<] 炎の人
*[02* 劇 団<] 民藝
*[03* 場 所<] サンシャイン
*[04* 演 出<] 滝沢修
*[05* 戯 曲<] 三好十郎
*[06  上演日<] 1989-10-26
*[09* 出 演<]滝沢修
*[10*    <]鈴木智
*[11*    <]戸谷友
*[12*    <]岩下浩
*[13*    <]土師部歩
*[14*    <]田口精一
 最初の場面が炭坑の労働争議で、最後の精神病院の場面に「ゴッホを理解しなかったフランス人、ベルギー人をわたしは憎む」なんていう宇野重吉のナレーションがかぶさる何ともくさい芝居だが、滝沢の気迫の演技でセンチメンタルな部分が昇華され、見ごたえがあった。ゴッホのエキセントリックさが私小説的な自虐として台詞化されているが、やはり滝沢の力で自虐をこえたデモーニッシュなものに高められている。また、炭坑、港町、パリ、アルルと場面ごとに雰囲気がコロコロ変ってしまうが、滝沢の存在感で一本筋が通った。逆にいうと、滝沢以外の役者がやったのでは、見るに耐えない時代遅れの芝居だということだ。
 ゴーギャンの岩下は天才の傲慢さを出して、とてもいい。献身的なテオの鈴木も説得力がある。モデル兼娼婦のシーンの戸谷はヌードで健闘しているが、影がうすい。仙北谷の方で見たかった。土師部歩のラシェルは奔放でいい。面白かったのは、ロートレック、ベルト・モリゾといったパリの画家たち。内藤安彦演ずる画材商のタンギー(人の良さが出てとてもいい)の店が画家たちのサロンのようになり、議論を戦わせているのだが、みんなそれらしくて笑ってしまった。ロートレックの稲垣隆史は「シュベイク」でヒットラーをやった人だというが、どうやってばけたのだろう? ズボンが太かったが、膝で歩いていたのか? それにしては動作が敏捷で自然だったが。
 滝沢のゴッホはやはり名品だ。戯曲のつもりとしては私小説的駄目男なのだが、滝沢が演じたことで、ギラギラした生臭さが出て、人物像として立体的になった。驚いたことに、今回はプロンプなしだった。ちょっと台詞につまる場面はあったが、立派なものだ。
 マチネのせいか、やけに爺さんが多かった。サンシャインの男用のトイレがこんなに混んだのははじめて。
*[01* 題 名<] ガールフレンド
*[02* 劇 団<] 自転車キンクリート
*[03* 場 所<] 紀伊国屋ホール
*[04* 演 出<] 鈴木裕美
*[05* 戯 曲<] 飯島早苗
*[06  上演日<] 1989-11-13
*[09* 出 演<]歌川椎子
*[10*    <]吉利治美
*[11*    <]柳橋りん
*[12*    <]徳井優
*[13*    <]吉田紀之
*[14*    <]大川豊
 現代版松竹新喜劇だ。社員のサボリ場所でもあれば、密会場所でもある会社の資料室を舞台に、朝から深夜の残業までを「ナッシュビル」形式で描く。横町の人情はもはやリァリティを失ったが、会社という舞台を得て、新喜劇直系の大衆喜劇が甦っていたのだ。形式的にはすこぶるわかりやすいが、ここに盛られている叙情はすこぶる理知的なものだ。そして、あれだけ理の勝ったこみいった台詞の内容に、若い観客は固唾を呑んで聞入っている。彼らは確かにあの台詞や心情にリァリティを認めているのだ。
 幕開けはOLたちがウェディング・ドレス姿で踊るイメージ・シーン。続いて廊下の書き割りが降りて来て、掃除のオバサンたち3人のお喋りがはじまる(脚本家と演出家はこのオバサンの中にいる)。そこへ久松という若い社員が現われ、受付の柳橋への思いを告白すると、彼女は実は男だと彼に吹こむ。柳橋男説を軸に午前中がはじまり、やがて本題の桃山花菜子(歌川)と樋渡の婚約発表のゴタゴタがからんでくる。ラストでは男に捨てられた花菜子と、実はやはり男だった柳橋が抱きあうところへ、シュレッダの屑が羽のように舞狂う。一転したエピローグでは、結婚してお腹の大きくなったオールド・ミスの松山が久しぶりに訪ねて来て、資料室で皆の後日談を話合う。
 あざといくらいうまくて、「躍進するお嬢さん芸」どころか、小劇場版松竹新喜劇だ。この筋に二人のあくの強い客演男優を味つけにはさむが、これが実に効いている。一人は「ザズゥーシアター」の吉田で、妻に離婚されようとしている現実を三ツ目の宇宙人の話で茶化す、万年ヒラのいい加減社員を演じる。同じおおげさなジェスチャーを繰り返し、笑わせる。もう一人は、なんと大川興行の大川豊。癌で余命いくばくもない、影の薄い課長役だが、妙に浮き上がりながら、とんでもなく哲学的な怖い台詞を吐く。それがすごくリアルなのだ。こんなに知的な男だったのかと見直してしまった。
 歌川は園佳也子風のチャキチャキ女優。吉利はまさに加藤正子で笑ってしまった。柳橋はミスター・レディーというもうけ役だが、あっさりしすぎている。同期より早く主任になったことを意識しすぎる徳井は人のよさで役を救っている。
 初の紀伊国屋公演。2500円でパンフをサービス。4時という半端な時間だが立見がでる。
*[01* 題 名<] ドレッサー
*[02* 劇 団<] 松竹
*[03* 場 所<] サンシャイン
*[04* 演 出<] エイアー,ロナルド
*[05* 戯 曲<] ハーウッド,ロナルド
*[05* 翻 訳<] 松岡和子
*[06  上演日<] 1989-11-14
*[09* 出 演<]三國連太郎
*[10*    <]柄本明
*[11*    <]三田和代
*[12*    <]中島葵
*[13*    <]唐沢潤
 幕が開いて 4日目のせいか、柄本の調子が出ず、初演より見劣りがした。加藤健一は持前のねちっこさで、ホモセクシャルな愛情のもつれを三國との間にかもしだしたが、柄本はドライでフットワークのいい演技で別のノーマンを作りだそうとして、まだ焦点が絞れていない印象だ。加藤のノーマンが愚直な道化だとするなら、柄本は攻撃的な道化を狙い、台詞から多くの笑いを引出しているが、肝心の役のイメージの統一が無く、座長を誘惑したアイリーンを責めるシーンでも、何に怒っているのだかわからない。1ヶ月あるから、いいところまでいくかもしれないが。三田和代の座長夫人も渡辺えり子より見劣りがする。そもそも、冒頭の二人だけの場面がピンボケだったし、幕間で休んでいる三國をなじる場面でこそ、世話物的な味を出したが(それとて、持ち芸でこなしているだけだ)、それ意外の場面では、あの役がもっている滑稽さを出すところまでいっていない。もともと、滑稽さというなら、渡辺にハンデがあるにしても。中島葵のマッジもつまらない。後藤加代には怖い反面、妙な色気があって、そこが面白かったが、中島のだと抑えすぎて、ひからびたただのオールドミスだ。
 逆によかったのは三國とアイリーンの唐沢潤だ。三國は芝居の陰影が深くなって、疲れ果てた場面では、本当に今にも死にそうに見える。だから、元気になってアイリーンのお尻をさわるところにも、滑稽さだけでなく凄みがあるし、ノーマンの「座長、お年をとる時間ですよ」という台詞がすごく効いている。今回を見てしまうと、前の三國は元気すぎて、一本調子だったと思う。唐沢はすごくいい。小姓役の中性的な色気が三國の老醜を際立たせているし、2幕で老座長にせまるシーンでは、演劇少女のひたむきさを出して、この小さな役をニーナのように大きなものに格上げしてしまった。彼女のクレオパトラを見ておくべきだった。
 プログラムを買って席に戻ろうとしたら、原田美枝子を見かける。背をピンとのばして、針金みたいに細く、稟とした気品がある。黒いマントで、5列20番の席に一人で座っていた。
*[01* 題 名<] The Art of Success
*[02* 劇 団<] ライミング
*[03* 場 所<] ベニサン
*[04* 演 出<] 栗山民也
*[05* 戯 曲<] ディア,ニック
*[05* 翻 訳<] ジェムス
*[06  上演日<] 1989-11-22
*[09* 出 演<]田代隆秀
*[10*    <]中島晴美
*[11*    <]吉田鋼太郎
*[12*    <]余貴美子
*[13*    <]阿知波悟美
*[14*    <]沖恂一郎
 中島晴美がすばらしい。ホガースがモデルにする死刑直前の殺人犯の役だが、舞台真ん中の板を跳ね上げて出て来た瞬間から、気迫のこもった芝居で圧倒する。山猫というか、野良猫というか、野生的な敏捷な身ごなしで、目が輝いている。こんなにすばらしい女優だったんだなと再認識する。売女のように描いたと怒って、絵を取返すために脱獄するというとんでもない話だが、彼女がやると不自然ではない。ホガース家の寝室で、子供みたいなホガース夫人(都築香弥子で、荻野目慶子のノリだ)、ウォルポール首相(沖恂一郎)の三人でからむシーンが笑わせる。
 もう一人、「娼婦一代記」のモデルの売春婦をやった余貴美子もいい。冷たい印象の美形だが、とぼけた声が天性の明朗さを感じさせ、さばさばした現代風のノリの娼婦になっている。だだっ子のようなホガースを理解し、手のひらの上で遊ばせる母性のイメージをこんなに軽く表現するなんて、はじめて見た。阿知波は太い声から細い声まで使い分け、女郎屋の女将を豪快に演じて懐の深さを見せた。王妃の板倉加代子も自然な貫禄があって芝居の奥行を広げた。
 女優陣の活躍に較べて、男優は田代も含めて受けに回った。田代のホガースは手堅いが、主役を張るのをさけ、女優の引立て役に徹しているし、吉田のフィールディング(「トム・ジョーンズ」の!)も、副主人公格の役なのに印象が薄い。むしろ、印象的だったのはウォルポールの沖で、首相の傲慢さをさんざん見せた後で、王妃にいいようにあしらわれる、なさけない中年男を好演した(彼の貧弱な下着姿はどうしても必要だ)。どうやら、栗山演出は反体制の男のドラマだった戯曲を、女のたくましさのドラマに換骨奪胎したらしい。
 5メートル四方の正方形のテーブルの上に、白い紙を貼った舞台デザインはすばらしい。背景にかしいだ逆L型の額縁の角をおいた装置は洒落ているし、一人で鉄琴とパーカッションを担当した真理という演奏家もみごとだった。
 County NutWestというイギリスの証券会社が協賛しているせいか、パンフも立派だし、年齢の高い客演陣もそろえている。
*[01* 題 名<] ドラキュラ伯爵の秋
*[02* 劇 団<] 木山事務所
*[03* 場 所<] Part3
*[04* 演 出<] 末木利文
*[05* 戯 曲<] 別役実
*[06  上演日<] 1989-11-28
*[09* 出 演<]中村伸郎
*[10*    <]三谷昇
*[11*    <]楠郁子
*[12*    <]林昭夫
*[13*    <]水野ゆふ
*[14*    <]林次樹
 洗練の限りを尽くした舞台。美しく寂しく、そしてしめやかである。
 林昭夫の眼帯をした執事、楠郁子の魔女、高木均のフランケンシュタインのような大男、林次樹の猫男と、滑稽なくらい兇々しい扮装で現れたドラキュラ伯爵の一族がタバスコソースの訪問販売人を仲間にひきこんでいく。彼は血を吸われずにすむが、例によって別役一流のドラマツルギーに引っぱりこまれ、怪物家族の一員になっていく。恐怖はなく、むしろ自我が溶解していく陶酔感がかすかにただよっている(「友達」よりも「砂の女」に近い)。第二場の販売人の家で妻らしい若い女(水野ゆふ)が一族に抵抗するが、販売人は彼女を見殺しにし、彼女の耳だけが残る。亡き妻の耳をしゃぶって血の飢えをまぎらわしているという伯爵の運命を、彼も辿るのだろうか。
 中村伸郎は終始車椅子の上だが(立てないわけではない)、台詞は明晰で張りがある。至芸というべき境地に達しているが、半分あっちへ行っているというか、気配の上で共演者と微妙にずれる部分がある。
 伯爵があらわれるまでの前半、洗練の極というべき密度の高い舞台が展開されるが、伯爵が登場すると、ふっと風穴があき、気が澄んで、極度の洗練すらざわついた未熟なものに感じられてしまう。一族が扮装をした顔で仏頂面をする場面は特におもしろいが、中村の静謐の前ではポーカー・フェースの作意が見えてしまうのだ。
 エネルギー的には若い役者を圧倒することは出来ないので、ざわついた舞台の中に異質な静寂があるという印象になっている。
 ただし、最後の三谷と二人の部分は究極というべき出来だった。三谷は中村の空気感に同調し、自我を頼りに生きてきたのに、自我の崩れを見てしまった男の頽廃をにじませていた。中村の儒教的パーソナリティの帰結といえるだろう。
*[01* 題 名<] メアリ・スチュアート
*[02* 劇 団<] 
*[03* 場 所<] サンモール
*[04* 演 出<] 大間知靖子
*[05* 戯 曲<] シラー
*[05*    <]@スペンダー
*[05* 翻 訳<] 安西徹男
*[06  上演日<] 1989-11-29
*[09* 出 演<]高林由紀子
*[10*    <]松本瑠美
*[11*    <]佐古雅誉
*[12*    <]佐々木敏
*[13*    <]井上倫宏
*[14*    <]平木久子
 疲れた。今年はラシーヌをやらなかったと思ったら、シラーを引っ張りだして絶叫芝居をかけたわけか。決して水準の低い舞台ではない。男優陣がすばらしい。メアリを恋い慕って謀反に突走るモーティマーの井上は様式的な台詞に確かに内発的な力をあたえたし、バーリー卿の佐々木敏は優雅で格調のある政治家を好演した。佐古のレスター伯は裏切ったり、恋の激情に苦しんだり、ややこしい役だが、例の絶叫調でまとめた。野村昇史のタルボットはちょっと役不足だが、破綻してはいない。青山伊津美の女王秘書は政治の荒波にもてあそばれるお人好しにちょうどいい。
 それから較べると、肝心の女優陣は見劣りがする。エリザベスの松本はいい線をいっているが、メアリの高林は台詞に格調を持たせようとして肩に力が入りすぎた(全員肩に力が入っているが、彼女は特にひどい)。処刑直前の告解の場面は抑えた喋りかたでよかったが、あとは苦しい。しかし、わざとらしさをさけようとすると、平木の乳母みたいな糠味噌くさい赤毛ものになってしまう。むずかしいものだ。
 しかし、役者の演技以前のところで、戯曲自体に問題があると思う。名高い二人の女王の対決の場面は唖然とした。まるっきりヒステリー女の喧嘩ではないか。メアリ処刑をめぐって揺れるエリザベスの描写もあきれた(好調だった松本もここでこけた)。自分では決断できず、責任を秘書におしつけてしまうわけで、ラシーヌにもこんな場面があったが、なんでこれが悲劇なんだ。大陸の悲劇概念をあらためて疑問に思った。結局、ラシーヌと同じ後味の悪い、疲れる絶叫芝居にしかならないのは、女性的な感情の嵐を越えるものが見えて来ないからなんだろうと思った。
 当日だが、いい席に座れた。本島氏に出くわす。アングラ時代の仲間から券をもらったとか。楽日だが、ただの客みたいのが結構いるみたいだった。小屋主の手前、空席は作れないのだろう。
*[01* 題 名<] 恋愛小説のように
*[02* 劇 団<] 木冬社
*[03* 場 所<] 紀伊国屋ホール
*[04* 演 出<] 清水邦夫
*[05* 戯 曲<] 清水邦夫
*[06  上演日<] 1989-12-05
*[09* 出 演<]芦田紳介
*[10*    <]松本典子
*[11*    <]中村美代子
*[12*    <]黒木里美
*[13*    <]川田涼一
*[14*    <]田中幹子
 遅刻したので、最初の20分は見ていない。廃駅で芦田紳介が釣竿をかまえている場面から。音楽と照明に頼りすぎかなと思ったが(「黄昏」を意識している)、芦田の存在感がやはりすばらしいのだ。隣同士だった老人と中年の女の慕情のようなものに、土地問題がからむという喜劇で、木冬社らしくない軽演劇的なつくりだ。
 両家の若い世代はさっさと土地を売って、ビデオ・ショップをやるとか、スーパーをやるとか、新しい生活をはじめようとしている。しかし、母親がぼけていて、売ることにいい顔をしていない。東京で生活している叔父や叔母たちも土地売却で呼ばれて……というわけだ。
 若い役者の動きは完全に軽演劇している。自転車キンクリートでもそれは感じたが、ここはアングラ色が強かった劇団なのに、時代の流れか。多分、最初と最後の幻想場面が軽演劇的な部分をはさむという構成になっていると思うのだが、幻想場面のつなげ方がかなり危うい。松本がまず旅の一座の幻におびえ、克服し、次に芦田が心臓発作をおこして、松本を妻と勘違いするという二段構えになり、無事に現実復帰させている点が今回の喜劇たる所以だが、芦田紳介の存在感でどうにか持っているようなものだ。他の役者だったら苦しかったはずだ。
 芦田の「そうなんだよ」という喋りかたが中村伸郎そっくりなのには驚いた。あれが老人の喋りかたなのだろうか。それにしても、似ている。
*[01* 題 名<] 野田版・国性爺合戦
*[02* 劇 団<] パルコ
*[03* 場 所<] セゾン劇場
*[04* 演 出<] 野田秀樹
*[05* 戯 曲<] 野田秀樹
*[06  上演日<] 1989-12-12
*[09* 出 演<]桜田淳子
*[10*    <]池畑慎之介
*[11*    <]円城寺あや
*[12*    <]橋爪功
*[13*    <]松澤一之
*[14*    <]野田秀樹
 「火の鳥」のヤマト篇やら「乞食と王子」、「幸福の王子」やらをごたまぜにした国性爺合戦で、遊眠社の芝居そのもの。はっきりいって疲れた。休憩なしとはいえ、二時間十分の芝居なのに、抹消的な才知だけでは持ちようがない。スピードがどうのこうのとか、連発されるくすぐりがどうのとか以前の問題として、唐十郎流のイメージの重ねあわせが散乱するだけで、重ねあわせになっていないからだ。それなのに、まわりの女の子たちは大喜びしていたし、感激して泣いている娘までいた。わからない。
 しかし、役者たちはうまかった。橋爪、ピーターをはじめとして、客演陣も野田の台詞を完全にものにしていて、多分、一二〇パーセント、良さを引出していた。演出者としての野田の力量もあるだろう。特筆すべきは桜田淳子のすばらしさ。亡国の妃にすりかわる乞食娘の役だが、本当にいい。最初、熊谷真美かと思ったが、声で気がついた。野生的な息吹と、稟とした気品の高さがこの芝居をワンランク引きあげた。ラストの横座りになって合掌するポーズは神々しい。野田の書いた台詞をこんなに美しく語ったのは、彼女が初めてではないか。彼女でシェイクスピァの喜劇をやったら、すばらしいだろう。結局、駄目なのは脚本だけだ。
*[01* 題 名<] 盲導犬
*[02* 劇 団<] 東宝
*[03* 場 所<] 日生劇場
*[04* 演 出<] 蜷川幸雄
*[05* 戯 曲<] 唐十郎
*[06  上演日<] 1989-12-13
*[09* 出 演<]桃井かおり
*[10*    <]財津一郎
*[11*    <]木村拓哉
*[12*    <]壌晴彦
*[13*    <]渕野直幸
*[14*    <]立原美穂
 唐十郎が瀟洒な叙情劇になってしまった。特にコイン・ロッカーの広場(日生の広い間口を全部使っているので、本物と同じくらい広い)で爪に灯をともす桃井と、盲人の財津の二人の場面ではかわいらしい叙情劇だ。どうなっているのかと思っていたら、大門の警官が出て来て、猥雑で怪しげな感触だちょっとだけ生まれ、続く盲導犬学校の教師たちの登場で、かなりアングラらしくなった(校長の壌がこってりした味を出していい)。しかし、なんか違うと思っていたら、教師たちが去る中で、一人だけ引返してきた渕野のタダハルがとてもいい芝居を見せてくれた。まさにアングラの匂いがぷんぷん。これを受けて、桃井もそれらしい雰囲気になるのはさすがだ(いい感じが出てきたところで、周りのオバタリアンがコチョコチョ喋りだして耳障りだった。何を考えているんだ)。もっとも、結局はアングラとは別ものなんだけど。
 別にアングラを最上のものと思っているわけではない。しかし、アングラとは違う世界を見せて、圧倒してくれたのならともかく、こんな比較をしなければならないのが残念だ。財津は盲人役といっても、盲人の異人性を出しているわけではなく、「雨」の塙ほきいちにはおよばない。不破万作の犬屋の主人もものたりない。胴輪をはめられた桃井がちっとも淫らでないのが問題だ。彼女はかなりいい線をいっていただけに惜しい。
 芝居は適当にまとまっているだけだが、パンフが充実している。桜社には連合赤軍の人間が出入りしており、それだけに浅間山荘事件のショックが大きく、その後の蜷川や清水の芝居の鎮魂歌的な色調を与えたという大笹吉雄の指摘は面白い。
*[01* 題 名<] 人間合格
*[02* 劇 団<] こまつ座
*[03* 場 所<] 紀伊国屋ホール
*[04* 演 出<] 鵜山仁
*[05* 戯 曲<] 井上ひさし
*[06  上演日<] 1989-12-26
*[09* 出 演<]風間杜夫
*[10*    <]すまけい
*[11*    <]辻萬長
*[12*    <]中村たつ
*[13*    <]岡本麗
*[14*    <]原康義
 散漫。太宰をめぐる三人の男たちの17年間にわたる交際を七場とプロローグ、エピローグで描く。共産党員の佐藤浩蔵が辻、役者の山田定一が原、津島家の番頭の中北芳吉がすま。彼らにからむさまざまな女たちは、中村と岡本。
 農民の収奪によって財をなした生家への反発から左翼運動へ走るが、生来の甘ちゃんから運動に徹しきれず、右往左往するさまを描くわけだけれども、論が消化できていないので、芝居を見たという手ごたえがない。くすぐりはあるが、それだけ。長屋の場面で、インターをおかみさん連中に歌わせ、賛美してしまうというのも解せない。東欧情勢の急変でひろがった社会主義ダメ論に反発してみたということだろうか。ひっくり返すべきだった。
 偏頭痛のせいかもしれないが、失望した。中村、岡本の二人は場面ごとにいろいろな女を器用に演ずるが、演技力の無駄遣いという感じがしないでもない。辻を戦後の部分で堂々たる左翼の闘士にしてしまうのが、決定的な欠陥だ。戦前の部分では、じたばた逃回って、それなりに面白かったのだが。風間はまあまあ。すまけいの酔態の場面は見もの。本当に気持ちよさそうだし、酔っぱらいのてのつけられない感じがよく出ていた。
Copyright 1998 Kato Koiti
This page was created on Oct16 1998.

演劇1989年1
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